「k-20は時代が産み出した虚像なのだと思う」K-20 怪人二十面相・伝 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
k-20は時代が産み出した虚像なのだと思う
<映画のことば>
ここには、身分制度なんてクソ食らえっていう自由な人間が集まってんだ。
平吉さんも、気楽にね。
本作の舞台は、第二次世界大戦(太平洋戦争)に参戦しなかったとした場合の日本のある都市という設定でした(昭和20年代くらい?)。
作品中に、遠藤が怪人二十面相の嫌疑をかけられて警察当局の取調べを受けるシーンがありますが、そこでは、拷問によって遠藤の自白が強要されます。
(浪越警部(益岡徹)が、遠藤のあげる悲鳴が他に洩れることを気にして、周囲の人目を気にしながら、取調室の引戸を静かに閉めるシーン
が、評論子には印象的でした。)
すなわち本作では、「敗戦」というエポックメーキングを経なかったということで、その旧態依然たる勢力を温存した旧日本軍が警察権力まで掌握し、警察作用(刑事警察、警備警察)も軍(警務局)が担当しているという設定でした。
おそらく、日本が、この作品どおりの社会であり続けたとしたなら(かつての旧刑事訴訟法の時代にそうであったように)「自白は証拠の王」と位置づけられて、拷問によって無理やり自白を得るような刑事手続が、いまでも、当たり前のようにまかり通っていたことでしょうし、当然、自由な言論のできない社会であったと思います。
(そのことが、どんなに強力な冤罪発生の原動力となったことか)
そして、本作の怪人二十面相(K―20)は、そういう不自由な世相が産み落とした、自由・平等(公正・公平?)に対する思い(渇望?)の「申し子」なのかも知れないとも、評論子は思いました。
日本が(敗戦を契機として)民主化されていなかったら…。
この作品を見ながら、そんなことも考えていました。
そんな訴えかけもしているとしたら、この作品は、ちょっぴり「社会派」の作品でもあり、その点も加味すると、充分な佳作だったとも、評論子は思います。
(追記)
主演の明智小五郎とサーカスを心から愛する曲芸師の遠藤平吉の対立軸を、助演の源吉がしっかり引き締めている感じがしました。明智小五郎を演じた中村トオルの端正な顔立ちが、理知的な名探偵・明智小五郎のイメージにピッタリだと思いました。
(もうお一方、羽柴葉子(松たか子)の共演ということが、本作の「ウリ」のようでしたけれども。それでも、いささか失礼ながら、評論子には、明智・遠藤のふたりの対立軸に添えられた「壁の花」のような気がしました。)
(追記)
ストーリー展開のスピードや軍警察当局と遠藤との息詰まる攻防、VFX全開の迫力の点では、本作は、申し分なく、楽しく見ることのできる映画です。
(本作は、オープニングの画面からして、流麗なVFXでした)
これから、本編にもVFXを多用した映画が増えることでしょう。映画はVFXという「武器」を得て表現力に磨きがかかり、リアルの世界との融合で、ますます面白くなりそうだとも、評論子は思いました。
(追記)
佐藤嗣麻子さんの監督作品を観たのは、これが初めてでした。ネットで見る限り、アクション系やサイコ・サスペンス系の映画を得意とする監督さんのようです。監督や俳優をキーにして作品を選んで行くことの多い私としては、また新しい楽しみに触れることができそうです。
(追記)
筆の勢いで、本当に本当の「蛇足」を付け加えるとすれば…。
欲を言えば…確か、推理小説の「掟」のひとつに、犯人が警察関係者(犯人を追及する側の人間)であってはいけない-というのがあったと思います(ヴァン・ダインの20則)。
それから言えば、怪人二十面相の正体か、こういう結末であってはいけなかったように思います。
もうひと捻りがあると、もっと後味が良かったように思います。