ブレードランナー ファイナル・カットのレビュー・感想・評価
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オリジナル版との最も大きな違いは、この最終バージョンであるファイ...
オリジナル版との最も大きな違いは、この最終バージョンであるファイナルカット版は「デッカード(ハリソン・フォード)=レプリカント」という事を示唆している所と思う。
例えば、ガフ(折り紙を作る人)が最後にユニコーンの折り紙を残すシーンがある。デッカードしか知らないはずのユニコーンの夢をガフが知っている事を描写することで、デッカードの記憶が「移植」であることを示唆している。
また最後の戦闘で反逆レプリカントのリーダーであるバッティが、危機に陥ったデッカードを救出し自分の命を終えるシーンがある。寿命が尽きるのを悟り、突然、慈愛に目覚めたとの解釈が主流であろうが、短時間で人間性が変化するものだろうか。
彼は人間ではなくレプリカントなのでとの認識もあるにはあるが。
ここは「デッカードがレプリカントと分かったので命を奪わなかった」との解釈はどうだろうか。
何はともあれ、「デッカードとレイチェルは記憶を移植された次世代のレプリカントで寿命設定も変更されている」と考えると色々と辻褄が合うのではないだろうか。
映像クオリティが修正され、ストーリー/SF設定も含めて現在でも視聴に堪え得るSF映画であると思った。
寿命が4年と言われてしまったら、AIだって怒りを覚えて製造者に反抗するか
初公開から25年を迎えた2007年に、リドリー・スコット監督自らが再編集とデジタル修正を施してよみがえらせたファイナルカット版 (元は、1982年製作/116分/アメリカ・香港合作)。2007年製作(117分、G)アメリカ映画。原題:Blade Runner: The Final Cut、配給:ワーナー・ブラザース映画、日本初公開:2007年11月17日。
有名映画では有るがシリーズ全体含めて初めての鑑賞で、原作も読んでいない。AIが実用化されてきている今見てみると、レプリカントと呼ばれてるロボットが意思を持ち、人間に反抗することにリアリティを感じる部分も有り、ドキッとさせられた。またこの映画が40年以上前の1982年に作られていることに、驚きも感じた。
レプリカントであるルトガー・ハウアーが4年の寿命を伸ばせないかと、製作者の天才科学者の元に訪れ何とかならないかと詰問する。そして、それが無理と言われて科学者を殺してしまうことに、一定のリアリティを感じてしまった。意識とか感情に関する科学は、現在でも殆どまだわかっていない現状の様なので、どこかの段階でAIがそれを有していて不思議はない訳で。
「強力わかもと」ネオンで微笑む芸者ガール、日本語の看板/ネオンサイン/壁面の落書きの氾濫(美術のシド・ミードの仕事らしい)、デッカードが屋台で日本語を話す店主にメニューを注文する等、米国が将来日本だらけになってしまうことを悲観的に想像してたことが、かいま見えて驚かされた。
若いハリソン・フォードが主人公を演じているが、共感もしにくくアンチヒーロー的。SF映画といいながら、結局本質は一匹狼のダークヒーロー的アクション映画かと思って見ていた。「エイリアン」と比べると斬新さでは、個人的には少し物足りないとも。
