「疾走できる者だけにとどく『ダークナイト』」ダークナイト マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
疾走できる者だけにとどく『ダークナイト』
『ダークナイト』には、人は描かれていない。描かれているのは、ゲームだ。
人の行動原理になぞらえたキャラクターたちが、あたかも人のように振る舞う。正義とか悪とかという観念がゲームの進行させるアイテムだが、なぜバットマンは体も心も傷つきながらも正義を貫き通すのか、なぜジョーカーは残虐に悪を楽しむのか、それは描かれないし描く必要もない。
そして見る者は、怒りや恐怖への共感ではなく、ストーリーと共に疾走できるかどうか、が試される。残念ながら、私は走り始めて間もなく振り落とされました。
映画『ジョーカー』を観て、『ダークナイト』にさかのぼったのだが、改めて『ジョーカー』の特異さを感じる。それは狂気へと至る心の変遷を見事に描いた作品だ。
ただ、『ダークナイト』が秀逸な点は、映像の美しさだ。ブルース・ウェインのパーティーのシーンでは、レンブラントの絵画が思い浮かんだ。ライティングと画質(ビデオではなくフィルム?)の妙だろうか。
1966年から68年に作られたテレビドラマ『怪鳥人間バットマン』では、牧歌的な勧善懲悪が描かれていた。
すでにアメリカはベトナム戦争の泥沼にはまっていたのだが、1939年に作られたコミックの映像作品『怪鳥~』には、その影はみじんも感じられない。人々はアメリカの正義を信じ、あるいは信じたいと願い、バットマンにそれを投影していたのだろう。
しかし、2008年の『ダークナイト』では、バットマンの姿に痛々しさすらある。
時代背景はイラク戦争とアフガン紛争。終わりがない戦いの渦中でアメリカ軍は、アメリカが言うところの正義をなせばなす程、誤爆とやらで民間人を犠牲にし、テロを誘発し、混沌をもたらし続けていた(過去形では語れないのだが)。
まさしく、バットマンは悩めるアメリカの体現だ。いや、それどころかジョーカーへの憧れまでも・・・。
作り手にそうした意図があるか、否かに関係なく、人々に受け入れられるものを作る時、それは時代の状況を反映せざるを得ない。アメリカのみならず、世界は価値観の行き詰まりに苦しんでいる。