ケンタとジュンとカヨちゃんの国のレビュー・感想・評価
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行き止まりの世界に生まれて
施設育ちで兄弟のように育ったケンタとジュンとジュンのことが大好きなちょっとウザいカヨちゃんが、北海道にいるケンタの兄の元へと旅するロードムービー。
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2人が働いているのは解体工場で毎日目の前の壁を壊しているのに、壊しても壊しても2人の未来は開けてこない。まさに行き止まりの世界に生まれた2人がどうにか世界をぶっ壊せると信じて兄に会いにいく。
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このロードムービーの終わりには絶対ハッピーエンドなんて待ってないわけで、途中でバイクに乗ってるふたりが『イージー・ライダー』っぽかった。
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これは大森監督の社会の底辺で生きる人間映画なので『タロウのバカ』『光』『ぼっちゃん』に通じてる。汚い部屋とか、生活レベルの低さを演出するのほんと上手い。
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それにしても『光』では兄が弟を殺す話で、こっちはジュンが兄同然のケンタを殺す。大森監督って、弟を殺したくて弟に殺されたくもあるんか?とか想像しちゃう(笑)松田優作という偉大な父がいて、兄弟で俳優をやってる松田翔太っていうのも大森監督と似たような境遇だしね。
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私たちが望むものは
誰とでもセックスする女カヨ(安藤)。そんな女の子でもしばらく一緒にいたら愛情がわくだろうな。だけど、旅の途中で彼女の金を盗み、置いてけぼりにしてゆく。ちょっと痛かった。しかも、その後はおっさんの車に乗っていたから、体を売ったのだろう・・・
網走の刑務所へ兄に会いに行くという明確な目的があるケンタ(松田)。ただ彼についていくことで自らのアイデンティティを見つけようとするジュン(高良)。社会から疎外されたと感じている様子と、日頃の鬱憤を何にぶつければいいのか探しているようにも見える。
ケンタは常にジュンとは違うと言ってた。それは単に、未来、光、鬱屈した世から逃げ出したいともがいてるケンタと、何をすればいいのかわからないジュンとの違いだろうか。兄(宮崎将)がロリコンとしてパトカーで連れ去られようとしたとき、原付バイクでパトカーに向かっていった姿と、終盤に、拳銃を向けた裕也にバイクで向かっていった姿がダブってくる。壁を壊す“はつり”という仕事も、そうした向こうにある未来を求めていった姿の象徴なのだろう。
さらに終盤、キャンプファイヤーを楽しむ若者たちと喧嘩になり、ジュンはケンタに向けて発砲してしまう。そのあたりの心境はちょっと理解できなかったが、エンディングの「私たちの望むものは」(歌:阿部芙蓉美、作詞作曲:岡林信康)というテーマ曲ですべてが氷解したように思えた。
好き嫌いが別れる内容
はつり屋のケンタとジュンは、日々の閉塞感にうんざりしていた。
ブスで馬鹿で腋臭のカヨちゃんは、ただ愛されたいだけだった。
『ゲルマニウムの夜』の監督作品ゆえに、かなり身構えて観ていたのだが、かなり分かり易いストーリー展開には、逆に拍子抜けしていたら…。
やっぱり最後はよ〜解らん(苦笑)
何であんな展開にしたのかな?
一応作品中に「海の向こうには何が有る?」との会話はしていたが。
いや、海云々は解るところが在る。
日常の閉塞感。何も変わらない現実。この現状を打破する為には“ぶっ壊す”しか無い。
若者に在る、或る種の焦りみたいな物は巧く表現されていた。
それだけに、「そんな物持ち出さんでも…」と言ったところ。
まさか、松田優作のDNAを受け継いでいるからか?だったらそんな阿呆な(苦笑)
松田翔太と高良健吾。共に今時の無気力な若者像を分かり易く表現している。
今回安藤サクラは、完全なる汚れキャラ。『俺たちに明日はないッス』や、『すべては海になる』等、最近は専らこの手のキャラクターにはなくてはならない存在になりつつ在る。
新井浩文がいつも通りに嫌な野郎を演じれば、カメオ出演の多部未華子ちゃんは、まさかのキャバ嬢役で驚かす。
友人役で柄本佑が登場した際の、母親役洞口依子との関係や、施設の人達との関わり。小林薫が面倒を見ている土佐犬のエピソード等も、この2人が於かれている社会との関係性を反映しているのでしょうが、観ていてもあまりぴんとは来なかったのが本音。
これは好き嫌いが別れる作品ですね。バイクに乗る直前での、○れてるのに大○の場面も含めて。
エンディングでスタッフの表記にて、《はつり指導》と在りちょっと笑う(苦笑)
(2010年6月13日新宿ピカデリー/スクリーン8)
衝撃的でした。
こんなに奥深くこんなに考えさせられる映画に出会ったのは初めてです!
