「どこをとっても素晴らしい」ダウト あるカトリック学校で veritamarieさんの映画レビュー(感想・評価)
どこをとっても素晴らしい
DVDを借りて観た。本編を見終えた後、監督の音声解説付きでまた全編通して観てしまったほど引き込まれた。監督の語る子どもの頃の思い出や、製作中のエピソード一つ一つもまた本編同様に面白く、どのシーンにも愛情と情熱を込めて創り上げたことが解った。「映画や舞台を見終えた後、本当の映画が始まる。そんな映画にしたかった。観客たちがそれぞれに違った視点から考えや感想を議論しあうことに意義がある」という監督の言葉も印象的だった。
2回観ると、初めは話に夢中で気づき損なっていた音楽や映像の美しさの細部を堪能できた。それらが全く本編に対して雑音にならず、一体となって映画になっていたということも賞賛に値する。
疑いを胸に抱いたその日からは、どんなに、愛情が…あえて語られない愛情が…こもった行為だろうと、悪意を持って解釈されてしまう。純真な者でさえも。このことの恐ろしさ、悲しさが描かれていたと思う。
メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの2人だけだったら、あまりに重苦しく出口の無い話だったと思う。エイミー・アダムズの存在がとても爽やかだった。シスター・ジェームズの持つ、人間の善性への信頼。その真っ直ぐな瞳が、最終的には物語全体を貫き、救いをもたらしていると感じた。
またドナルドのお母さん、ミラー夫人の演技は物凄かった。息子への信頼と愛、懇願と諦め…台詞の一言一言が彼女の表情と共に胸に迫った。
映画の最後、メリル演じる校長が、「未踏の雪」のようなシスタージェームズを前に、自身の猜疑心の重圧に対する苦悩を堪えきれず露わにするシーンは忘れ難い。
神父が去り、一見晴れ晴れとしたような顔をシスタージェームズに見せてみるのだが、やはり自分自身を偽りきれず、堰を切って涙がこみ上げ泣き崩れる姿が哀れだ。
「悪を追放するためには、七つの大罪のひとつ『疑い』を犯し、嘘をつき、神から遠のいても止むを得なかった」と自分に言い聞かせ、その信念のままに行動してきた校長だった。だが、その信念は高潔な動機からではなく、本当は、神父に対する嫌悪感、彼に勝利したいという欲求、教会の権力への反発など、ただ醜い私欲から生まれたものではなかっただろうか?…この問いこそが、彼女が拭っても拭いきれずに苦しみ続ける「疑い」なのだと思う。
そのシスター・アロイシスが苦しみを露わにした瞬間、彼女自身もか弱い人間で救いを求めていると悟ったシスタージェームズが、さっと近寄り、ひざまづいて手を取り慰める…というシーンから、監督の人間への愛情、信頼、赦しが伝わってきた。