愛を読むひとのレビュー・感想・評価
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ナチスの残したもの…愛への尊厳への冒涜
愛を読み間違えた人々。
「あなたの意図を理解しろって?あなたの意図を理解できるようになるまでつきあえないでしょ」冒頭シーンの言葉。この映画の全てが言い表されている言葉だと思う。
マイケルは何故、ハンナを助けなかったのか、そして最後に奈落につき落したのか?マイケルにしてみたらハンナを愛しているからこそ、ハンナを許せなかった、受け入れがたかった、わかってほしかったのだと思う。
愛する人ハンナは「任せられた仕事を責任もって忠実にやっただけだ」という。「施設が一杯でどうにもならないから弱ったものを別の施設に送っただけだ」という。「それの何が悪い?問題?あなただったらどうする?」なぜ批判されるのか本当にわからないという表情で戸惑うハンナ。与えられた仕事を責任もってやることにプライドを持っているハンナには、法廷で問い詰められていることが理解できない。あのレポートを自分が書いたことにしてしまう前から、頓珍漢な自分の首を締めるような発言を繰り返す。
何が問題なのか。
あの第二次世界大戦の頃、ユダヤの方々は家畜(以下か)としてみなされていたとアウシュビッツを訪れた時に説明を受けた。例えば”売れる”ユダヤの方の髪を刈り取っっていた。そう羊の毛を刈るように。馬の蹄鉄を、牛の鼻輪を屠る前に取るように、ユダヤの人々から、眼鏡を金歯をとった。その残骸の山がアウシュビッツに展示されている。
施設にいるのが家畜なら、教会に押し込められているのが家畜なら、ハンナのとった行動はどう評価されるのだろう。施設に許容以上の家畜を詰め込めば疫病が発生し全滅するから許容量まで間引かなければならない。火事でパニックになっている村に、火で興奮している牛を馬を犬を放てば、村人が危険だ、なら家畜を諦めるしかない。たぶん大方の人はそう判断するのだろう。動物愛護の方からは批判されるだろうが。
問題なのは、人間を人間としてではなく家畜として見てしまうこと。
愛の表現の一つのはずだった朗読を、ハンナは収容所でユダヤの少女にも課していた。それを知ったマイケルはどう思ったのだろう。誕生日に可愛い坊や=愛しい人をどうやって喜ばそうかを考えることなしに(そもそも誕生日を聞くこともなしに)、自分の感情のまま動くハンナ。マイケルはハンナを「怒らすことすらできない存在」と言い放たれる。ハンナは最後までマイケルを「坊や」と呼び固有名詞マイケルとは呼ばない。刑務所からでさえ命令するだけの関係。上下関係だけの関係。ハンナはマイケルの愛を読むことすらしない。
自分もハンナにとってはペット(家畜)だったのか。私ならそう勘繰ってしまう。そんなふうに思われるのは愛しているからこそ耐えられない、決して認められない。でもハンナはそんなことをマイケルに言われても理解できなかったのではないか。ペットだって家族の一員でしょ?何が問題?と真顔で返されそうな気がする。
さらに追い打ちをかけるのが、愛する人の生きざま。愛する人が犯した罪ーしかも、それを罪と自覚していないーことをどう受け止めたらいいのか…。
そして出所を巡るシーン。
出所を控え、面会する二人。
仕事を忠実にやるということ以外、誰からも見向きもされなかったハンナ。唯一、”坊や”以外には。そんな大切な思いをマイケルは全く顧みない。
「何を言っても死んだ人は帰ってこない」この言葉をマイケルは”後悔していない”ととる。命の・死の重みを知っているからこその言葉でもあるのに。
ここでもお互い愛を読み間違える二人。字が読めなかったけど感受性が優れていたハンナに対して、マイケルは理論家の法律家だ。言葉・行動等何らかの”目で見える”形でのやりとりに重きをおく。
映画は世間の人々へもたたみかける。
「あの被告席に座っている人に全ての罪を押しつけているけど彼らだけが罪?彼らがそうしているのを知っていたのにも関わらず、止めもせずに観ていた人たちの罪はどうなんだ?」
マイケルがハンナの判決を覆そうか迷い、教授に相談する。教授は答える。「法律家なら感情を排して法の元に動くべきだ」それって、ナチスが正しいと信じて、ナチスの言うとおりに感情を排して仕事したハンナと何が違うの?
