劇場公開日 2010年2月5日

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「本作の核心は、恋愛よりも親と子のつながりにあると思います。」50歳の恋愛白書 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5本作の核心は、恋愛よりも親と子のつながりにあると思います。

2010年2月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 本作は、タイトル通りの恋愛映画ではありませんでした。キアヌも、キアヌでなければいけない理由が見あたらないほどの脇役ぶり。それでも、本作のタイトルにしたのは、女性ファンを取り込みたい配給会社の苦肉の策だと思います。
 本作の核心は、親と子のつながり。トラウマの根源にあるものは親子関係にあると思います。本作は、人気作家のハーブと幸福な結婚生活を過ごしているピッパの現在から、繰り返し少女時代にカットバックし、彼女が抱えているトラウマの経緯を同時進行で描いて行きます。

 ピッパが母親から逃れるように家出してしまったのは、DVではなく、むしろお節介すぎる母親の愛の押し売りに息詰まってのものでした。このトリモチのようにネバネバと子供に干渉してくる親の愛ほど、子供にとってウザイものはありません。建前は、子供を労り、導いてあげているつもりでも、しっかりそこに親としてのエゴを見抜かれているから、子供としては、その独善的な優しさが凄く嫌なのです。
 ところが親の因果が子に報いというのは、このトリモチの愛も例外ではなかったのですね。あんなに嫌っていた母親のお節介なところを、ピッパ自身が親になったとき同様のことを娘のジジにやってしまうですね。そしてジジもまた家出同然で、報道カメラマンとなり、あえて紛争地域へ取材に出かけたのです。そのため娘の消息を案じた、ピッパの心が安らぐことはありませんでした。
 ビッパも娘時代は、薬にのめり込み、荒んだ生活を送っていました。ビッパと娘のジジに共通するのは、親の独善的な優しさに対する復讐心が潜在的に働いて、無意識に親を心配させる生き方に自分を追い込んでいくところです。そして、困ったことにその発端となるトラウマ自体、ふたりともほとんど忘れてしまっているところなんですね。
 このように『かいじゅうたちのいるところ』と同様に、本作も親子のあり方について深く考えさせられる内容になっています。

 ところで、強烈な体験をするとき、忘れていたトラウマがパンドラの匣を開け放したように反応することがあります。ビッパの場合は、信頼していた夫の浮気でした。そして事もあろうに、その相手とはビッパの親友だったのです。そして追い打ちをかけたのは夫の告白でした。浮気に走ったのは、自分を男として見なくなり、介護対象として扱われたからだと憤懣やるたかない表情で口走ったのです。
 老人ホームに引っ越していらい、年老いた夫のために尽くしてきたつもりだったビッパにとって、青天霹靂の言葉だったに違いありません。

 心の支えを失ったビッパは、夢遊病癖が酷くなり、やがて自傷して入院してしまいます。ここで意外なことが起こりました。行方も分からなかったジジが駆けつけてくるのです。そして母親の傷心の深さに初めて直面したジジは、初めてビッパの辛さを理解して、心から心配かけたと、涙ながらにビッパの懐に飛び込み謝罪するのです。ここが一番クグッと泣けました。
 トラウマが解消していくためには、トラウマにかかわった親・兄弟などの人生を深く理解する必要があります。どうしてそんな立ち振る舞いをするのか、辛い思いをさせられた人物の、バックヤードに綴られてきた人生の轍を理解したとき、初めて深く赦せる気持ちが起こせるものではないでしょうか。

 えっ、じゃあキアヌ様の出番がないじゃないのということになりますね。
 キアヌが演じるクリスは、ビッパがよく買い物するコンビニの店員でした。彼も心に影があり、近所ではトラブルメーカーとして煙たがられていました。
 夢遊病になったまま、店にやってきたビッパを見て、彼女の異常さに気がついたクリス。そんなクリスを意識したとき不思議な心の安らぎに気がついたのでした。
 夫の裏切り、そして死去。ぼっかり空いた穴に、クリスの孤独さが忍び込んできました。ふたりの燃え上がるようなセックス描写が印象的。
 これがただの恋愛映画に止まらないのは、ハッピーエンドなラストシーンすら、不安定に見えてしまうところです。
 互いに心の傷と孤独を背負ったまま、15歳の年齢差も介せず、激しいセックスに身を窶すシーン。それは幸福な未来の到来よりも、一時の『渇き』を埋めるだけの刹那い関係を暗示させるものでした。
 ということで、特別に50歳だからというところは全然ありませんでした(^^ゞまぁ、お相手がキアヌ様だから、なんと羨ましい!と思わせるところがツボなのでしょう。

流山の小地蔵