ただショーン・ヤング演ずる美しいレプリカント・レーチェルは、クラシック的な美貌と感情表現に乏しい表情が役柄にピタリとハマっていて、強く印象に残った。
監督リドリー・スコット、製作マイケル・ディーリー、製作総指揮ハンプトン・ファンチャー ブライアン・ケリー、原作フィリップ・K・ディック、脚本ハンプトン・ファン、チャー デビッド・ウェッブ・ピープルズ、撮影ジョーダン・クローネンウェス、美術シド・ミード、音楽バンゲリス、特撮ダグラス・トランブル
出演
ハリソン・フォードリック・デッカード、ルトガー・ハウアーロイ・バティー、ショーン・ヤングレーチェル、ダリル・ハンナプリス、エドワード・ジェームズ・オルモスガフ、ジョアンナ・キャシディゾーラ、ブライオン・ジェームズリオン・コワルスキー、M・エメット・ウォルシュブライアント、ウィリアム・サンダーソンJ・F・セバスチャン、ジョー・ターケルエルドン・タイレル、ジェームズ・ホンハンニバル・チュウ。
『エイリアン』とこの映画は我が青春のバイブルの様な映画。
近年(二、三年前)映画館で見た終わり方と違った。その映画館で見た映画は、『終わり方』はオリジナルと同じだった。この映画の終わり方の方が良い。
スチームパンクな世界で、酸性雨の降る『ロサンゼルス』たそうだが、LAがここまで退廃するだろうか?一部ては香港と言う方達もいるが、電線が張り巡らせば、東京だと思う。だから、この世界観にシックリくるのかなぁと思った。オリジナルでも語らせて貰ったが、ストーリーに付いては、余り緊張感が無かった。しかし、この世界観は後に好きになるアニメとかがリスペクトしているので、こう言った世界観の元祖と言えるのではと現時点で思っている。
原作も読んで見た。
『エイリアン』とこの映画は我が青春のバイブルの様な映画。内容は兎も角。
オリジナルに加点しないのは、終わり方がエレベーターで終わって貰いたかった。
2020年、レプリカントは人類に宣戦布告!
近未来の日本、酸性雨が降り注ぎ資源が枯渇する地球で生活を続ける為、人工生命体のレプリカントを使役し宇宙での過酷な労働を強いてきた。
屈強な体躯に人類最高峰と同等の頭脳を持つ第6世代のレプリカントは感情を持ち、人間への謀反を企てる。
ロイを筆頭に四年の寿命を克服すべく地球へ密航してきた4人のレプリカントと、記憶を植え込まれ自分を人間と信じてきた1人のレプリカントのレイチェル、それらを追うブレードランナーのデッカード。
ブレードランナーの仕事は単純で、危険因子をはらむレプリカントを抹殺すること。
しかし記憶と感情、愛情までも持ち合わせるレプリカントたち。
レイチェルに惹かれながら、ロイたちを追う矛盾を抱えながら対峙するも、返り討ちにあう。
ロイは徹底的にデッカードを追い詰めた後、彼の命を救い寿命を全うした。
レイチェルを奪われまいと逃走を決意するデッカードは自宅の前に、まるで自身の夢で見たようなユニコーンを模したような折り紙を見つける。
レプリカントと人間の違いはなんなのか。
機械的な対処を続ける警察などの人間組織に対し、叛逆するレプリカントはなんとも人間的なやり方で意思を表明した。
複雑な感情を垣間見せ、膂力も並に感じられるデッカードにもレプリカントの可能性が匂わされる。
人が擬似的な人間を創造したとしたら、それは生命といえるのだろうか。
過大評価じゃないかな.....
ストーリーが面白くない!!!!!
自分達の寿命を伸ばそうっていうストーリーだと思うんだけど...