そしてラスト。
マイケルがホロコーストの生存者に会いに行く。ハンナが収監されているうちに勉強して(人の心を取り戻して)貴方への謝罪としてお金を残したと。生存者はきっぱり言う。「収容所は何も生み出さない」そしてハンナが大事な物を入れていた缶だけを手元に残す。それは少女の日の思い出を取り戻すことでもある。また、ユダヤ人だってドイツ人と同じように大切な物は缶の中にしまう同じ人間なんだよというメッセージにも聞こえた。
原作未読。
原作だと、朗読・識字を通してハンナが変わっていく様子が綴られていると聞くが、映画では割愛。なので『reader』より、『愛を読み間違えた人々の物語』の方があっている気がする。
しかも、原作だとハンナはロマらしい。となると、ナチとの関係、犠牲者との関係(ロマもユダヤ人と同じく、収監対象)、世間の中でのロマへの扱いと、さらに物語は様々な局面を見せて、複雑化する。
あの時代に生まれていたら、私はどう行動したのだろう。
こんなことニ度と起こってはいけない。
人間とは、愛とはと、恋愛以外の愛を問いかける不朽の名作。
でもヨーロッパやアメリカではナチスのことは自明でも、
日本人が見るにはちょっと説明不足かな。
無知の怖さと純粋な愛
自然と涙が溢れてくる。
字が書けない、教養がないことがどれだけ恐ろしいことなのか、、、
女性で学習できない人もいた時代で、そういう人も仕事はする。できる仕事も少ない、ナチスと関係ある仕事になってしまう場合もある。彼女は優しい心を持ち、教養がない中で必死に生きてた。それがこの結果を生み出した。
彼にとって彼女は永遠に心に残り、そして、人生を変えた。彼のおかげで、字を覚え、大きな世界を知った彼女にとってこの世の中は辛いものだった。。もうかわいそうすぎた。看守の仲間にも騙され、字が書けないことも言えない。それで、彼女だけが大きな罪に。もちろん罪は罪だ。しかし、悲しすぎる運命だった。
最初は身体の関係、そういうシーンも多いけれどどんどん深い部分に入っていく、もう辛いものだった。切なすぎる。
1958年のドイツ、15歳のマイケルは、21歳年上のハンナとベッド...
沈黙は金か?くちびる寒しか?三者三様の沈黙。
マイケルは、
黙っていたからハンナを死に追いやり、
黙っていたからロマの女との情交を秘して世間とナチスから自分の命を救った。
ハンナは、
文盲を黙っていたから自分を死に追いやり、逆に文盲を黙っていなかったらそれはそれでロマの出自がばれて結局はガス室行きだった。
どの道死ぬことになっていたハンナだからマイケルを道連れにはすまいと沈黙を守り、そうしてハンナはマイケルを救い得た。
レナ・オリンはハンナの最期を知らされて永く閉ざしていた口を開く。
キリル文字の書かれた錆びた缶が開かれて、その古い菓子缶が無言に語りだす。
私たちは失言を口からこぼして取り返しのつかない失敗をすることもあるのだけれど、語らなかったことによる失敗も本人だけが知っている永遠の責苦だ。
マイケルは娘に語り始める。
赦しと救いは告解するマイケルの口を通して彼の復活を約束するだろう。
きっと必ずや怒涛のように押し寄せる愛の思いがマイケルに嗚咽と微笑みを恢復させるだろう。
キャスト選びが秀逸
明確な答えが出たわけではないけど、余韻が残る作品だった。
特にケイト・ウィンスレットの老いた姿は秀逸。亡くなったばかりのブルーノ・ガンツが出てるのを知らずに観たので嬉しさと悲しみが交差した。他の俳優全て配役が良かった。
ハンナの自害に至る心の動きが欲しかったのが本音だけど、それは前半の失踪の理由と重なる不安からと読み取った。それが違うのであればやはりシナリオの不足だろう。
とあるサイトのレビューに、原作ではハンナがルーマニア出身とあり、映画では触れていないと書かれていて、ルーマニアと言えばロマ族=ジプシーすなわち読み書きが出来なかったとあった。
これまでナチスものの映画を数本観たが、改めて戦争は誰も1mmも幸せにならない。どこまでも虚しい。
素敵な純愛
どうしてなんだろう
15歳の坊やが体調不良のところ助けてもらった大人の女性の色気に誘われてしまい、関係が始まり。
読み書きができない彼女は、彼に本を読んでもらうことがとても好きだった。
列車の切符係だった彼女は真面目なので、事務職に昇進の声をかけらる。
が、読み書きができず、それを恥ずかしいと思っていて打ち明けられず、突然仕事を放棄し家を出て彼と離れ離れに。
長い年月の後に再開したのは、彼が法科大学に進学し、勉強の為に行った裁判の傍聴席。
彼女はアウシュビッツの看守をしており、600 人もの囚人を殺した罪に問われていた。
彼女は同罪に問われていた看守達から罪を着せられて、そこで正直に読み書きできないことを打ち明けていれば罪は軽くなったのに、そこでも打ち明けられず無期懲役に。
傍聴していた彼は、そこで彼女のことを打ち明けられたのにそれもできず。
面会に行き、彼女に打ち明けるよう説得もできたのに、それもできず。
結局彼は、助けることができなかった彼女を哀れに思い、刑務所にいる彼女に本の朗読を録音したテープを送り続ける。
彼女はそのテープに励まされ、それを使って読み書きを独学でできるようになり、手紙まで書けるようになる。
