「タネ明かしではなく、嘘で終わる」ダークナイト f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
タネ明かしではなく、嘘で終わる
【要約】※2020年7月12日追記
★ジョーカーは、嘘つきなのに真実を示そうとしている。「私は嘘つきです」という嘘をついているところが、やはり嘘つき。
★ バットマンの仮面も、人間の善性もみんな「装い」なんだ(お前ら嘘つきだろ?)ということを示したいジョーカー。
★ 作品の語り口自体も、「嘘→真実」という際限のないタマネギの皮むき(ミスダイレクションの連続)なところがメタ。
★そもそも映画も一種の「嘘」(現実には起こっていないことを、本当であるかのように語ること。あるいは映画製作という行為が、ある意味で嘘をつくこと)
★「嘘→真実」の種明かしを繰り返すこの映画は、真実を明かすことによっては終わらない。嘘をつくことによって終わる。だが観客の中には真実が宿る(何よりも守りたい嘘)。そこに余韻が、崇高さがのこる。
【本文】
ミスリード。ある可能性を真実であるかのように提示し、実は別のところに真相がある。ミステリの構成として基本だが、ノーラン監督はこの『ダークナイト』を、全編を通じた「ミス・ディレクション→種明かし」の細かな連続によって作り上げた。1つの真相が明らかになっても、また別の真実が隠されている。その連続によって観客は興奮を覚える。嘘が提示され、真実が明らかになるが、また別の嘘が浮上する。タマネギの皮剥きのように際限がない。(どんなに皮を剥いても残したい嘘、それによって守りたいモノとは何だろうか?)手品のように知的だが、エンターテイメントとしても傑作である。(cf.『ダークナイト』の前監督作といえば『プレステージ』だった)
そして「何かを表に出すことによって何かを隠す」のはバットマンという仮面装着ヒーローの本質(単に隠すのではなく、攻撃効果を持たせる)である。また人間社会の世渡り術の基本でもある。それゆえ、この『ダークナイト』という映画は、何かを隠しながら何かを見せるという語り口1つで「知的行為として」「娯楽として」「奇術との類似として」「ミステリ作品として」「バットマンの本質として」「人間の性質として」、豊富な側面を見せてくれた。
それだけではない。映画を作るということ自体が「何かに目をつぶりながら何かを作り上げ、見せる」ということである。ある種のごまかしや曖昧さを残しながらも、「本物(らしく)」にこだわりあげる。見せられた通りのことは起こっておらず、タネは隠されている。嘘を嘘と知りながらも、実際には存在しないことを、あたかも本当のように見せること。それはやはり奇術というパフォーマンスに似ていて、またノーラン監督作品の設計思想のようなものだ。奇術というパフォーマンスを行うように、ノーラン監督は映画をパフォーマンスとして見せる。
そんな世界にあって、ジョーカーだけが何ら包み隠すことなく(ルール無視で)欲望のまま本能的に行動する。ジョーカーの発言は嘘ばかりだが、嘘すらも"本物"に思える。登場人物は皆、本当の目的を隠して何かを装う。ジョーカーには装いがない。嘘すらも装いがない。それゆえ彼はジョーカーであり、冗談しか言わない。それなのに彼の言葉を信じて行為する正義漢たちの姿は滑稽で、振り回されているように思える。ジョーカーを抑えるには、ただ彼の行為だけに(発言ではなく)注目し、物理的な力によってオリに入れるしかない。
ジョーカーはバットマンにとっての「装い」である仮面や「殺しは無し」というルールを剥ぎとり、自分の側へ来いと唆す。次には市民たちの抱く善やモラルというものが「装い』(建前)に過ぎず、利己的な動機(まさに自己という最上の保護対象を包み隠すためのもの)からきているものに過ぎないのだと示そうとする。犯罪行為も、バットマンの仮面を剥がそうとするのも、船のジャックも、一貫して「装いを剥ぐ」という目的のもとで行われるのだ。
(ノーランの嘘に引っかからない人間にとって、明かされた真実も真実ではなくただの設定になってしまうから、つまらないかも知れない。)
追記:冒頭で「この映画は『嘘→真実』の連続で出来ている」と述べた。これは「発言が全て嘘」のジョーカーと語り口が同じだ。ジョーカーはびっくり箱。ジョーカーが語るのと同じやり方で、この映画は観客を驚かせるように作られている(のだろう)