「男の残酷さ、女の痛々しさ。」天安門、恋人たち とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
男の残酷さ、女の痛々しさ。
ユー・ホンとチョウ・ウェイが再会してからの流れで、ラストが忘れがたいものになる。
ほとんど台詞らしいものはない。表情と行動、間合いで表現する。
解説にある「互いを忘れることができずにいた2人」が、再会を果たして、どうして、こんな風になるのか。ユー・ホンがそうするのか、それがつぶさに表現されており、とても納得させてくれる。そして、それをうけたチョウ・ウェイの反応。確かに現実的にもあるあるなのだが、ここまでストレートに描くか?
その後に続く、エンディングを見れば、監督の親しい方をモデルにしたのか?
男女4人がクローズアップされて、その後が簡単に語られる。
監督の青春記録を描き出したものなのだと納得する。
原題は『頤和園』英語タイトルは『Summer Palace』。
この映画の公式サイト(UPLINK)に載っている晏さんの寄稿によると、頤和園は「北大生(北京大学生)と清華大生にとっての公園はデートに使う恰好な場所」で、「原題は作者が青春に捧げるオマージュの時代風景として付けたものではないかと思う」とある。
私もこの評に納得。ユー・ホンとチョウ・ウェイのカップルを要として、ありがちの、彼らの恋の成り行きを追っていると思う。
あの”天安門事件”が起こった時に大学生であり、当然、その状況を経験しており、その事件は出てくる。世界の流れとして、決して崩れることはないと言われたベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊、香港返還にも触れてはいるが、正直、このドラマを他の時代に移しても成り立つ。
”天安門事件”を強く打ち出した邦題やチラシから”天安門事件”を期待してしまったが、肩透かし。評価が下がる。
ただ、評価が低いのはそれだけではない。
青春なんて、恋なんてそんなもんだと言われてしまえばそうなのだが、
ただただ、セックスしているだけ。2段ベッドが並んでいる雑魚部屋寮でのごたごた。一応男子寮・女子寮と分かれているが、出入り自由となれば、そこで起こることなんて。
そこで出会うユー・ホンとチョウ・ウェイ。ユー・ホンはチョウ・ウェイを一目見ただけで、「運命の男」と判ったという。そういうことは確かにあるが。とはいえ、鑑賞している私たちには、どこに惚れて、好きになって関係を続けていくのか判らない。寮のごたごたの他は、セックス。二人がどんな信条をもって、どんな性格でとか、恋愛ドラマを見るときに私が期待するようなシーンはわずかというか、記憶にすら残らない。余程、体の相性が良いのだろうと思うしかない。あとは、二人とも他の大学生から「寝てみたい相手No.1。」とみられている。そんな相手を独占できているという自負だけか?
天安門の集会に、皆でこぞって行くのも、何かのイベントに行くようだった。
大学全体を包み込む高揚感。その雰囲気から外れるのも仲間外れみたいだしと、皆で何かを行っているその思いに浮かれている感じ。
中国語が解れば、字幕に表現されていない、例えば壁にびっしり張られたアジテーションの文言が解れば彼らの考えていたことが理解でき、集会に参集する意義とか思いが理解できるのだろうが…。
検閲の関係で表現しなかったのか?でも、そもそも”天安門事件”を入れるだけで検閲に引っかかることは解っていて、あえて入れたのだからと期待する方が酷なのか。実は大きなうねり・ムーブメントであって、大半の学生は何も考えずに、たんに衝動・エネルギーのはけ口だったのか?
そんな浮かれた大学生たちの思いは、考えもしなかった軍部の介入によって、夢から覚めさせられる。
そんな状況を心配したユー・ホンの前彼によって、ユー・ホンは故郷に連れ戻される。
大学に残った学生は軍事訓練?何がどう起こっているのか説明はない。訓練を課すことによって、”考え””行動”する自由を、行政は奪おうとしたのか?
