レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまでのレビュー・感想・評価
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乗りかけた船には乗ってしまえ・・・沈没することを恐れずに・・・
『タイタニック』以来の再共演となるレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット。嫌気のさしている生活から逃れ、新しい人生を切り開くためにコネチカット州のレボーショナリー・ロードの家を手放してまでパリに住もうと計画する。しかし、妻エイプリルの妊娠、夫フランクのひょうなことから昇進の話によって・・・
飛行機で行けば妊娠なんて関係ないだろうに!とつっこみたくても、時代は1950年代。長い船旅には辛いことなのか、よくわかりませんでしたが、現在の生活の不満から逃れたいがために妻がパリに憧れている様子や、夫の仕事に対する態度などは当時としては風変わりであったとしても伝わってきました。ただ、子供がすでに2人いるという意味がわかりませんでしたが・・・
夫婦で見てもらいたいというコメントがあちこちで聞かれるのですが、現在の不況下における就業事情などとも比べると興味深いところがありました。平凡だけど、暮らしを支えるには十分な職場。レボーショナリーという言葉が象徴するように、かつて女優の夢を追いかけて挫折した妻の立場も考えると、茨の道を歩むことより安定した生活を選ぶのが賢明であると思うのが現代人なのかもしれません。30歳前後というと、夢をとるか生活をとるかを選択できる、ぎりぎりの年齢なのも巧い設定です。
夫の浮気や妻のよろめきなどのエピソードも絡んできますが、このディカプリオとウィンスレットの葛藤と感情を噴出させるシーンに迫力がありました。とても『タイタニック』の二人とは思えないほどの演技力。大女優キャシー・ベイツがかすんで見えるくらいです。個人的にはその息子であるジョン(マイケル・シャノン)の不気味ではあるが核心をつくキャラに圧倒されてしまいました。
監督はサム・メンデス(ウィンスレットの旦那)。ハッピーエンドになるわけありません。自己堕胎しようとするなど、レイティングが必要だと思われるくらいですが、共和党から民主党へと変わったアメリカを人工妊娠中絶の是非と言う点で描きたかったのか。素直に病院で処置していれば・・・などとも考えさせられる。
などと、実は小難しいことは何も考えずに観ていたのですが、50年代の音楽がとても良かったと感じたのです。気になったのはダンスホール(?)でドラマーがボーカルをとっていたスティーヴ・コヴァック・バンド。演じているのはダフィ・ジャクソンという方(クレジットでなんとなく確認)らしいのですが、気になります・・・
【2009年1月映画館にて】
人生に割り切りは必須?産むも堕ろすも命懸け。
わかります、エイプリルの気持ち。
社会に出ていたい気持ち。
夫に輝いていて欲しい気持ち。
夫婦共に根拠のない自信でも良いから、せめて夫婦間では心に正直に、同じ方向を向いて未来に希望を持って進んでいきたい気持ち。
私には、エイプリルの言動を、鬱だわがままだ世間知らずだで片付ける気にはなれない。
エイプリルは、大口を叩きながらも輝いていた昔のフランクが、すっかり家族のために妥協の人生を送ろうとしているのも悲しく、夫には心に正直に生きて欲しかったのだ。同時に、自分らしく生きる輝きも取り戻したくて、両方が叶う環境変化を求めていた。
なんだかうまくいかない時に、引っ越ししたって良いじゃない。