確かにサイバーシティは美しく、会社の建築デザインも美しかったが、ストーリーが面白くない。
どこがSF映画の金字塔なのかほんとにわからない、SFアクションに分類されているのにも関わらず、アクションシーンは少なくステゴロ相手に拳銃でころしてるし、僕がわるいんだと思うんですけど、最後の一人は、自分の拳に釘刺したり、雨の中裸になって主人公追いかけるしで、自分のなぜこんなに高評価されてるのかわかりません、当時の技術ではすごかったのかもしれないが、僕が見たいのは、現在から見たレビューなんですよね、人造人間が人間になれる云々はエキスマキナがありますし、僕の視点からだほんとになざ高評価なのかがわからない。。。。
レプリカント側の視点で自分達の寿命を延ばすために奮闘する感じなら心理も理解できて面白かったと思うのですが、いまいちSF映画の金字塔と言われてることに納得できない...納得できないので、原作小説読んでみますかね。。。
エアフォース・ワンのほうが良かった。。
時折見るリバイバル上映のを見たんですが。。
想像以上に疾走感もやっつける爽快感も無く、
指を折られるだのあれこれ痛そうな描写とかのほうが目立っていてなんとも。。
確かにアクションものは主人公だって怪我したりするんですけど、なんか違う。。不快感や嫌悪感のほうが強く演出されてて残念でした。
人造人間達が反乱を起こしたので対処しなきゃいけないって設定はよく分かったし、
まぁ謎の未来都市?に妖しさを演出するためなんでそこまで日本風?の音楽やらわかもと?やらの日本的広告を使うのかはもう不問にするんですが、
ハリソン・フォードが一人っきりで頑張るぞーー!!ってことならエアフォース・ワンをリバイバル上映してほしかったなーと思いました。
アクションものなのに、ハリソン・フォード主演なのに珍しく合わない映画でした。。残念!
素晴らしかった
2015年にカナザワ映画祭で劇場公開版を見て以来7年ぶりだ。DVDも持っており、映画館でも何回も見て何回見たか分からない。原作も読んだ。今回も圧倒的に素晴らしかった。特にTジョイの凶暴な音響で見られて最高だ。映像も美しい。
S660という小さな車に乗っているだけど、乗り込むときに毎回デッカードがポリススピナーに乗る場面に思いを巡らせている。ガルウイングじゃないのが残念だ。空も飛ばない。色も青じゃない。ただ車体が小さくて狭いだけ。青にすればよかった。今回初めて気が付いたのは、デッカードがJFセバスチャンの自宅を訪ねる際に、ポリススピナーじゃない車に乗っていたことだ。もっとよく見たい。
ブラスターもかっこいい。
ルトガー・ハウアーは無駄に怖い。なんであんなに凄んでんのか意味が分からない。そういう人たまにいるから、そういう人なのだろう。生きていてしんどいことが多そうだ。寿命が短いから社会や人類に怒っているのだろうか。
リオンが液体窒素や熱湯に手を突っ込んで平気いるから、痛みを感じないのかと思うと、ロイは手に釘を刺して痛みで覚醒しているし、プリスの断末魔もそうとう辛そうだ。どっちなのだ。
画面上の雰囲気に引き込まれた
IMAXでリバイバル上映していたので鑑賞。日本生まれの私にとって馴染みのある言葉やアイコンが近未来のパーツになっていたのが可笑しかった。全ての画面で徹底的に暗く、雨が降っていて、作品世界の行末を暗示しているよう。折に触れて登場する折り紙の意味がラストで分かるのは、余韻があってよかった。
で?って感想しか…
これが40年近く前の映画だと言うのは評価できるけど、面白いとは思えない。
昔一度観て、再度のチャレンジだったが、やはり意見は変わらず。
レプリカも然程強くないし、ハンター側も強くない。と、むず痒い設定。
「ディストピア」だか「フィルム・ノワール」だか知らないが、観た後に何が言いたいのかわからないものは共感できない。
そもそもSFが苦手なのもあるけれど。
地獄の鬼ごっこ
ブレードランナーはこのファイナルカットしか観てないなのですが、公開当時のラストとだいぶ違うんですねー。
個人的には公開当時のラストの方が好み。
デッカード(ハリソンフォード)とレイチェルが無事生き延びて幸せに暮らしましたの方がいいなー。