すごく切ない。けどすごくいい話。
嫌な世界から抜け出すために旅を始めたのに旅をすればするほどケンタとジュンの気持ちはすれ違って行く。カヨちゃんがいなかったらこの二人は、もっと前にこの世を去っていたんだと思う。自分の人生なのにどう生きていいのかわからないケンタとジュン。それって今まで彼らに接してきた人たちの責任でもあると思う。何でもっとちゃんと育ててやれなかったの?って思う。二人は未熟なまま世に送り出されてしまった。だから間違っているのか間違っていないのかに気づく事ができなかったんだと思う。それってやっぱり周りの人間の責任。この映画を見てるとすごく当たり前な事に気づかされる。今普通に暮らせているありがたみや周りの人への感謝とか。この映画は私の考え方をも変えた、私にとってとても大切な映画です。
重いが、映画館で観たかった。
重い…。
最後まで誰も救われない。
ジュンとケンタが自分達の取り巻く環境を壊す為にジュンのお兄ちゃんに会いに行くが、全て最悪のシナリオに導かれる。
この世界を壊せると思っていたお兄ちゃんに会うが、希望を砕かれ最後は『海の向こうには僕たちの知らない世界ある』と信じていた2人は海に入って行き、カヨちゃん役の安藤サクラさんの印象的な無表情でエンドロールへ。
エンドロールがまた印象的。
主題歌がまた最後に心にのしかかり、最後に歌詞を変えアカペラで『私達の生きる意味はあなたを殺す事なのです』と流れた時には全身に鳥肌が。
劇中の不協和音のようなイヤ〜な音楽が劇中の不安な様子を強調していて、この映画は映画館で観たらもっと凄かったんだろうと思う。
そしてカヨちゃん役の安藤サクラさん本格的には初めて観たのですが、素晴らしい演技でした。いい役者さんですね。
アイコン化されても困る
東京フィルメックスの招待作品上映時と劇場公開と二回みた。
映像センスは前作のとき同様、目を奪われるものがある。
美しいと思う。
しかし時間を置いて二回みると一回目にみてモヤモヤしたものが明確に浮かび上がってくる。
わかりやすい「貧困」や「差別」や「弱者」がアイコン化されケンタとジュンという施設育ちというシチュエーションありきの薄いものに感じ取れてしまうのだ。
ケンタとジュンの苛立ちの根を理解することは可能だが共感共有には至らないのは自分の感受性に問題があるのだろうか。
かたや、カヨちゃん。安藤サクラという女優さんの力には圧倒された。天才かもしれない本当に。宮崎将も凄まじい空気を醸していた。あの虚無の瞳孔開いているんじゃないか、という瞳。
この二人の素晴らしさは鳥肌ものだ。
知的障害者の施設のバスの場面は何のために入れたのだろう。ケンタとジュンは柄本佑演じる施設の幼なじみに会いにいく。
かれは隻眼である。母親に虐待を受け抉られたという設定で(その母親役は洞口依子)現在は障害者施設で働いている。
彼の職場の利用者たる知的障害者と一緒のバスに乗ってケンタとジュンに何を表現させたかったのだろうか。
映画全体を通して社会的弱者とか搾取される側の視点を取っているのだろうが、社会的弱者ってこれを言うのだろうか。アイコン化したようなわかりやすさに、現実のほうが遥かに残酷だわな、と思った。
ぶっ壊そうとしたところで。
映画の内容以前に、顔ぶれを観ていたら気付いた。
この作品、やたら二世俳優や兄弟だらけだなぁ~と。
監督「大森立嗣」は麿赤兒の長男、弟は大森南朋。
「松田翔太」はもちろん、松田優作の次男。
「安藤サクラ」は奥田瑛二と安藤和津の次女。
「宮崎将」は宮崎あおいの兄。
「柄本佑」は柄本明の長男。お父上も本作に出演。
…探せばまだいるんじゃないか?と思ったくらい、
なんとも豪華な二世祭り~!といった感じなのだが
内容はいたって暗い^^;
