ぐるりのこと。 : 映画評論・批評
2008年5月27日更新
2008年6月7日よりシネマライズ、シネスイッチ銀座ほかにてロードショー
累積した苦しみを吐き出した橋口亮輔の新たな決意表明
あえて劇的な出来事を描かず、画面の外に感じさせるこの静かなる映画には、不思議な磁場がある。すうっと魂をもっていかれた観客は、次第に発狂していったバブル崩壊後の約10年を背景に主人公と共に心掻きむしられ、この状況から何とか逃れたいともがくことになるだろう。
ごく普通の夫婦――自堕落で飄々としたリリー・フランキーと、思い詰めがちな木村多江の日常。認められたい、愛されたい、幸せを掴みたい……。女として当然の願いが叶わなかったとき、妻は心の均衡を失う。壊れゆく木村の演技が凄まじく、演技を感じさせないリリーとの掛け合いは、感情のぶつかり合う修羅場と化す。法廷画家という夫の職業は、同時代の病理を感じさせる上で作為的にも思えるが、幼女殺害や地下鉄サリンを始め陰惨な事件を巻き起こした被告たちを垣間見つつデッサンする様は、僕らがメディアを通して社会を体感した似姿といえる。90年代に表出した悪意の数々はこの国に生きる者のささやかな生活をも黒く覆い、確実に精神に影響を及ぼしてきたという事実を、映画は黙々と暴き出す。
しかし、絶望のままでは終わらない。ただひたすら夫は妻に寄り添い、時間を共にする。意味を求め理想を追うことを止め、漂うように生き直す緩やかな生。射し込む一条の光は、希望と呼べるほどまばゆくはない。生きづらい人生を緩和させ癒すのは、たった一人の理解者であるという、実感に基づく橋口亮輔の心の声が聞こえてくるようだ。これは、時代とシンクロしてきた作家が累積した苦しみを吐き出し、再び歩み出そうとする決意表明でもあるのだろう。
(清水節)