今回のファイナルカットバージョンは、デッカードの夢の内容をガフが知ってたことで、デッカードもレプリカントでしたってことですよね。
なんか、切ない。
でも、世界観は本当すごくてかっこいい。
何故か日本の感じが濃いですねー
舞妓さんの看板とか屋台でうどん食べてたりとか。
しかもまずそう笑笑
酸性雨が常に降ってるから、暗くて、じめじめしてて、
国籍とか文化とかがごちゃごちゃしてる、退廃的てダークな感じがとっても癖になります。
ブレードランナー観ながら、なんか攻殻機動隊思い出すなーとか思ってたら、やっぱり押井監督ブレードランナーにめちゃくちゃ影響受けてたんですねー。
影響受けるってこういうことなんだなって感心しちゃいました。
他にもたくさんの作品に影響与えてるんだなと思うと、本当に偉大な作品ですね。
ストーリー的には、前半はちょっと退屈でした。
レプリカントの暗殺を頼まれたデッカードは凄腕のブレードランナーっていう始まり方だったのに、実際は女性のレプリカントを暗殺するときモタモタしてたり、あんまりかっこよくない笑
最後のロイとの地獄の鬼ごっこはマジこわかった。
デッカードもビビりまくりだったし
観終わったあと、いろんな考察サイトを見て回りたいなと思いました。
この世界観は中毒性あるなー。
2019年に劇場で『ブレードランナー』を観ることが出来た幸せ
1982年公開の映画『ブレードランナー』の25周年記念で作られた再編集バージョン。
監督はリドリー・スコット。
主人公デッカードにはハリソン・フォード。
SF映画の金字塔として名高い『ブレードランナー』がIMAX上映されると知り、この機会に鑑賞してみました。
もちろんタイトルは知っていましたが、これまで鑑賞したことはありませんでした。
本作の舞台が2019年であることすら知りませんでした。
なのでこのファイナル・カット版とオリジナルバージョンとの違いは全く分かりません。
SF映画であるということ、主演はザ・ハリウッドスターであるハリソン・フォードであるということぐらいしか知らなかったので、てっきりスターウォーズ的なハリウッド式アクション映画だと思っていました。
なので鑑賞して驚いたのは、全体の雰囲気が完全にノワール調だったことです。
アクションシーンはオマケのようなもので、主人公の葛藤や人間そっくりな人造生物レプリたちの苦悩がテーマとして据えられています。
アジア人の難民が大量に入国して作られたのであろう、ロサンゼルスの混沌とした街並みには映画的なリアリティーが漂っており、心を鷲掴みにされました。
『攻殻機動隊』など、サイバーパンクというジャンルにカテゴライズされる作品のオマージュ元になったのも肯ける、圧倒的な世界観!
退職後もブレードランナーという使命を強制され葛藤を抱えながらもレプリ狩りを行わざるを得ない主人公デッカードと、人間の手により奴隷として生み出された上、短い命という宿命を定められ、それを覆す為に奔走するレプリ達。
果たしてどちらが正しいのか?どちらが人間らしいと言えるのか?自らの意思とは反する使命を果たすデッカードは人間と言えるのか?
観ているうちにこのような疑問がどんどん頭に浮かび、ラストシーンでのレプリのリーダーであるロイの流す涙と、独白のようなセリフが心に突き刺さります。
ヒロインであるレイチェルが、自分がレプリであることに気付くシーンは残酷です。
(正直デッカードとレイチェルのラブシーンだけは、この映画のカラーと合ってないと思ってしまうほどザ・ハリウッドなシーンで違和感がありましたが。)
レイチェルの存在がこの映画で重要なファクターとなっているのは、やはりこの「自分を人間だと思っているレプリである」という点でしょう。
このキャラクターが登場することで、観客の頭には、この映画に登場する人間は本当に人間なのか?という疑問が浮かびます。
それがこの映画のミステリーである、「デッカードは本当に人間なのか?」という問題につながるわけです。
この問い掛けの答えを作中で明示せず、観客に想像の余地を残しているところがこの映画の白眉な点だと思います。
舞台と同年である2019年にこの作品を劇場で、しかもIMAXで観ることが出来たのは幸運でした。銃声や雨の音か臨場感たっぷりですごい!
