劇場公開日 2009年9月12日

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「監督・松本人志の評価を決定付けた一作」しんぼる 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5 監督・松本人志の評価を決定付けた一作

2025年10月19日
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鑑賞方法:DVD/BD

笑える

単純

【イントロダクション】
お笑い芸人「ダウンタウン」のボケ担当、松本人志による第2回監督作品。
謎の白い空間に囚われた男と、メキシコのルチャ・リブレのファイターである父親の姿を交互に描く。
松本人志は、監督・脚本・企画・主演を務め、盟友である放送作家・高須光聖も共同脚本に参加。

【ストーリー】
メキシコの広大な大地を車で疾走するシスター・カレンが居た。タバコを蒸し、年季の入った車を猛スピードで飛ばす。
とある一軒家では、母親が娘と息子を学校に送り出す。息子は祖父と学校終わりに落ち合う約束をする。母親は、夫であるメキシコのプロレス、ルチャ・リブレのレスラー“エスカルゴマン”の様子がおかしい事に気付く。今日の対戦相手は、自分より若くて強い“テキーラ・ジョー”だからだ。しかし、エスカルゴマンはそれだけが理由ではない様子。
程なくして、シスター・カレンがエスカルゴマンを迎えにやって来る。彼女はこの家の長女だったのだ。エスカルゴマンは娘の運転する車に乗って、試合会場まで向かう。

一方、謎の白い空間では水玉模様のパジャマにマッシュルームカットの男(松本人志)が目を覚ました。何故自分がここに居るのか分からない男は、部屋の壁から生えている幼い男の子の局部を模したスイッチを押す。すると、部屋の至る所から無数の天使像が姿を現し、それぞれが局部のスイッチだけを残して再び壁の中に消えていく。
男は混乱しながらも、スイッチを押すとそれに対応した品物が出て来る事を発見する。男は部屋からの脱出を試みて次々とスイッチを押していくが。

【感想】
前作『大日本人』(2007)では、日本の特撮ヒーロー物を芸人・松本人志の視点から捉え、ドキュメンタリータッチで描かれていた。カンヌ国際映画祭に出品される等、世間からの注目度の高さは、監督としても予想外の事だったのだろう。その評価は賛否両論となったが、監督・松本人志の評価をある種決定付けたのは、2作目である本作だろう。
ライムスターの宇多丸さんの『ウィークエンドシャッフル』内で酷評され、「駄作」と言われている本作(とはいえ、松本人志監督作品に対する世間の評価は皆そうだが)。

宇多丸さんの指摘ポイントは、概ね以下の通りである。
①松本人志の芸人としての作家性は「(漫才やコントでも)物語を語る事」ではなく、「アイデアとディテールの面白さ」で勝負する人であり、そもそもが映画作家向きではない。
②白い部屋からの脱出やメキシコのルチャ・リブレの件をオムニバス形式でやるならば、まだ理解出来た。
③サイレント映画的な演出を試みつつも、“寿司には醤油”や“連載漫画の単行本”という日本独自の文脈を含むものは、海外輸出向きではない。
④宗教を扱うにしては、その理解と表現が浅はか。

このように散々な評価であり、私の鑑賞ハードルが下がりに下がり切っていた、一種の「怖いもの見たさ」であった事は多分に影響していると思うが、私としては本作、いや中々に好みではある。宇多丸さんの鋭い指摘も最もだが、何処か嫌いになれない不思議な魅力があり、前作よりも好みだ。

本作最大の評価ポイントは、何と言っても前作『大日本人』(2007)の尺113分より約20分も短い92分に収めた事だ。とはいえ、実験映画である本作でこれ以上尺を伸ばされても困るのだが。
ここを指摘している人を見掛けないのだが、音楽を担当した清水靖晃氏による楽曲は、作風ともマッチしており良いと思う。

