「惜しむらくは、台詞が聞き取りにくいこと。耳をダンボにしないとよく聞き取れないシーンが多々ありました。」クライマーズ・ハイ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
惜しむらくは、台詞が聞き取りにくいこと。耳をダンボにしないとよく聞き取れないシーンが多々ありました。
この作品は、一見JAL123便の墜落した事件を追う記者の物語に見えますが、むしろ事故原因に絡むスクープを記事にするため奮闘する地方の新聞社の人間模様を描いた作品でした。
主人公の遊軍記者悠木和雅に言わせると、スクープをモノにすることは、登山の時に感じる「クライマーズ・ハイ」に似ているというのです。
クライマーズ・ハイとは岩登りの際、興奮状態が極限まで達して、恐怖心がなくなる病気。そのまま登りきってしまえばいいが、登っている途中でクライマーズ・ハイが解けると恐怖で1歩も動けなくなるのです。
この症状と同じく悠木ばかりでなく、編集部全体がスクープ目指して興奮状態が極限までヒートアップしていく姿がリアルに描かれていました。
悠木がどうしてクライマーズ・ハイのことを知っていたか。それは悠木が勤務先の新聞社の山を歩こう会に無二の親友・安西と参加していたのです。
その安西から誘われて谷川岳一の倉沢から衝立岩中央稜のロッククライミングに誘われていました。
悠木が谷川岳に向かうべく安西との待ち合わせ場所に向かうとしたとき、日航機の墜落の一報が入り、そのまま居残りに。安西も病に倒れて、衝立岩のロッククライミングは実現されずじまいとなってしまいました。
しかし悠木の心の中で、スクープへの闘志を燃やすとき、安西とともに衝立岩を這い上っている姿がイメージされていました。
地方新聞には、全国紙と比べて圧倒的な取材力の制約があり、40年の社史のなかてで、ずっとスクープを抜かれっぱなしでした。例えば1985年当時携帯でなくまだポケットベル全盛時に、全国紙や通信社は無線を使って現場からリアルタイムに緊急連絡できますが、悠木の新聞社は足を使って電話機を探す記者根性が尊ばれていたのです。
それ故能力ある記者は、全国紙に引き抜かれていくのが通例になっていたのです。しかし今回は地元で起こった大事件。地元紙のメンツにかけて全国紙の連中に一泡吹かせてやりたい。通信社の配信記事を使うなんて地元紙として恥だと事件のディスクとなった悠木は意気込むのでした。
けれども紙面を巡っては、勝手に広告を削ったことで広告局を激怒させ、校了時間を遅らせて、配達時間を期にする販売局が殴り込んできたり、さらには印刷機のトラブルがあったりで、現場に体当たりで取材してきた記者の記事がなかなか活かされず、悠木も怒りを爆発されるのです。
そんな報道を巡る社内の壁が、悠木には谷沢の衝立岩とオーパラップしていたのでしょうか。
ちょっといい話として、悠木が全国紙にない地方紙の使命に気づくところが良かったです。社内のしがらみに思わずトップの記事を中曽根首相の靖国初参拝(事故後4日目に参拝)への差し替えに承諾したとき、遺族が事件を報じた掲載紙を手に入れようと編集局に訪れます。あの遺族はなんでわざわざ葬儀の合間にうちに立ち寄ったのか?うちだからこそ、事件のあらましが詳しく載っていると思ったのに違いない。遺族のためにも俺たちはやれるところまで、全国紙が報じないことを伝えなければいけないのだと思いを新たにし、遺族をじっと見送る姿に感動しました。
新聞社の内情を窺い知り、そこで日夜スクープを追いかける記者がどんな思いで、取材を続けているのか熱く語っている作品でした。
撮影は、前橋の中心街のビルを丸々借り切って、新聞社に仕立て上げそうです。堤真一は泊まるホテルもロケ現場の真ん前だったため、一ヶ月そこへ缶詰になって、すごく集中したし、とても疲れたと試写会で語っていました。
画面でも、クライマーズ・ハイになっていく悠木の姿に成りきって、アグレッシブな演技を見せています。
御巣鷹山現場に向かった社会部のキャップを演じる堺雅人は、実際に山に登り、壁のように立ちはだかる急斜面で取材活動を行うところもこなし、シャツはボロボロ、ヨレヨレになって下山するところを演じていました。普段穏和な役どころが多い彼の顔つきの険しさに注目ください。
あと悠木と個人的な関係が取り沙汰されている新聞社社長白河を演じる山崎努も、業く嫌みったらしいワンマン社長ぶりを、いかにもという感じて好演しています。
ただ惜しむらくは、台詞が聞き取りにくいこと。耳をダンボにしないとよく聞き取れないシーンが多々ありました。音声の収録方法もありますが、出演者の台詞回しが一様に早く、シーンが急展開するとき他の人の台詞とかぶってしまうので、聞き取れなくなってしまうのです。
また、新聞業界の専門用語がまんま飛び交うので、話していることの意味がわからなくてぽかんとしてしまうこともありました。現場のリアル感も大切ですが、映画である以上観客に分かりやすく伝える工夫も必要でしょう。
これは前作『魍魎の匣』でも同様でした。おそらく監督は自分の演出イメージが優先で、観客を置いてけぼりにしても、自分の表現をせっかちに映像化してしまう癖を持っているだろうと思います。