でも彼は彼女に一度も手紙の返事も書かず、面会にも行かない。
最後に初めて面会に行ったのは、彼女が出所することになり、身寄りが誰もおらず、彼が住む場所、仕事の面倒をみることになったから。
そして、いよいよ出所の時。彼女は刑務所で自殺を。
彼女は坊やの気持ちを弄んだし。
彼は彼で彼女に対して中途半端な愛を注いだように見える。
感動とか全然感じられず、何で見ちゃったのかなぁと思ってしまった作品。
やっぱりこの時代背景のは苦手‥‥
作中の伏線について考えてみた
1.ハンナが文盲であることを、マイケルが判事に告げなかった理由
ハンナの収容所での行為が「悪ではない」ことを、マイケルが確信できなかったため。大学のゼミで、マイケルは同級生と議論をする。「(ハンナら)元ナチの連中がした残虐行為は、当時の法律に照らせば無罪かもしれない」という教授に対し、同級生は「残虐行為自体が悪だというのに、当時の法律が許せば無罪だなんて、法とはいかに薄っぺらいものか」と激昂する。マイケルはこの同級生に反論ができなかった。マイケルはハンナの無罪を望んではいたが、彼女が「悪をなしていない」という確信を持つことができず、よって彼女を刑務所送りにする。
2.なぜハンナからの手紙に返事を書かなかったか
罪悪感・恐怖感のため。ハンナを収容所送りにした罪悪感から、マイケルは朗読テープをハンナに送り、償いの代わりとする。しかし(他の方も書かれていたが)、この「償い」はマイケルの自己満足。字が書けない筈のハンナから返信をもらったことは想定外で、望んでもいなかっただろう。自分が突き落とした相手(ハンナ)と、また面と向かって会話するなんて、罪悪感が強いほど拒みたくなり、それはハンナに対する恐怖感にも変わる。
3.マイケルが、出所直前のハンナと面会時、冷たい態度をとった理由
マイケルが期待していたようなハンナは、そこにいなかったから。あれだけハンナと(面会でも文面でも)会話することを拒んでいたマイケルだが、刑務所職員から「彼女が頼れるのはあなたしかいない」と言われ、おずおずと面会に向かう。そこでマイケルは「あのときのことをどう思うか」と、収容所における残虐行為に対するハンナの思いを問う。マイケルとしては「過去を悔やみ、改心したハンナ」を期待しただろう。「ハンナの行為は悪」と思って、彼女を刑務所に突き落としたのだから、ハンナが改心してくれれば、彼の行為は報われることになる。というか、そうなってくれれば彼の罪悪感は救われることになる。しかしハンナは「改心しても、人を殺めた事実は変わらない」と、過去を悔いる様子はない。マイケルは絶望し、ここでもハンナを突き放してしまう。「死の行進」を生き抜いたメイザーが言うように、「収容所はなにも与えない」のであり、ハンナは変わっていなかった。
4.なぜハンナは自殺したか。
マイケルが自分を受け入れてくれなかったため。刑務所でも、ハンナはずっとマイケルのことを思っていたのだろう。そうでなければ、わざわざ文字を覚えて、マイケルに手紙を出したりはしない。また面会時、マイケルから「あのときのことをどう思うか?」と問われ、「私たち2人の事?」と返すシーンも、彼女のマイケルへ向かう思いを感じさせる。しかしマイケルに突き放され、彼に受け入れて貰えないと悟ったハンナは、自ら死を選ぶ。まだ2人が出会ったばかりの頃、路面電車の中でマイケルに無視されただけで烈火のごとく怒ってた、激情家のハンナだからこその行動になってしまった。
5.マイケルの贖罪
2度ハンナを突き放し、結果彼女を死に至らせてしまったマイケルは贖罪をする。一つは、ハンナの遺言を実行して、メイザーにお金と「宝石箱」である缶を渡すこと。囚人たちを絶望と無気力・無抵抗に追い込むため彼らの大事なものを看守ハンナは奪っており、その一つがこの缶だった、と私は勝手に考えている。ハンナが為せなかったことを行った。
もう一つは、「ハンナ自身の物語」を朗読すること。様々な物語を愛し、朗読を聞いて時には笑い、時には泣いていたハンナ。その彼女自身のことを物語にして語っていくことが、最大の贖罪だとマイケルは考えたのかもしれない。だからラストの、墓場前で娘に向かってハンナの話をするシーンは、クライマックスとしてふさわしい。
ところで、なぜハンナは有罪判決を受けてまで、自分の文盲を隠そうとしたのだろうか。他の方が書いていたが、原作ではハンナはジプシーであるらしく、だとすると文盲を隠すこと=生きる手段という「習性」が、あの場で出たのかもしれない。一方、原作とストーリーは同じでも、そこに違う意図を製作陣が狙うのは常にある話。映画ではジプシー関連の話は全く出ていなかった。なので「激情家ハンナ」は文盲であることを極端に恥じ、それがばれるくらいなら無期懲役・ナチの汚名の方がマシだと思った、という解釈を私はしている。マイケルとサイクリングに出かけたときに、レストランで隣に座ってた子供に対し、ハンナは怯えているような不可解な視線を送っていたので、幼少期にトラウマがあるのかもしれないが。
苦しい
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