確かにどこでも幸せは見つかるかもしれないけれど、郊外の古い価値観の中で社会に出ようとして、簡単に済むものでもない。例えパリでなくても、自分が多少働けて、夫が心底望む生き方を再選択できれば、なんでも良かったのだ。
その感覚は夫婦で一致していて、パリ行きを決めてから妊娠がわかるまでのウィラー夫婦は心の底から共鳴していて愛し合っていて、勢いと未来を感じさせた。その絆があればなんでもできたはずだが、1950年代では、家族計画や、女性が妊娠を避ける意識は薄く、たとえ何人でも産み育てるのが当たり前だったのだろうか?愛あるが故の、妊娠。
夫婦だからこそ、補い合っていて、片方が現実的な視点から逸れれば、片方が現実的に戻す役割を果たしている。
フランクはできる夫で、パリに行くことも、行かずに出世する選択肢も持っていて、状況により吟味して選べる。家族を養う責任感があるからこその迷い。
出世話が出たタイミングで新たな妊娠が発覚したのは、本来ならば運が良い。そして、夫側には、ひさびさに希望ある表情を妻にさせられて、妻を満たせた喜びで自らの存在確認をできた矢先での妊娠であり、自由を奪われる反面、男性としての嬉しさも秘めていた。
妊娠がわかる直前までもフランス語の会話本を見ていたり、夫もかなりパリに乗り気だったのは、事実。
妊娠中、しかも安定期前で体調も気分も不安定な時期の女性は、お腹の子を守るために神経質になるし殺気立ちやすく、ホルモンバランスも変化している妻の発言は、真意をよくよく汲み取る必要がある。
夫婦でよくよく話し合えば、出世をとりあえず選び、数年経つまでは末っ子を手のかからない年齢まで育て、キャリアアップした状態でパリに行こうという決断だって出せたはずだ。家は狭くなるだろうが、マンハッタンに引っ越すこともできたかもしれない。
ところが、エイプリルはやっとこの街を抜け出せると足取りが軽くなり勢いづいていたのに、文字通り身重に。
「このタイミングで妊娠してしまうなんて!お腹の子のせいで計画が総狂いよ」と今だけを見て絶望的に感じている様子。
同じ時代を生きていても、郊外ではなく、マンハッタンには働いている女性、既婚者の男性を誘うような女性だって存在していて、現に夫はそういった女性とも抵抗を持たずに関係を持っている。
中絶の是非は別として、女性が社会に出ていたがるのはごく当たり前の気持ちである。
実際、パリ行きを告げた時のお隣の奥さんの涙は、憧れと羨ましさの骨頂だろう。恐らく一生ここから出られない自分とは対照的に夫婦で自由を口にできる羨ましさと、その未確定性を非現実と捉える価値観を夫と共有できる安心感の狭間で揺れている。
お隣の夫も、売れない女優経験もあり都会的な雰囲気と自発性を醸し出すエイプリルに、ずっと憧れの気持ちを隠してきた。
家を紹介してくれた不動産屋の婦人が精神病の息子を連れてくるのも、ウィラー夫妻に先進性を感じているからだろう。
2人が大多数の価値観の中では浮いてしまっても、心の望みを叶えようと、割り切った生活に落ち着くよりも正直な一歩を踏み出したことは、その他からすればレボリューショナリーなのである。
あとはその計画が完遂され、どこまでうまくいくかの話だけだったのに、妊娠により、同じ本心なのに、すれ違う夫婦。
新しい命が絡んだ事で、妊娠も自分達の責任であり、中絶には良心の呵責があるし地に足をつけて人生守りに入ろうとするフランク。ちょうどタイミング良く、揺らぐ引き抜き話がきたが、心の奥底ではそこまでやりたい仕事ではなさそう。でも、妻に3人目も産まれる現実を整理すると、パリ行きは無理だろうと断念。行きたくなかったわけではない。
エイプリルは、夫はもともと行きたくなかったのではと猜疑心に満ちて、中絶も反対され、更には浮気まで白状されて、精神病扱いもされ、本音の行き場がなくなった。誰にも共感して貰えないのに、慰めの言葉などいらないから1人になりたかったのだろう。
