「これは、もう堪らん世界ですね。」グラン・トリノ jack0001さんの映画レビュー(感想・評価)
これは、もう堪らん世界ですね。
もう積極的に自分が演じる役を探すことはしない。
いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから・・・
アメリカからヒーローの一人がまた姿を消す。
どこか惜しみ深く切なくもあるが、その分彼は監督業としてのキャリアで続行するという。
むしろそちらのほうに意欲的である。
クリント・イーストウッド;Clint Eastwood最後の主演作(高齢の為、今後俳優活動を自粛する旨を公表した)「グラン・トリノ;Gran Torino」には50年間に及ぶ思いの集大成が込められている。
早合点しているコメントには彼の生涯で最高傑作という声が挙がっているが、それはやや褒めすぎだ。
気持ちも分からなくはない・・・とにかく「集大成」であることには変わりない。
その前にこの映画タイトルについてである。
「グラン・トリノ」とは、72年に米国フォード社が販売した「トリノ」の高級バージョンとして登場したスポーツカーのこと。
リッター1.5km、V8エンジン搭載という、今では完全に排ガス規制や安全基準に引っかかるような代物だ。
実際に第一次石油危機のあおりを受けて76年に販売を終了している。
昨今エコロジーだ何だと騒がれているから、忌み嫌われそうなレスポンスと性能を秘めたこの車を、イーストウッド扮する主人公ウォルトは長年愛用している。
面白いことにこの映画のオープニングでは、ウォルトの妻の葬儀シーンから始まるのに、当人からは至って悲しさが伝わってこない。
そんな矢先に孫娘から「いずれその車を形見に欲しい」とせがまれ、怒りを露わにするようなシーンばかりが続く。
妻の愛情も、子供や孫への親心も、すべてを喪失した男は、あまりにも冷淡で不自然だった。
葬儀の日でも、愛車を丹念に点検する変わり者。
そんな彼の姿と車との立ち位置が、あまりにも似ている。
図体ばかりデカい偏屈な老人・・・葬儀の日に涙一つ浮かべないその不自然さは、妙に演技らしからぬという感じだ。
台詞の合間から微かに漏れ聞こえるイーストウッドの自然なため息や息づかいの所作が、あまりにも絶妙だった。
188cmの長身、1930年生まれの御老体だ。
実は当人が朝鮮戦争の最中に陸軍へ入隊した経験を持つ(この主人公ウォルトも同じ過去をトラウマとして抱える)
そういえば動作一つ一つも「荒野の用心棒」の頃とはだいぶ違う。
息切れ一つも自然に出るというものだ、それらも演技の一つとして組み込んでいる。
自然と埋めているその所作は、上手く臨場感を出していた。
ただ他ならぬ彼こそが、クリント・イーストウッドだ。
マインドは「ローハイド」の血気盛んな頃と幾分も変わらぬ姿勢だ。
むしろこの映画は、そんなアウトロー気質を前面に押し出した痛快さが魅力である。
隣人のアジア系モン族の家族に次第と心を開く交流シーンもコミカルでいいが、不埒な悪人やチンピラに敢然と立ち向かう数か所のシーンにて、緊迫した雰囲気がマカロニ・ウェスタンそのものと錯覚させる。
西部劇で始まり育った人だ、その気骨さが現代劇の中で鮮やかに映っている。
「困った奴がいたら見過ごさない」という気質。
「ダーティー・ハリー」のような、決めゼリフのカッコよさにも随分こだわっている。
多少歳をとっても、正面切って敵とあいまみえるシーンは今も見劣りしない。
どうやらこういった何か定義(ここでは正義だろう)を意識し映画を撮ることが、彼にとってのライフワークのようだ。
かつてのアメリカ映画のフォーマットで、善と悪が分かりやすく、かつ心を震わせるような構成とストーリーだ。
ある意味「大味;おおあじ」ではある。
脇役のモン族少年達など、大袈裟に目立ったかなり酷い演技力だ。
しかし不思議だ。
そんな予定調和過ぎるほど大味さが、今更になって愛おしく感じられる。
登場する人物達、彼らの一人一人のことが堪らなく気になってしまう。
そういえば、フォード・グラン・トリノの70年代特有なシルエットは、巷を走る最新のどんな車よりも美しい。
俗世から離れたものだけが知る自身の極め方は、意外にも王道とも呼べる路線を踏みつつ、それを躊躇せずやりとおす頑固さにあるのだろう。
ラストはいかにも、イーストウッドらしいケリの着け方だ。
哀愁と正義感に心が打ち震えた。
男の退き際、人生の終着点、そこで如何に過去と決着をつけるか?
その背中を誰に見せるべきか?
実は男ってものは深くって、単純じゃないってことだ!