「男の短絡的な面を許しながらも見下す女たち」バーン・アフター・リーディング 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
男の短絡的な面を許しながらも見下す女たち
正直に言うと、コーエン兄弟作品は個人的には嫌いなタイプの作風なのですが、ここまで予測不能なブラックコメディを構築されたら返す言葉も無い。
とにかく普通の監督ならば、愛の喪失感を匂わせ、新たな恋愛に進展する男女や、解れた夫婦間の溝を埋めて再生する感動的な夫婦のドラマに全体を集約させた無難な作りになりがちで、それだけでも充分に感動ドラマを作れる筈なのに…。
映画の始まりはそんなシンプルな作り方の様に見せ掛けている。多分に主要な登場人物達が行ったり来たりして、頭がこんがらがりながら進んで行くのですが、その度に「で!それは一体誰だ?」や、「どうした?」等の会話でご丁寧にも観客に分かり易い様に説明してくれる念の入り様
その様なシリアスな場面から一転して、笑いの場面に切り替わるギャグのタイミング・レベルが良く。極めて論理的である事に感心してしまった。
自信過剰な男のジョン・マルコビッチは、自分こそが中心に居ないと不満タラタラな男だ。ある事件が自分に振り返かろうとも、その自信過剰振りには一切のブレも無い。
ところが、その過剰振りも鼻っ柱を折られてしまう。
妻から三行半を突きつけられた事を知った瞬間に奥底に潜んでいた暴力性が爆発する。
その妻役のティルダ・スウィントンは、この亭主関白の夫を一見すると立てている聡明な女性に見える。
但しそれはあくまでもジョン・マルコビッチから見ての事だけだ。彼女は長年に渡って夫を見下していたのを観客は知る事になる。
夫に対してもそうだが、仕事振りにしても彼女の口から発せられる口調はどこか暴力的だ!実に似た者夫婦と言ったら良いだろうか。
この夫婦は、映画の始まりと終わりでは立場が逆転してしまう。
一方ショージ・クルーニーは、妻を欺き愛人との関係を適度な距離で保ち楽しんでいる。
更には出会い系サイトを使っては様々な女性と割り切った関係をも謳歌している。そんな軽佻浮薄なところが自信過剰な夫と違っているからか?愛人はあの女性。
そんなジョージ・クルーニーの妻役にはエリザベス・マーベル。彼女は軽佻浮薄な夫とは違って従順な女性だ。
ところがこの従順な女性こそが一番…それを最後に観客は知る事になる。
有る意味この夫婦も立場が逆転してしまう。いやその結末は逆転以上だろうか。
フランシス・マクドーマンドは自分の容姿を気にして整形を欲している。しかしそれ以上に男性から愛されたい欲望を抱いているが、実は直ぐ目の前にある“愛”には気づかない。出会い系サイトにアクセスする毎日。
そんな彼女を「整形なんかしなくても君は充分に美しいよ」と励ますリチュード・ジェンキンス。
彼女を気遣うあまり…。
2組の夫婦による偽りの愛と、1組の男女による一方通行の愛。彼ら彼女たちはそれぞれ対象を成す構成で描写されており、巧みに交錯しながら悲劇的結末に向かって行く。
悲劇に向かって行くのだが、これはコメディだ。それも巧みに張り巡らせた運命の糸に向かって進んで行くブラックコメディに他ならない。
とにかく登場人物達は自分の廻りで起こる目先の出来事にしか眼が行かない。
特に男性陣達は自分が起こした出来事が全体に周り回って、最終的に自分自身に火の粉として振り返って来ている事実を全く理解出来ていないから極めて喜劇的なのだ。どこか『クラッシュ』を思い浮かべてしまうところもあるのですが、そこまで高尚では無い(笑)
そんな中でリチュード・ジェンキンスだけは痛ましい結末が用意されていて、まるでギリシャ悲劇の様です。
ところがそんな悲劇的結末ですら、映画はあっさりと「だからどうしたんだ?」
「何か問題は在るか…」とばかりに切り捨ててしまう。
そんな象徴的な映像がファーストシーンとエンディングシーンに集約されている。
予告編ではブラッド・ピットのお馬鹿な演技を強調する仕組みになっているが、映画本編を観た限りでは、この人物像が実は一番人間的にはまともに見える。この映画ではまともな人間こそが馬鹿を見ているのかも知れない。それにしてもブラッド・ピットはいきなり…。
ちょっと…いやかなり驚いたかも知れないなぁ。
笑いの要素や、ちょこっとしか出演しない脇役に至るまで眼が行き届いていてクスクスと笑えて楽しかったですね。
あの絵本なんか映画ファンからしてみたら気になってしまって是非とも読んで見たいもの。
全体的に男の短絡的な面を、女性が許しながらもどこか見下している感覚のブラックユーモアに彩られている。
ほ〜んと、逞しいったらありゃしない。