「自分史を映像作家が遺すと、こうなるのだね /アニエス・ヴァルダの生きざま」アニエスの浜辺 きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
自分史を映像作家が遺すと、こうなるのだね /アニエス・ヴァルダの生きざま
父に、
「時間があるなら自叙伝みたいな物を書いてみたらどうなのか」と勧めてみたことがある。
けっこうな波乱万丈な人生を送ってきた彼であるし、著作・共著も何冊もあるから。
でも気乗りがしないようだ。
しかし、先年僕は、父と一緒に旅をして、父が幼少時代を過ごした彼の故郷を訪れ、かつての住居跡や、商店街の並び、旧制中学校、細い路地裏、疎開先までをゆっくり数日かけて歩いた。
しきりに「お前と故郷を歩きたい」と、僕に夢を語るものだから。
行く先々では、僕らはたくさん立ち止まりながら、道端で父から話を聞いた。その父の述懐の中で大勢の故人たちにも会った
そうやって父を形作ってきた人生のパズルを、ひとつひとつ、初めて現地で確かめてきたところなのだ。
あの旅で、父は自分史を遺す夢を、息子である僕の記憶の中に成し遂げて、ペンを執らずとも、十分に望みが満たされたのかもしれないと、僕は思っている。
人は最終コーナーに差し掛かると、
「父親たち」は口ずからの言葉で自分を遺し、
「作家たち」はペンと原稿用紙で自分を遺す。そして
「映像作家」は自分を被写体にして、動画によるアルバムと語りで、自らを世に遺していくのだ。
「アニエスの浜辺」――
齢八十を超えたアニエス・ヴァルダが自分に向けてカメラを回している。
黄色い小皿を手に取り、
蚤の市で「同志ダルデンヌ兄弟に贈ろう」とつぶやく。
彼女の映画仲間たちが、写真やフイルムや個々のエピソードで登場していて、大勢の友人たちがアニエスの周りにいたことが知らされるのも、とても興味深い。
周りにいた「人々」や、彼女を取り囲んでいた「時代」が、砂浜に置かれた鏡のようにアニエスを映し出すわけだ。
夫は、「ローラ」や「シェルブールの雨傘」の監督ジャック・ドゥミ。
同時代のゴダールやトリフォとのやり取り。そしてジェーン・バーキンとの共演シーンなど。
共に撮影現場で働いたドヌーブやアヌーク・エーメの若かりし頃にも、目が吸い寄せられる。
これはスクリーン好きなら、見ておいて損はない一品だ。
自分との別れ。
友人との別れ。そして
辞世のシナリオを書き始めた最愛の夫との別れ。
そのための、「すべてのサヨナラ」のために、彼女は自分を映画にする。
自分史=イコール映画史と言い切っても良いだろう彼女の越し方なのだ。
108分。
映像の全て。そして挟まれるアーカイブ名画の全てが、彼女の人生のパズルの「カケラ」であり「コマ」なのだと理解できる。
散漫なように見えて、これだけ1人の人間=自分に向けて、一筋に集約していく監督アニエスの、生き方とその編集の力量にも唸らされることは、ご覧になる方々に請け合う。
僕にとってもこのDVD鑑賞は、メモ帳を手に構えての「一時停止」や「巻き戻し」でいそがしく、一向に前に進めないほどの名シーンや金言の宝庫であった。
映画と人間の解放について、途切れることなく映し、また語るアニエス。
人について語ろうとするなら、その人と共に生きた場所に戻って彼らを語る独特のスタンス。
ポップでありながらも、
シュールレアリスム。
ヌーベルバーグの旗手でありながらも家族的。
アニエスはそうなのだ。
つまり、居住した土地に根ざし、どっしりと足を着けた在り方で生きた人。
彼女の人間に対する飽くなき興味と観察が、あの人を貫いていたように思う。
劇中、いみじくも語られた言葉
「へその緒が切れないんだね?」。
ああ、そうなのだ。
両親、夫、子や孫、そして村人たち友人たち。
人々のただ中に、繋がって生きたアニエスなのだと、良くわかる自叙伝映画だった。
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