「与えられた役割から降りることは出来ず、パレードは続く」パレード(2010) CRAFT BOXさんの映画レビュー(感想・評価)
与えられた役割から降りることは出来ず、パレードは続く
2LDKのシェアハウスで共同生活を送る4人の男女。ある日、金髪の少年がこの共同生活に加わる。徐々に見えてくる共同生活の若者達の関係性。そこから見える現代社会の人間関係を描いた作品。
貫地谷しほり演じる琴美が、このシェアハウスについてこんな説明をするシーンがある。
「ここって、インターネットでいえばチャットや掲示板みたいなもんだから。嫌なら出ていけばいいし、居たいなら笑っていればいい」
この序盤の台詞が物語のキーワードだ。
彼らは、共同生活というパレードから抜けられず、止まらないメリーゴーランドから降りる事は許されない。例えば、彼らはそれぞれ「ここを出て行く」と決意を口にするが、次に現われるシーンではそんな決意を忘れたかのように居続ける。そして、ラストシーンの眼差しは、誰もこの共同生活から降りる事が許されない事を示唆している。彼らは、「嫌なら出て行けば良い」と言いながら、「笑顔で居続ける」ことを強要されているのだ。
彼らにとって共同生活のシェアハウスは、居心地の良い場所だ。
一般的には、その生活を維持するために、お互いを干渉し合わないというのが鉄則だと思われている。それが「チャットや掲示板」という言葉に象徴されている。しかし、本作の主要登場人物たちは、そんな一般的な解釈では表せない関係性を築いている。
彼らはけっして他人を詮索しないわけではない。
例えば、彼らは、人の出入りの多い隣りの部屋が何をしているか分からない。売春宿なのか、新興宗教なのか、あるいは占いの館なのか。しかしそれは、別の住人から見れば彼ら自身がそう見られている事でもある。要するに、好奇心旺盛な詮索好きの「世間」と彼らは同質なのだ。
だから彼らは、ある時は隣りの部屋に潜り込み、ある時は共同生活者が出かける後をつけ、ある時は個人が所有するビデオを勝手に見るなど、他人のプライバシーを覗き見る事を悪いと感じていない。
しかしけっして互いに踏み込むようなことはしない。なぜなら、居心地の良い共同生活にとって、彼らの人間的な本質は重要ではないからだ。
重要なのは、「与えられた役割」を演じ続ける事である。
楽天的に生きている役割を与えられた人間は、友人が死んだ悲しみを共同生活者には見せられずに、好きな女の前で嗚咽して泣く。アイドルに弄ばれているバカな女という役割を与えられた人間は、アイドルが自分に本気になればアイドルと別れる。レイプビデオを見て心を癒す、どこかエキセントリックな人間は、「虐待されて可愛そうな少年」という役割を与えられた人間に、突然攻撃的になり追い出す。そんな可哀想な少年という役割を与えられた人間は、部屋から出て行って数日を過ごし、女の気が済んだ頃合いに部屋に戻っていく。
だから、皆から頼られて相談を受ける立場の役割を担った人間は、殺人の衝動を抱えている自分をさらけ出すような事は、許されないのだ。
役割を与えられた者は、共同生活という名のパレードから外れることはできない。そうしてパレードは続いていく。