青い鳥 : 映画評論・批評
2008年11月25日更新
2008年11月29日より新宿武蔵野館ほかにてロードショー
戦慄から始まる、謎めいた教師と生徒の“本気”の物語
重松清の連作短編集に基づくこの映画は、ファースト・シーンから“ただならぬ”緊迫感に満ちている。14歳の少年少女がまっさらな気分で学園生活を始める新学期初日。そこに新任臨時教師がやってくる。バスを降り、校門をくぐり、廊下を歩く。主演俳優は阿部寛だ。しかしカメラが捉えるのは手元や足や背中ばかりで、さっぱり顔が映らない。何やらこれから決闘でも始まりかねない気配。いじめ問題を扱った教育&青春ドラマを観るつもりで試写室を訪れた筆者は、この冒頭数分間で「何だ、これは」と思わず目を見張った。
阿部扮する村内先生は、いじめを苦にした自殺未遂ののちに転校した生徒の机を教室内に戻す。「わ、忘れるなんて、ひきょうだな」。村内が発したひと言で、いじめ問題を反省して過去と決別しようとしていたクラスに戦慄が走る。そう、まさに戦慄だ。吃音症のため、滅多に口を開かない村内の真意は一切不明。自分たちへの意地悪か、挑発か、はたまた宣戦布告なのか。それまで教師=大人たちのご都合主義を見抜き、ぬるま湯的な関係に慣れていた生徒たちにとって村内は得体の知れない脅威なのだ。
劇中の言葉を借りれば、ここから村内と少年少女との“本気”のドラマが始まる。教師と生徒の関係を支えるもの、さらには人生で大切なものとは何かということを、この映画は寡黙に、不器用に、そして驚くべき実直さで描き出す。どこからともなくぶらりと現れ、やがていずこへと去っていくストレンジャー教師。これは観る者の心を鋭く射抜いてみせる、奇妙だがずしりと重い寓話である。
(高橋諭治)