そんな本作最大の特徴は、“白い部屋”という空間からの脱出というアイデアだ。これは、「松本人志のお笑い」が、規制が厳しくなるばかりのテレビでは最早流せなくなった事に対して、彼が映画という舞台を自身の芸を披露する場として選択した事の顕れだろう。前作でもその趣きはあったが、本作ではその傾向がより顕著だ。
そして、ここに芸人・監督の松本人志と我々観客との「求めているもの」の認識の違いがある。我々が観たいと思っているのは、「映画でコントをやる」事ではなく、「コントのような映画」なのだ。そう、本作が「映画」というカテゴリーである以上、我々はあくまで「映画」を観たいのである。ここの認識を合わせられなかった事が、本作の失敗へと繋がってしまったように思う。

そして、本作最大の失敗は、海外輸出を意識してしまうあまり、作中で登場する「品物」や表現される「笑い」が制限されてしまった事だろう。

しかし、それでも私が本作を嫌いになれないのは、思わず目を見張る表現や、面白いアイデアが散見されるからだろう。

❶メキシコ
例えば、メキシコのルチャ・リブレのシーンもそうである。メキシコの広大な大地。そのど真ん中。道の向こうからこちらに向かって車が走ってくる様子を長回しで見せ、何と乗っているのはタバコを蒸して荒々しく運転するシスター。これだけ見れば、十分映画的なオープニングである。尚も大地を疾走し、画面を横切っていく中でのタイトルは、「面白い映画が始まりそう」という雰囲気たっぷりだ。
私としてはタイトル表示は本作の主人公である謎の男が白い部屋で目を覚まし、無数の天使のオブジェに囲まれて堪らず叫ぶ開始10分程の瞬間までは取っておくべきだった思う。

❷白い部屋
一方で、男が目覚める白い部屋。四方の壁から夥しい数の天使の像が生えてくる演出は、CGのクオリティも当時としては高い部類だったであろう出来で、ホラー映画的演出とも受け取れ、非常に好みであった。だからこそ、タイトル表示はこの瞬間に行うべきだったと思うのだ。ここでタイトル表示をされていたら、その掴みのセンスに更なる点数を付けたくもなったのだが。
壁から生えている無数の局部(スイッチ)には、それぞれに対応した品物が用意されており、「次に何が出て来るのか?」という楽しみがある。
歯ブラシ→メガホン→盆栽→花瓶→菜箸→台車→オナラと、品物に物語的な関連性や法則が無いのも不条理劇としては面白い。
しかし、この「1つのスイッチに対して、1つの品物」というルールが早々に破られてしまうのは勿体ない。寿司の醤油が出てこない苛立ちから様々なスイッチを押すが、どれを押しても寿司しか出てこないというのは笑えるが、後から醤油が出てくるのは予想がつく。ならば、せめて出て来る寿司のネタがバラバラという体裁くらいは整えて描いてほしかった。また、ガリ好きとしては「ガリもちゃんと食べろよ」とツッコミたくなってしまった。

❸脱出劇としてのアイデア
「品物を工夫して脱出を試みる」という本作最大の見せ場も、出て来る品物からその活かし方まで、もっと煮詰めて描いてほしかったのも正直なところ。話によると、本作は決まった脚本が存在せず、現場にて話し合いながら作り上げていったそうなのだが、そうした作業は、設計図となる脚本があってこその「現場でアイデアが出る」という製作上の面白味に繋がると思うので、本作のような手法では、単に煮詰め不足にしかなっていないように感じられた。

❹時間経過
白い部屋での時間経過と、メキシコでの時間経過が対応していないというのも、実は結構問題がある部分だと思う。
白い部屋では、男がリゾートチェアに寝そべっていたり、脱出出来ずに薬を服用して寝ていたり、寿司ネタが腐ったりと、かなりの時間が経過した事が伺えるが、メキシコでは朝から夕方までの半日程度しか経過していない。だが、クライマックスでスイッチを押した回数とエスカルゴマンの首が伸びて相手を次々KOする件が対応している以上、時間経過は合わせる必要があったはずだ。