本当に観てよかったと思える傑作です。ぜひ劇場で観ることをお勧めします!
或いは一つのハッピーエンド
37年前の感嘆が鮮やかに蘇る。
あれ、エンディングが…
確かに、この後は更なるハッピーエンディングだった。
公開当時、監督が涙を飲んで、映画会社の意に沿った結末があった。
そこで、自分の魂は救われた記憶がある。なんとも言えない多幸感である。
それから、この映画は自分の中の映画ベスト3に入り続けている。
人の生きる意味と喜びが、何となく分かったような気にさせられたからである。
しかし、それはあくまでネクサスという架空の人工人間でなくて良かった、自分の寿命が予め分からない人間で良かったという浅い多幸感で、監督が本当に描きたかったテーマは別のところにあったのだといういうことが、あのエンディングがないディレクターズファイナルカットバージョンをIMAXという最新のフォーマットで鑑賞して新たに思えた。
それは、人間が創り出したネクサスという人工人間が、最後に人間以上に人間愛に基づいて行動していたという事に気がついたからだ。
劇中のネクサスは、人間と写し鏡を隔てたもう一つの人間だ。
自らの寿命を察した時、自らの運命を呪い、神に祈る。もう少し寿命を延ばして下さい、と。
その為に、自分を創り出した人間に近づき、何とか寿命を延ばしてほしいと訴える為に、反旗を翻したような形になり、存在を否定される。
それこそ正に人間ではないか。自らの死を受け入れるまでに、もがき苦しむ人間そのものだ。
自らの死を追いやろうとすればするほど、自分と自分の周りのものを傷付け苦しめる。
しかし、その事に気づいたとき、ネクサスは自らの死を受け入れ、後に続く命を助けた。
まるでキリストのように自らの体に杭を打ち、まるでそれまでの身の振りを悔い改めるような決意の表情で。
そこには、人間かネクサスかということは問題ではなく、生きるものの死をどう捉えるかという、生命誕生の瞬間から宇宙が抱える永遠のテーマが語られていた。
だから監督は、そのテーマを曖昧にさせてしまうことを畏れて、初公開当時のエンディングをヨシとしなかったのだと思う。
ネクサスが死の淵で自由になる方の腕で掴んでいた鳩が、死の瞬間に飛び発った。
それが凡ての答えであり、それしかないハッピーエンドだったんだと、37年の時を経て思い至ったことで、この映画はこれからも確固として自分の映画のベスト3であり続けると思う。
独特の世界感と考察の余地
公開当時に観ていたなら映像の素晴らしさやSFの1つの定型を築くほどの世界感にさぞびっくりしただろうと思いますが、今見るとさすがに古さも感じます。ですが、古くても色褪せない名作もたくさんあります。本作以外にも気になったなら観てみることをおすすめします。
ビルの巨大スクリーンや街のアジア的なごちゃごちゃした感じなど、世界観が独特です。日本語の看板も多くておもしろい。しかし文化が入り混じった退廃的な雰囲気は、個人的には少し苦手だったりします。
主人公は逃亡したレプリカントを探し出して処理していくわけですが、セリフも少ないため、捜査状況がわかりづらいです。
写真の調査中に急に女性が現れるので混乱したのですが、あの世界での写真は3Dなのだそうです。
他に気になったのは間の取り方。1つ1つが長く、場面によっては鬱陶しさを感じました。近未来というと、もっとスタイリッシュなのかなと勝手に思っていたのですが、全体的に暗く重々しい雰囲気です。
更に途中でホラーチックになることに違和感。プリスとのバトルの際の音は声なのか効果音なのか…。私は人形やドールに恐怖を感じるので、J・F・セバスチャンの部屋はとても不気味でした。
VKテストは印象的でしたね。瞳のアップなど、絵的にも強い印象が残ります。人間が瞳孔でレプリカントかどうかを判断するからこそ、ロイはタイレルの目を潰したのかなと思いました。