家から外に逃げ出して庭で感情を爆発させて、心が燃え尽きた結果、死んだように生きて、郊外で夫がやりたくない仕事をする人生に骨を埋めようと決心したのだろう。
少し前には夫婦で清々しく木漏れ日を感じて散策した、郊外だからこそ広大な裏庭が、今は逃れられない樹海のようである。
翌日には人が変わったように、おとなしく、静かで従順な妻。丁寧な朝食。夫が引き抜かれた新しい仕事に、本当は興味なんてないのに、夫のやる気が出るのならと褒めて。薄気味悪さを感じながらも、ただこの平和な空気が好きという意味で、夫は満足そうにする。妻は、やっぱり私の感情を殺すことが必要とされているんだと受け止めてしまったんだと思うが。
印象的なのは卵のシーン。
エイプリルは最後に、夫の出方で身籠った子をどうするか決めようとしたのだろう。本心から望んだ妊娠ではないが、中絶には迷いつつも覚悟を決める事はできなくて。
卵を掻くスクランブルにするか、フランクが手がかかると表現する目玉焼きにするか。
簡単ならと妻を思いやり、単純にスクランブルにしたフランク。なら私もそれ「で」いいわ、と、妻は覚悟を決め、手に入るはずだったパリでの生活を掻き壊すかのように卵を混ぜ、お腹の卵もスクランブル=中絶を選んだと思われる。
自力で中絶に臨む心を整理するためか、うまくいく保証はないからか、子供達に愛していると伝えて欲しいと子守に電話をしている。女は産むも堕ろすも命懸け。
中絶と共に、自分の本心も殺して生きていくつもりで、中絶を終えて傷付いた身体で、希望なく見えるこの景色の中で絶望しながらまた生きていこうと窓枠から外を見つめたのではなかろうか。
なのに、出血多量で命を落とす。
作中ずっと見ていても、時代柄全然育児参加しない夫。
家電もなく家事も沢山で明らかに疲れている妻。
3人目を産むことは、今以上の家庭での労働を意味し、つまり郊外幽閉人生の確定と捉えられる。
1人目を妊娠し、女優の夢を諦めた。産む方が幸せかなと思ったことだろう。でも産んでみて、私はこれで良かったのかなと迷いが生じるも、これで良かったと信じるための、2人目。3人目に至る時には、これ以上子供はいらないとハッキリ自覚してしまった。産み育てる経験をしていてこそ経験値に基づき確信した自覚。
望まぬ妊娠をなぜ防がなかったのかというのが最大の疑問だが、エイプリルの気持ちそのものはわかる。
妊娠がわかって、夫だって困惑の表情が先。すごく嬉しそうな描写は全くなかった。
今の暮らしは安定していて子供にも恵まれ、側から見れば「幸せ」で、その中に幸せを見つけることももちろんできるけど、刺激がなく、向いてるのかもしれないが大して好きな仕事でもない、「絶望的な虚しさ」に気付かぬふりをしなければならない。世界の大多数がそうして生きている。周りの人とも折り合いをつけていかなければ、社会は回らないからだ。そのために、周囲の気持ちも思いやれば、本根は埋もれていく。
その中でその本音を外に漏らすと、「幼稚」「鬱」「精神病」と捉えられてしまう。
人の心を傷つけても平気で核心をつく、精神病の知り合いの息子の言動は、確かに病的で、全員から歓迎されるものではない。そのあと相手がどんな気持ちになるかなど微塵も考えていない。でも確かに、発言は真をついていたことは夫婦どちらも実感していた。
「妻がこんな顔してるから、夫が妻の妊娠くらいでしか男を感じられないんだ」これが真髄だろう。
妻も、パリでなくてもどこでも良かったのと言うように、夫フランクにとっても、妻が日々嬉しそうで少し気にかけて貰えるのならそれで幸せで場所はどこでも良かったのに。家族でそれを叶えるには、郊外が適していなかった、ただそれだけなのに。
パリまで極端でなくても、せめて郊外ではなくマンハッタンに引っ越しを考えられなかったのかな?