もっと言えば、メキシコのシーンを映画的(特にハリウッド映画的)な作りとして、コント的なシチュエーションの白い部屋と対比させるならば、メキシコの件は“親子愛”をテーマに白い部屋での時間経過と対応させて、それを活かして丁寧に描写すべきだった。
例えば、ピークを過ぎ、妻を失ったルチャ・リブレのレスラーが、息子との関係性の修復を図って強敵に挑もうとする中で、学校で揶揄われる息子と、トレーニングに励む父親のドラマの日々を真剣に描いて見せるのだ。白い部屋と切り替わる度に試合の日程が近づいていき、その中でも、男のスイッチを押す行動がメキシコでの出来事と対応しているかのように前振りをする。そして、クライマックスでは男の白い部屋での出来事と、ルチャ・リブレの試合内容を完全に対応させる。
決着の着け方も「首が伸びて相手をKOする」というコント的な演出ではなく、スイッチを押すと偶然相手が足を滑らせる、反撃の一撃がヒットするといった、リアリティある演出を貫くのだ。現に、エスカルゴマンの相方のレスラーとテキーラ・ジョーとの試合は、しっかりとプロレスとして成立していたのだから。

そして、試合に勝利して息子と関係性を修復するという一見すると感動的なドラマに、松本人志が狙ったであろう「世の中の出来事の仕組みは、案外単純かもしれない」という皮肉を込めるのだ。

❺松本人志の宗教観
クライマックスでスイッチを次々と押し、それが人類の、そして地球の歴史に対応している事を示す中で男の髪と髭が伸び、イエス・キリストを思わせる姿に変化していく。イエスに似せて表現しているというのは、そもそも彼自身は神ではないという点や、様々な宗教が存在し、神の定義も異なる世界へ向けて発信する作品としてあまりにも安易で迂闊だと指摘されている。
確かに、男のビジュアルはイエス的だ。しかし、同時に日本人である私には、あの姿にオウム真理教の麻原彰晃が重なって見えた。宗教への理解云々以前に、松本人志さんはそもそも真剣に宗教を描こうなどとしていないのである。だからこそ、私には松本人志さんは本作で「宗教」というものを徹底的に馬鹿にして笑い飛ばしているのではないかと思えた。だって、世界のあらゆる事象を発生させる装置がチ○コなのだから。
これは、「お前らそんなもん信じてるのか」と、大胆に喧嘩を売っているのだと思う。少なくとも、この時点での芸人・松本人志の世の中に対する尖った考え方は、ラジオ番組『松本人志の放送室』での高須光聖との会話等からも明らかだった。だからこそ、まだまだ世間から「天才芸人・松本人志」として持て囃されていた彼は、宗教に喧嘩を売る事すら恐れていなかったように思う。そして、その尖った姿勢自体は、私としては嫌いではないのだ。

それよりも、私は本作には更なる価値観の問題があると考える。それは、男が脱出の為に「食べ物を粗末に扱う」という展開だ。スイッチを固定させる為、壺に寿司を投入する。何度も戻るスイッチに発狂して、割れた壺から出た寿司を無造作に掴んでスイッチの上に押し固めるといった部分だ。

宗教を扱う事が、国ごとに異なる「宗教観の違い」によって危ういのであれば、食べ物を粗末に扱うというのは「世界共通のタブー」なのではないだろうか。この描き方には、松本人志さんの「『世界には食べたくても食べられない人だって居るんだから、食べ物を粗末にするな』言うけど、アフリカの子供だって十分な飯が食えたら残すやろ」という価値観に由来する表現なのだろうが、本作での食べ物との向き合い方は、それ以前の扱い方であったように思う。

❻ラストのスイッチ
そして、ラスト。間違いなく、最後の巨大チ○コのスイッチは押すべきだった。“未来”を司るスイッチであるならば、松本人志さんなりの“人類の未来”を、その鋭いセンスで皮肉って欲しかった。

否定的な意見が多くなってしまったが、それだけ本作には十分「面白くなる」ポテンシャルが宿っていたはずだからなのだ。そして、優れた脚本家と組めば十分傑作に出来たであろうだけに、あれこれ語りたくもなってしまうのだ。

【総評】
芸人・松本人志が「映画」という舞台を「コントの場」として選んだ事で、彼の作家性が悉く映画に不向きである事を浮き彫りにした作品であったと思う。

そしてそれは、「映画」という舞台に運命の悪戯で上げられ、あくまで「映画」として向き合った事で映画の神様に愛される事となったビートたけしこと北野武監督との最大の違いであったように思う。

緋里阿 純