「主人公の「身勝手」さが際立ってしまった」イントゥ・ザ・ワイルド 瑠璃子さんの映画レビュー(感想・評価)
主人公の「身勝手」さが際立ってしまった
正直にいえば、自分の力を過信した青年が自然を舐めてかかって自滅する。それだけのことである。彼は準備も知恵も足りなかった。映画の中では触れられてなかったが、確か増量した川を無理に渡ろうとして足を痛めてしまったんじゃなかったっけ?自然の中で生活することにおいて「なんとかなる」は通用しない。「なんとかする」には知恵がいる。そこを表現するシーンとしてヘラジカかなにかを仕留めるのだが、解体するのに手間取り、まったく食べることが出来ずに腐らせるシーンがある。彼は「仕留めなければよかった」と後悔する。もしイヌイットや猟師としばらく生活をともにして狩猟経験を積んでいればこんなことはなかっただろう。また保存方法もわかっただろう。だが彼はただ狩猟経験者から話を聞きメモをとるだけにした。こういうシーンが続き、なんだか私は彼が死ぬべくして死んだように思え、そんなんじゃ死んで当然、と映像化された彼には同情も感情移入すらできなかった。それこそ自己責任だ、と冷酷な感情すらわいた。
原作を読んだときにはあまりそういう感じがしなかったのは、原作はあくまでも「通過儀礼」として「旅」をとらえていたからだと思う。原作には筆者クラクワーの似たような体験(彼の場合は冬山に単身登攀する)が描かれており、自分も彼(クリス・マッカンドレス)のようになっていたかもしれない、それをわけたのは「経験」と「運」であるとしていた。クラクワーの「共感」と「冷徹な視点」が原作「荒野へ」に深みと諦観を与えていた。クリスは力の限り挑戦し、そして敗れた。結果は非常に残念だが、それでも精一杯やったのだ、と。
そういった原作にはあった「自分と彼の違いは何処なんだ?」という問題意識がこの映画にはない。すっぱりと抜け落ちている。そのため(「帰ってくる」ことを前提とした)通過儀礼としての側面が消え、(死者に対してはかなり語弊があることを承知で用いるが)「良き敗者」としての主人公があぶりだされることによって感じる、締め付けられるような自分もそういう道を通ってきたのだという「懐かしさ」「郷愁」はなくなり、好き勝手にやって勝手に死んだという印象が浮かび上がってしまっている。昔ある精神科医から聞いた「ドラゴンボールみたいにどこかに行けば強くなれるとか変われるとか思うやつが多すぎる」という話を思い出した。「自分探しの旅」はこの側面が強いと私は思う。通過儀礼はそれとは違い、オデュッセウスのように「発見」するためあるいは区切りをつけるために旅立ち、やがて「帰ってくる」。帰ることを前提にした通過儀礼としての旅と自分探しの旅はテーゼそのものがまったく違う。原作と映画の印象が私の中でかなり異なってしまったのも、ここに由来するのではないだろうか。
冷徹な分析のない「無邪気な共感」はかえって主人公の無謀さを浮き立たせ、共感をそぐことになったのは皮肉である。製作者側の「視点」が手放しの礼賛と「自分探しの旅」への共感(「通過儀礼」としてのではない)にあるため、主人公の「身勝手」さが際立ってしまった。アカデミー賞を取れなかった原因はそこにあるのではないだろうか。
映像的技巧が凝らしてあり見所は多いし、つまらねえ感傷を粗く断ち切るような生ギターのブルージーな音楽とか、いいところがいろいろあるのに非常に残念。主眼とするところを掛け違うだけでこんなにもずれた話になるんかねえ。