パリ行きを決めてから妊娠がわかるまでの数ヶ月間を「真の夫婦」と捉えるか、折り合いをつけて割り切った日常こそを「真の夫婦」と捉えるかで、この作品への評価ははっきり別れると感じる。
私自身は、夫婦両方が暮らしには多少妥協はあっても、お互いに納得して夫婦共通の目的に向かって歩むことこそ「真の夫婦」だと思うから、パリ行きを決めてから、心が通い合っているウィラー夫婦の限られた数ヶ月の様子が好き。
妊娠後も、お酒も煙草も全くもって控える様子がなく、周りも注意や配慮をする様子がないのは、有害性の認識が薄い1950年代だからなのだろうが、驚き。
安定した暮らしと絶望的な虚しさは表裏一体。
心が求める方に進めば、不安定ハイリスク、
子供がいるとリスクは取り辛くなる。
ワクワクする選択肢を夫婦両方が取れて、生活に余裕があって、夫婦に愛があって、子供にも恵まれて、毎日幸せで。この5要素全てが満たされている家庭って、どれくらいあるのだろう。
タイタニックでは、家柄という障害をお互いの愛は乗り越えたが、座礁というアクシデントでローズを生かすためにジャックが死を選んだ。
今作では、現実の生活と理想の乖離に悩みつつも、お互いの愛で乗り越えられそうになったが、妊娠というアクシデントで、フランクが自信を持って歩むために、エイプリルは絶望を選んだ。
タイタニックの真逆と評する人もいるが、私はこの2作は共通していて、あえてのディカプリオとケイトウィンスレットの再共演だと思った。
本音は同じなのに、2人で達成したかったのに、障害により相手のために片方が引かなければいけない悲劇が共通している。
ディカプリオとケイトウィンスレットのコンビネーションは、2人揃うと現実を忘れて、目に見えない煌めきの儚さに没頭できる表現にぴったりの組み合わせ。
心の病気
真理をを語る者は心の病気とされる。
ごっこ遊びをすれば、表面上はうまくいく。
絶望的な空虚さを逃れる術は、絶望を感じないようにすること。そして感じている違和感を表には出さないようにすること。それ以外に道はない。だから心の病になった人に『心穏やか』に生きられる道はない。
それを追求してしまったエイプリルは心の病とされるがそうされた人にとって、きっと普通でいられる人が不思議に違いない。だって普通の人が馬鹿みたいにきっと見える。
みる角度を変えると、自分勝手なエイプリル。自分本位でしか考えていないから、苦しくなる
でも、子供を産むと、自分より家庭や子供を優先しなければいけないことが増えてしまう。
元の生活にエイプリルにとって本当の幸せはあるの?元の生活がエイプリルをそうさせてしまったのに。
母親は、家庭と子供のために生きるしかないの?
人間はたくさんの顔を持っていて、それを両立させていくのが難しいように時々感じる。
日常に潜む人間のこころの真理を描いた作品でした。
すれ違う二人
主演二人のぶつかり合う演技がすごかった。
まるで舞台劇のよう。
エープリルも自分の自己実現の前に家庭に
入ってしまっているから、常に不完全燃焼感を
抱えてしまっている。パリに移り住めばまた輝かしい未来がやって来るのではと夢想する。
対して夫のフランクは家族を養っていかなければならない立場だから現実的。
寄り添おうとしてはすれ違っていく二人。
なかなか男と女は難しい。結婚して何年かたって
観ると「それってあるある。」としみじみ
観賞できるかも。未婚の人が観るとちょっときついかな。
演技達者な俳優が多くて堪能できた。不動産屋の神経を病んだ息子の演技もなかなか印象的だった。
ロマンティックが止まらないタイタニックファンに平手打ち!
ロマンティックが止まらないタイタニックファンに平手打ち!
サム・メンデス監督ってジェームス・キャメロン監督のことが嫌いなのかな?
あの、サム・メンデス監督は、「タイタニック(1997年)」が嫌いなのかな?
このキャストで、こんなトータル「唾飛ばし合いの夫婦喧嘩」話を撮るなんて(キャシー・ベイツも出てますしね)。どうしても、タイタニックの"その後感"が否めないと思うのですが。
あの時ジャックは死んで、ローズとは結ばれなくて良かったんだ。
結ばれてたら、きっとこんな感じで結婚生活は破綻していたさ!