そんな雰囲気を嫌って、チョウ・ウェイたちはベルリンに行ったのか?当局に目をつけられて逃亡したようには見えなかった。
それからの、二人のそれぞれが語られ、”再会”のシーンとなる。
チラシには「時代に翻弄され、時を超え愛に揺れ動く男女の官能ラブストーリー」とあるが、たんたんと登場人物を追うので、監督の親しかった人々の記録のように見える。
時代が、彼らの生き様を変えたようなエピソードは特にない。ベルリンで、ポーランドから来た女性との会話もあり、時代の雰囲気はさらってはいるのだが、あの時代を知らない人々には伝わるのだろうか?
セックスシーンだらけであることが”官能”なのだろうか?女優や男優が頑張っていることは認めるが、1本調子。二人きりになると、お互い相手を求めたくなるような関わり合いもなく、いきなりキスしてセックスが始まる。ちっとも官能的でも、ロマンティックでもない。その無機質なやり取りに空虚感を感じるだけ。それを狙っての演出なのだろうか?
役者はすごい。
上にも記したように、ラストのシーンでは、表情と行動だけで、それぞれの心情を見せてくれるハオ・レイさん。
リー・ティを演じられたフー・リンさん。大学時代は特筆すべきものはないが、ベルリンに行ってからの細やかな表情。クールに冷めているようで、不安定さをにじみださせる。唐突な行動には驚いたが、その直前の表情を思い返してみれば、やっぱりと納得させるものがある。
そして、チョウ・ウェイを演じたグオ・シャオドン氏。周りに気配りし、大切にしているようで、自分でも自身をそういう風に規定しているが、実は、相手の心の機微に鈍感と言うか、それより自分の欲望に忠実な男を見事に演じている。
役者の演技やシーンだけを見ると、ハッとさせるようなものがあるが、全体を通してみると、特に残らない。眠たくなる。そんな風に気を抜いたところで、あのラスト。ワザとの演出なのだろうか?
「人間は孤独を求め、死に憧れる でなければなぜ愛する人を傷つけるのか」と、いかにも哲学的なことを言っているが、この映画から伝わってくるのは、精神的未熟さ。相手のことを思いやることなく、ひたすら自分の欲望と思いを相手にぶつけるだけ。相手の幸せを考える言動がとれたら、もっとちがう局面が開けたのに。
それを時代のせいにするのは、それこそ、自分で自分を育てられない精神的未熟さである。
そんな風に、ドラマとしても今一つなのだが、天安門がらみの広報の仕方も、評価を下げる。
香港での弾圧。活動家の逮捕。そして、今ヒートしている台湾の情勢。そんな時期に「天安門」が邦題に入っている映画となれば、天安門事件について多少は触れていて、門外漢にも理解ができるような何かヒントが得られるのではないかと期待してしまう。
若松監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』ほど、真正面に向き合った映画ではないことは、予告を見れば理解できるが、これほど単なる背景になっているとは。㊟
チョウ・ウェイたちの行き先がベルリンなのは、映画的にあえてなのだろうか。それともモデルにした人々が実際にベルリンに行ったからなのだろうか。
ベルリンの壁の崩壊に刺激を受けて、東西ドイツ併合1週間前に、ツアーでソ連:当時の国名(モスクワ・レニングラード:当時の地名)・ポーランド(ワルシャワ・クラクフ・アウシュビッツ)・東ドイツ(ベルリン・ドレスデン・ライプツィヒ・マイセン)・西ドイツ(ベルリン)・チェコスロバキア:当時の地名(プラハ)を旅してきた身には、描写が足りない。壁崩壊、ソ連支配からの脱却に希望を見て浮かれ、未来を夢見た世相。けれども、すぐにその時流に乗れた者と、完璧な保障を失って困った人達など、さまざまに分かれていった人々。自由に伴うその代償。そのもやもやは映画でも表現されているけれど…。
自分が生きてきた時代を客観視するのは難しいと思った。
㊟若松監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、映画としてこの映画以上にひどいし、中に表現されている思想も低レベルだが、それでも、ご自身も多少関わっていた思想・現象に真正面から向き合った姿勢にはこうべを垂れる。役者の迫真の演技も脱帽。
2006年製作作品。2024年、オリジナルの35ミリプリントをノンレストアでDCP化してリバイバル公開の試写会にて。