脳内ニューヨークのレビュー・感想・評価
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NY無間地獄
虚構と虚構の間に一瞬だけ浮かび上がったリアリティさえも次の瞬間には虚構の一部となって色褪せていくやるせなさ。少しでもものを創ろうとしたことのある者であれば身に覚えがあるはずだ。
何をしても行為そのものばかりが、そこに込めた思いばかりが拒食症患者の骨格のように浮かび上がるあの無力感。自分がやっていることはあくまで人形遊びの範疇を出ず、そこに他者との生き生きとした交感などというものは存在しないのではないか。そう考えると途端にすべてが虚しく思えてきて、何もかも手につかなくなる。
メタ描写なんてのは一番の悪手だ。メタを重ねれば重ねるほどリアリティは遠のいていく。でも仕方がない。できることはそれしかないのだから。ケイデンはメタを重ねるごとに芸術者としての価値を減じていく。いや、これは彼なりの、ある種の自己破壊だったのかもしれない。リアリティを史上の価値とする芸術なるものからの脱却、そのための自己破壊。
しかしそれもうまくはいかない。どれだけ自我崩壊の断崖をふらついても、ケイデンはそれすらも結局のところ新たなる脚本のアイデアとしてメタ化してしまう。まさに無間地獄。永遠に逃れられない円環。もちろんそこには他者の温かみなどない。
この不毛なる堂々巡りから脱却できる手段は一つ。ケイデン役の老人がそうしたようにすればいい。つまりビルから一思いに飛び降りる。つまり死ぬ。
まあ、誰もが簡単にそう決意できるのであれば、わざわざこんな映画撮らないんだけどね…という死ねなかった臆病者の視点から綴られる痛切な創作苦悩論。
面白いわね、女なんて面倒なのに
映画「脳内ニューヨーク」
(チャーリー・カウフマン監督)から。
正直、映画自体は、よくわからなかった。(汗)
最後まで、何を伝えたかったのかすら・・。
ストーリーと関係ないけれど、面白いシーンはあった。
主人公は、妻と子どもに別れを告げられ、
精神的に参っていたのはわかるけれど、
「女になれれば楽なのになぁ・・」的なことを口にする。
それを聞いていた、ある女性。(役柄も忘れたけど)
「女に?」と訊き直す。
「向いているかもしれない」と弱気になっている。
そこに、変わったものをみる目で呟く台詞。
「面白いわね、女なんて面倒なのに」
このフレーズが面白くてメモをした。
「女は弱いもの・楽に生きている」と決め付けて、
男は、よくこんな台詞を使うけれど、大間違いらしい。
こんな面倒な生き物「女」なんて、やだやだ・・
そんな嘆きが聞こえてきそうだが。(笑)
でも、不思議なことに、生まれ変わるとしたら、
「男になりたい」と思う女性は少ないらしい。
女なんて面倒だけど、男はもっと面倒みたいだな、と
どこかで気付いているようだ。
それにしても、よくわからなかった・・ふぅ~。
頭がぐるぐるぐる…「カウフマンの穴」にこそ入ってみたい
『マルコヴィッチの穴」の脚本家カウフマンの監督デビュー作!ということで期待大だったのですが…
ちょっと期待しすぎたかなあ、と。
いえ、もちろん、決してつまらないというわけではありません。
むしろ、マルコヴィッチやエターナル・サンシャインで描かれていた、
人間の脳の中で展開される大妄想大会の純度がMAXまで高まって面白いのですが、
「ついていくのに疲れた…」という感じです。
主人公は劇作家で演出家のコタード。
マッカーサー・フェロー賞で得た莫大な賞金を元に、
彼は前代未聞の演劇プロジェクトを思いつきます。
それは、NYの巨大は倉庫にNYの街を再現し、
そこで、自分自身の生活を細部まで演劇化するというもの。
とはいえ、コタード自身が舞台に立つわけではないので、
コタードの生活を演じる役者がいて、その役者に演出しているコタードを演じる役者もいる…
そして、この舞台がいったいどこから始まって、どこで終わればいいのか、コタード自身にもわからなくなり、
やがてリアルな生活そのものが虚構の舞台に飲み込まれていき、
気づけば上演されないまま、みんな年老いて…
と、こう思い出して書いているだけで、頭がぐるぐるぐる。
ほんとに悪い夢に入り込んでしまったような、、、
笑いとしてはかなりダークですが、その分、チャーリー・カウフマンのねじくれきった感性(←いちおう誉め言葉)と
頭のよさをいやと言うほど堪能できます。
こんなストーリーを考えつく「カウフマンの穴」にこそ、入ってみたいですよ、、
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