ロマンティックが止まらない二人を想像して、劇場に訪れたタイタニックファンに、思いっきり平手打ちして目を覚まさせる本作。そんな悪意をほんの少々感じると共に、ディカプリオと当時の妻ウィンスレットが、「タイタニック」後、あのイメージをずっと引き摺ってることを哀れんでるようにも思えます。
こんな見方は、捻くれてるでしょうか?すみません。
しかし、結婚、子供、家族に対して、自分の夢以上の価値を見出せないというのは、やはり悲しいことですね。
でも見出せず、ただフランクの言う「絶望的な虚しさ」を抱えて生きている人もいるんでしょう。けれどこの二人は、ただそれを抱えるだけでは我慢ならない。
妻エイプリル。
50年代のアメリカはまだ保守的で、女性が避妊することは許されておらず、また堕胎なんかできない時代でした。エイプリルは、妊娠が自分の人生を狂わせたとずっと思っています。
また家事を一生懸命にやっても、誰も認めてはくれない。
夫フランク!認めないどころか、女遊びが激しい。
平凡な人生を嘆くフランクは、浮気で自分の男としての魅力を再確認したいわけです。俺は平凡な男じゃない!まだまだイケてる!
でも浮気して帰宅すると、妻と子供達がバースデー・ケーキを作って待っていてくれる。この時のディカプリオの表情が秀逸です。
家庭を持って平凡な人生を送る。例え絶望的な虚しさを抱えても、こうやって家庭で満たされたりする。
だからフランクは、パリに行きたいけど、正直怖いとも思っている。退屈で平凡な自分を、認めてるから。
でもエイプリルは、自分では認められない。そんな鬱憤は、夫に向けられます。
「愛してない」
「寧ろ憎い!」
自分の人生を滅茶苦茶にしたのは夫。夫=加害者、妻=被害者な図式から抜け出せません。
この二人の間に入って辛辣な言葉を吐き続けるのが、心を病んでいるジョン(マイケル・シャノン)。マイケル・シャノンって本当に、尋常じゃない目つきと、存在感ですよね。
「あんた(エイプリル)がそんなだから、夫はあんたを妊娠させることでしか、男を証明することができないんだ!パリに行くのが怖くてしょうがないんだ。だからあんたをわざと妊娠させたんだよ。最後に一言、あんたのお腹の子供でなくて良かった!」
なんというパンチ力。マイケル・シャノンって凄いです。
サム・メンデス監督といえば「アメリカン・ビューティ」でも、アメリカ中流家庭の崩壊を、社会問題にブラックな笑いを交えて見せてくれましたが、本作はストーリーは単調で、ディカプリオとウィンスレットのガチンコ演技対決による家庭の崩壊を描きます。
ポスターが、タイタニックでお客さんを呼ぶ気満々なんです(笑)
「誰も逃れられない、運命の愛」とか、そういう映画ではありませんからね!
けど、このキャッチコピーで若い人が観に行ったら、凄く勉強になったとも思うんです。もし二人が結婚したら、将来はきっと出産問題って浮上するわけですから。
そう!私が言いたいのは、そこなんです!
本作は50年代のアメリカの話ですよね!?
でもね、日本では今でもこうなんですよ。
出産でキャリアを諦めるのは、圧倒的に女性の方なんです
そんなことを考えて観ると、また違った感情が湧いてきます。
閉塞感
夫婦は運命共同体なので、片方がやりたいことをやるというのは、もう片方が我慢している可能性があります。
特に片方が日陰をやらされていると思っている場合は、生活そのものに閉塞感や憎しみを抱えてしまうこともあるかもしれません。私の人生こんなはずではなかったと。
エイプリルはパリで仕事を持つという夢により現状の閉塞感を打破しようとしますが、家族というしがらみから夢を放棄しなくてはならなくなる。
エイプリルにとって、夢を阻害する人物はいくら家族であれ邪魔者にしかならない。
「愛」という幻想がなくなった時には特に。
エイプリルの様に根拠無き自信を持てない人は、配偶者や子供に自分の夢を託し自分を偽るのかもしれません。それを自覚するかしないかだけかと思います。
最後の眼差しの行方
エイプリルは女優の夢の途中で、彼の子供を妊娠した。
自分が何者でどんな可能性があるか確かめる間もなく、家庭に入った。
スペシャルなはずの自分が、普通の主婦になる現実を理解できず。
家庭だけが彼女の居場所となり、魂は幽閉されたまま・・・
自分の存在意義を探したい。
自分は母、妻である以前に一個人の尊厳を求める人間なのだ。
お互い求め期待する反動で・・・
口論の末、反射的にこれ以上ない破壊的な言葉をはく。
それが時々、取り返しのつかない残酷な結末を呼ぶ。
彼女は子供を中絶してまで、パリへの移住を切実に望んだ。
何が彼女をそこまで、駆り立てたのだろう?
