「いつの日か、その時は訪れる」おくりびと 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
いつの日か、その時は訪れる
悔しいけれど泣いてしまった。まさか納棺師の話で…。噂に違わぬ出来映えでした。
しかもこれって娯楽性に溢れているのだから驚く。
困った事に…。
山崎努が出演しているだけに、伊丹十三監督の『お葬式』を一瞬は思い浮かべるが、あちらは《お葬式》とゆう儀式に集まる親戚・縁者の奇妙な人間関係を様々なシチュエーションに配置して面白・可笑しく描けるの対して、単純に《納棺師》の話で2時間以上を引っ張るのだから恐れ入る。
脚本ではその為の手段として、いわゆる世間一般に“3K”と呼ばれる職業の一種の様な存在として、この納棺氏を表現している。
映画を観て若妻役の広末涼子が、「恥ずかしいと思わないの?」「触らないで、汚ならしい!」と言って非難するが、誰が彼女のこの言葉を非難出来ようか…所詮は世間から見た3Kと呼ばれる職業に対する意識とはそんなものだろう。
しかしそんな彼らは確かに存在し、ひっそりと…でも確実に人の嫌がる仕事をこなしているのだ。
「お前達は死んだ人間で仕事しているんだろ!」と言われ。「隙間産業だから…」と自分達を卑下したりする有様だ。
でもこの映画で描かれる納棺氏の話は、遺された遺族の想いを汲み取り、淡々とこなして行く。それら一つ一つの所作に感動すら覚えるのだ。
初めて他人の遺体に接して家に帰り、思わず妻の身体を弄ってしまう。今自分は生きている。呼吸をしている。その事を確認しているかの様である。思わず、昔父親から買い与えられた子供用のチェロを一心に弾いてしまうのもまた、一つの物体と化してしまった肉塊を目にして、自分のアイデンティティを確認したかの様に見受けられます。
必死になって川を遡上する鮭。死んでしまう自らの運命を知ってか?知らずか?悩む主人公の前に現れては消えて(流れ)行く。
更にこの作品には食事をして“食べる”とゆう行為が数多く登場します。
生きる為には食べる事。
共に同じ食べ物を共有して“食べる”。 それが愛する人と一緒に末永く生活する第一の源なのだから。
映画は妻との和解、友人の理解を得るきっかけとして、吉行和子の存在を逸れとなく配置する。広末涼子を紹介する時点で終盤に於ける展開を示しているのだが、敢えて観客にバレバレでもそれを隠そうとはしない。寧ろそれまでの主人公の頼りなさ・正直な性格に肩入れして観てしまっている為に「見てあげて欲しい…」とさえ思ってしまうのだ。
やはり笹野高史の存在も、観ていて「やっぱり…」とは思うのだが、そこに至るだけの用意周到な描き込みがある為に感動させられてしまう。
此処までが第一のクライマックス。
映画はこの後に、主人公である本木雅弘の真のアイデンティティを用意する。
どうしても思い出せない父親の存在。
やはりここでも観客にはバレバレを承知の上で、その存在を明らかにさせる。
“それ”は絶対に父親の○の中に在るに違いない。
在ると解っていて観ていながら感動させられる映画のマジックがそこに在る。
「毎年交換しょうな!」
父親の誓いに嘘は無かった。父親にとって自分は忘れられた存在では無かったのだ。
その事実こそが主人公にとっては何よりの贈り物だった。
だからこそ全身全霊を込めて“おくりびと”としての仕事を全うする。
そして間もなく自分は父親になるのだ。
「どんな宗教にも対応しているから…」と言う社長。
極めて日本的な儀礼・儀式であっても、愛する家族・親友・知人が亡くなる事は生きて行く上では避けては通れない。
その上では遺族を思いやる納棺師とゆう珍しい職業ではあっても、世界中に理解される事は間違い無いとさえ思える。
(2008年9月20日楽天地シネマズ錦糸町/シアター1)