二世といっても、それぞれがもうかなり活躍している
俳優たちなのでみんな巧い。自分の役割を忠実に演じ、
監督の期待に答えているという感じ。。
孤児院育ちで自分たちの居場所を未だに見出せない、
劣悪な環境下で働いている若者二人に少女を加えた
三人の逃避行劇がメインなのだが、意味不明なほど
彼らのどうしようもない苛立ち感(過激なうえに静かな)
がこちらに伝わってくる。おバカとはいえ、昨今の若者
映画に見られるような軽々しいドライなタッチではなく、
どこまでも重い精神映画を見せられているような感じ。
加えてケンタの兄までがその感性を助長させている。
行き着いた場所に答えなんて、果たしてあるんだろうか。
重々しい男性陣の演技に反比例する紅一点・カヨちゃん。
安藤サクラの演技は特筆モノで、これほど自分をブスに
魅せた女優も珍しい。バカでブスでワ○ガという難役に、
よくぞここまで酷い台詞を…と嘆きたくなる程の演技力。
今作は、彼女あっての作品だといえる。
自分の居場所探し。。という作品を度々見かけるが、
現在の場所から抜け出せば大きな幸せが待っていると
アテもなく旅に出て、様々な出逢いから人生を決める
決断をした果てにまた、振り出しに戻るケースが多い。
それでも知らないよりはまし。ここに意味があったのだ。
と、自己納得してエンディングを迎えるのが通説になり、
なんだ結局、今の世界を大切にしろ。っていうことかと
映画だけで旅をした自分への充実度に貢献してしまう。
たまにこれでいいのか?と思うけど^^;元々不満がない。
彼らの懲りない生きざまにそんなことを感じてしまった。
(自分の人生を他人に押し付けること自体が無謀だし)
たとえぶっ壊せなくても、ほかに道もない
花村萬月原作の「ゲルマニウムの夜」に続く、大森立嗣の監督作「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」。タイトルとそのメインビジュアルからもわかるように、ずっしり重い青春映画。
物語はケンタとジュンのロードムービーを中心に進むのだが、そこでふと、この二人に現代の若者が感情移入するのは難しいかもしれないなと思った。孤児院育ちの二人は、もちろん非現実的ではないが、多くの人が共感するには不幸な境遇すぎる。だから“気分”だけでも二人と一緒に旅をしようと思うのだが、二人の悲しみや憎しみを、どこか他人のものとして受け止めてしまうのだ。だからそこでカヨちゃんがキーポイントになってくる。カヨちゃんは三人の中で一番、マジョリティな若者を体現している。少しハズれすぎている感も否めないけど、“愛されること自体”に自分の価値を見出す風潮はまさに今。ひとをどれだけ愛するかではなく、ひとにどれだけ愛されるかで自分の価値を決める。悲しいけど、ローリスクローリターンの後者が圧倒的な今ではないか。
三人の芝居は鬼気迫るものがあって、生ぬるい嘘は感じさせない。ケンタとジュンがイケメンすぎるのは気になるけど、高良健吾の孤児っぽさは見事だし、安藤サクラのホラーばりの表情がスクリーンいっぱいに広がると、思いのほか胸を打たれる。だけど、孤児院、いじめ、重労働とヘビィなエレメントだけが先行して、三人がどんどん遠くなっていく。そしていつしか何も残さずに消えてしまう。カヨちゃんだけがかすかな光として残る。
とにかく“ぶっ壊す”という意気込みのもと、ひたすら北を目指すケンタとジュン。たとえぶっ壊せなくても、ほかに道がなくても、地球はまわっていくもんな。
ラスト、失速するのが残念。最後の15分ばかり、ばっさりなくてもいいと思う。
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