冷静にそれを話し合えていたら、何か違っていたのかな。
誰にも当てはまりうる、一組の夫婦が、日常で知らぬ間に爆弾を育て
新しい子供の命というヘビーな難題を前にして
落ち際には爆弾が血を含んで大爆発する。
サム・メンデス監督的な・・・日常に潜む闇を鮮烈に描いた映画。
最初から破滅の予感、この幼稚な妻にはうんざり
総合60点 ( ストーリー:55点|キャスト:80点|演出:75点|ビジュアル:75点|音楽:75点 )
かなり最初の方から破滅の予感のする作品だった。特に朝食の場面は良かった。二人の演技は真に迫っていて、すぐにこの後で何かがあることがわかった。自殺するのかなと予想したが、そうではなかった。でもやはり何かが起きた。閉塞感に追い詰められている妻の、今にも窒息してしまいそうな状態が見て取れた。
それにしてもこのケイト・ウィンスレット演じる妻エイプリルの幼稚さは目に余る。映画としては家庭に縛られず自由と解放を求める50年代の妻を描きたかったのだろうが、たかだか市民劇場の女優をやっても駄目で、おそらくやったこともない秘書になって簡単に高給がとれると思い込み、パリに移住できることを夢見る。自分の実力以上に自分を評価し、自分で出来ること以上のことが出来ると思い込む。何の実績もないのにいい歳して女優になりたいとかセレブになりたいとか言っている普通かそれ未満の水準の自分のことを勘違いしている女性に何度か会ったことがあるが、この役柄はそのことを思い出させて、観ていてほとほとうんざりする。
演技も撮影も演出も音楽を含めた雰囲気作りもいい作品なのに、彼女の役柄がどうしても気に入らなくて、苛立ちを感じてしまって面白くない。まだまだ豊かではない50年代に、郊外の家と車と家庭がある。それなのに実現する力のない者が現実から目を逸らして夢だけ見ても無駄でしょうとしか思えなかった。ここまで生き方と価値観が違うのならば、さっさと離婚して好き勝手にしてもらえればいいのにくらいの気分だった。エイプリルはパリに行く前に社会に出て働いて、自分がいかに使えないやつなのかを体験して限界を知っていれば、こんな馬鹿げたことに取りつかれなくても良かったのかな。
主演の二人の演技や演出に得点をつけるけれど、これほどまでにも世間知らずで身の程知らずな妻を主人公に据えるという物語には好感を持つことが出来ませんでした。
夢を追いかける妻としがみつく夫の葛藤
女優の夢を捨て平凡な主婦である事から抜けだす気力に
溢れ常に前に進もうとする妻。
何か具体的なものがある楽な道にしがみついてしまう夫。
タイタニックから受けた永遠の純愛と違い
この作品は全く対局的な印象を受ける。
暗く沈み込むようなストーリー展開。
それは観る側にも決断を催す。
覚悟を決めないとダメだ。
かなりガツンときます。
純愛、軽いラブストーリー期待なら
観ない方がいい。
もう一つ。
夫婦では観ない方がいい。
期待ほどでは
可もなく、不可もなくといったところか。
タイタニックの二人が競演してるんで、
タイタニック続きとみて眺めたら結構面白いかも。
それは冗談として、
久々に、アメリカの普通のドラマを見たと思ったのが、
感想です。
当時のアメリカの普通の世界なんですかね。
最後のほうのケイトがすごいですね。
レボリュ-ショナリ-・ロ-ド
ごく普通の家庭を描いた映画。奥さんが浅はかすぎて驚きます。箱入りお嬢様のまま家庭に入ったため、夢見すぎたんですね。外の世界を十分知ってから家庭を持つべきだという見本です。しかし、レオもケイトもパパとママ役をやる歳になったんですね。レオも珍しく普通の役なんで興味本位で見に行きました。でも、普通の役が実は一番難しいんですよね。しかし、何の感動もしなかったし、奥さんがバカすぎてイライラしました。
