ニンジャ・アサシン : 映画評論・批評
2010年3月2日更新
2010年3月6日より新宿ミラノ3ほかにてロードショー
作り手たちのニンジャ映画「再構築」の真剣さを強烈に感じさせる
タイトルとかつてのニンジャ・スター、ショー・コスギの出演から、どうしても80年代隆盛の外国製ニンジャ物の再来か?と想起させるが、過激な肉体アクションを駆使したトンデモない痛快作かも、と早々に考えをあらためることになった。プロローグの大阪の場面では、雷蔵の手により若いヤクザたちの肉体が残虐に四散し、おびただしい血が噴出する。そして、まもなく雷蔵を演じるRainが初めて肉体を披露する場面では、その研ぎ澄まされた筋肉質に驚く。マッチョとも異なる、ニンジャに必要なしなやかな筋肉美にだ。この2つの場面で最初に抱いていた「再来」が簡単に払拭され、作り手たちのニンジャ映画「再構築」のマジ度を強烈に感じさせてくれた。
忍者の根源にある精神と、現代にニンジャが暗躍していたら?を考察して大胆に融合させ、しかも80年代のニンジャ映画にあった痛快な無国籍風味をも取り込み、現代のニンジャ映画にあるべきダイナミズムとファンタジー性を提示しつつ、闘うヒーロー映画の鉄則をも堅く踏まえている。真のヒーローになり得るには一度は傷つけられ痛めつけられ、体がボロボロになりながらも、なおかつ立ちあがる宿命を背負うもの。抜け忍・雷蔵とて同様で、愛する女(ひと)の命を奪った、一族の父親的存在・役小角(えんのおづぬ)との一騎打ちに至る終盤まで、刀や手裏剣で痛々しいまでの深手を負いながらも、Mっ気観客を存分に満足させるような痛々しい勇姿をこれでもかと堪能させてくれる。雷蔵の体の傷痕一つ一つが、激しい痛みと共に愛と憎しみの記憶を刻み、且つアサシン(暗殺者)として造られた哀しみの烙印になっている。抜け忍として独り生きる彼の肉体そのものが、<物を言う>作品だと断言してもいい。
(鷲巣義明)