「皮肉エンターテイメント」メッセージ そして、愛が残る ダックス奮闘{ふんとう}さんの映画レビュー(感想・評価)
皮肉エンターテイメント
ジル・ブルドス監督が、「スパニッシュ・アパートメント」のロマン・デュリス、ジョン・マルコビッチを迎えて描く、人間ドラマ。
目の前に突然突きつけられた「避けられない、死」に向き合う人間の姿、葛藤。このテーマは、既に「ファイナル・デスティネーション」シリーズを通して、アメリカ・ハリウッドが扱っている題材である。一度、避けることが出来た悲劇であっても、決められた運命からは逃げられない。物語のトーンが大きく異なるが、描こうとする世界に共通点を見出すことは容易い。
では、本作がアメリカ映画界が続編を連発するほどに敬愛した作品と同様のテーマを描く意義は、どこにあるのか。そこには、同じ「死への抵抗」という道を辿る上での、明確な相違点を考えていく必要が生じる。
「ファイナル~」において、「死」は衝動と恐怖のエンターテイメントとして描かれている。「自分が、どうして死を避けることが許されたのか」「何故、自分だったのか」といった自分の内面、存在の定義に深く分け入って考える展開を敢えて拒絶し、徹底的に残虐な、そして明朗な殺戮描写をもって死を見つめている。
対して本作は、アメリカが細心の注意を持って排除した「心に潜り込む」世界を目を逸らさずに、粘着に描いていく。時に宗教を、医学を、果ては広大な自然を持ち寄って、理解不能な臨終という行為を即物的に考えようと奮闘する。ここに、現在でも世界をその手中に収める(と、考えようとしている)アメリカと、ヨーロッパ各国合作作品の精神的相違をみるのは容易である。
加えて本作には、特徴的な象徴が用意されている。それが、「ガラス」だ。全てを可視化するガラス張りのビルディング、庭に張り巡らされたガラスのテラス。それはそのまま「全てのことは、理解できる」と思い上がる人間の傲慢さを形にしてみせる。この仕掛けが、可視化も想像も出来ない「死」の物語にぶち込まれている、この嫌味と皮肉。
中盤、銀行に押し入った強盗が銃に打たれて果てるとき、ガラスは見るも無残に砕け散っている。「分かったつもりに、なるな。」そんな警告が、粉々になった破片から聞こえてくるようだ。
快活に「死」をお祭り騒ぎに仕立て上げる視点、そして皮肉交じりに「死」を分かる振りをする人間を批判する視点。まるで違う展開から生まれた物語のようでいて、実は根本は似通っている。
「どうせ、分からないなら、分からないままにしておけ」
今を、楽しめ。そういうことなんだろう。