この際だから、ついでに言うけど・・
映画「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」
(サム・メンデス監督)から。
レオナルド・ディカプリオ演じるフランク・ウィーラー、
ケイト・ウィンスレット演じるエイプリルは、可愛い子どもにも恵まれ、
レボリューショナリー・ロードに住む若夫婦は、誰もの憧れの的らしい。
この映画のタイトルには、ちょっと説明が必要となりそうだ。
さて、その中から選んだ「気になる一言」は、口喧嘩のワンシーン。
フランクが勢い余って口にした「この際だから、ついでに言うけど・・」。
この一言のあとの台詞は、決していい言葉が続く訳がない。
案の定「(子どもを)おろして欲しかった」。
決定的な一打である。
「飲んでるから言うけど・・」(酔っぱらっているから言うけど・・)も同じ。
口にする方は、酔っぱらっているから忘れてしまうが、
言われた方は、けっこう長い間、覚えているものである。
イライラして口喧嘩するのは仕方ないかもしれないが、
「この際だから、ついでに言うけど・・」は、絶対にやめた方がいい。
映画としては、ちょっと期待はずれだったかな。
ハッピーな話ではないが観てよかったと思える作品
Leonardo DiCaprio演じるフランクは
妻と面と向かってきちんと話をして
わだかまりなく進もうというタイプ。
時として口論となった時には大声でどなるし
(実際にはなぐらないけど)カッとなって手をあげたり物にあたるタイプ。
けれど、単純なhappy-go-lucky person じゃなく
彼は彼なりの対処の仕方で、努力して物事を理解し
平凡な毎日に意味を見出して生きていこうとしている。
それに反してKate Winslet演じるエイプリルは
どちらかというとガス抜きが下手なタイプ。
unpleasantな問題が持ち上がり
フランクが話をしようとしても
「お願いだから、黙って!!!!」
と言って、フランクの怒りを買ってしまう。
けれど、二人ともただ不満をぶちまけているだけじゃない
もがいてもがいて何かを変えようとしているだけ。
決してハッピーな話ではないのだけれど
観てよかったと思える映画。
ただ、カップルでは観にいかないほうがいいかも。
少なくとも私は独りで観にいってよかったと思った。
女性として・・・
人生の意味。
生きていく場所。
出産。
色々考えさせられました。
『家族の終わりに』ではダメなの?
流石はサム・メンデスの映画。美術も衣装も編集も話運びもスキが無い。しかし、彼だから故かマジメに悲劇や人間の愚かさに向き合いすぎて、後味が悪い。ほんとはA-つけたいけど、そこでマイナス。原作があるからしょうがないけど、郊外の退屈をコメディにしてしまった『リトル・チルドレン』のアプローチは秀逸だった。
オスカー無視だったけど、ロジャー・ディーキンズの撮影も抑制と誇示のバランスが素晴らしい。
レオとケイトは完璧な演技。オスカー無視は残念なくらい。但し、ちょっとハイペースな力演なので中盤あたりでおなかいっぱいになる。『その土曜日~』でもバリバリした存在感を出していたマイケル・シャノン、精神病患者なれど物の本質をズバリつきまくり場面をさらう。この映画の数少ないコメディアプローチで面白い場面でした。
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