タイレルのシーンの他にも、本作では痛みの描写が本当に痛そうで怖く、良かったです。
ロイ役のルトガーハウアーの演技が凄く好きでした。レプリカントなんだなと直感的に思わせるようなしぐさや話し方が素晴らしかったです。演技でキャラクターを完璧に表現していました。
彼がデッカードとの戦いの末にとった行動の理由はいろいろと考察されていますね。私としては自らが命の終わりを迎えるに際して、命の儚さと尊さを悟ったからだと考えています。その後のセリフも切なく強く印象に残ります。狂気的な面と情緒的な面の両方を見せてくれます。レプリカントと人間に差なんてあるのか、ひいては人とは何かを考えされられるシーンでもありますね。白鳩が飛んでいく描写も良かった。鳩を掴んだまま向かってくる姿には少し笑ってしまいましたが。
レイチェルも自分が人間だと思いこんでいたレプリカントということで、魅力的な人物です。ただ、主人公との恋が急すぎて受け入れがたかったです。映画ではままあることではありますが。
ガフの折り紙での表現が好きでした。ラストではユニコーンの折り紙を残し、デッカードの夢及び記憶にユニコーンが登場することを知っていることを示します。つまりは彼に埋め込まれた記憶を知っている。デッカードがレプリカントであることを示唆させています。
私は正直観ているときはデッカードがレプリカントだなんて毛ほども思っていなかったのでびっくりしました。ラストの折り紙は単に見逃してやるという意味だと思っていました。
他にもレプリカントは記憶がないために不安定になりやすいのですが、記憶の裏付の為に写真を大切にします。ロイやレイチェルも写真を重要視していました。そしてデッカードもピアノの上にたくさんの写真を飾っていました。これも彼がレプリカントではないかと考えられる根拠になります。
本作の魅力は独特の世界感とセリフ、レプリカントという存在、そして考察の余地が多いことにあると思います。ストーリー自体は荒削りですが、自分なりの解釈を見つける楽しみがある作品です。
色褪せぬ世界観とビジュアルに痺れる!
"ブレードランナー" シリーズ第1作(最終決定版)。
Blu-ray(日本語吹替音声追加収録版)で鑑賞(字幕)。
原作(アンドロイドは電気羊の夢を見るか)は未読。
高校2年生の頃、劇場公開版をテレビで観ました。
それが「ブレードランナー」の初体験。しかし、う~む…
名作の誉れ高いことは承知していましたし、私の中で期待値が暴上げされていたからかもしれませんが、ストーリーは難しいし、アクションは物足りないしで、正直そこまで絶賛するほどの映画なのかなと首を傾げたものです。
続編が公開されて話題になったと云うことで、久しぶりにファイナル・カットで鑑賞してみました。
結果、いやはや目を見張りました。高2の私を叱りつけてやりたい衝動に駆られました。「首傾げてる場合やあれへんで。よく観なはれ。めちゃくちゃおもろいやないかい!」。
他にもいろいろなバージョンが存在していますが、全てを観たわけではなく、どこがどう違うかなんてことは全然分かりませんが、劇場公開版と比べたら、このファイナル・カットは抜群にすごいと云うことだけは分かりました。
デジタル技術で修正が施されていて、特撮場面がパワーアップ。ロサンゼルスの夜景を俯瞰で捉える冒頭から、ぐいっとその独特な世界観に引き込まれました。神秘的且つ不気味な未来世界の強烈なビジュアルに度肝を抜かれました。
漢字や日本語が入り乱れ、多国籍感がハンパない街並み。どこに行ってもスラムみたいに荒れているところが、近未来像として斬新だったのではないかなと思いました。常に雨が降っているし、何よりどこもかしこも汚い。そして、何を隠そうこれがいちばんの驚きでした。「ラストが全然違う!」。
人造人間レプリカントの暴走と、それを追うブレードランナー、デッカード(ハリソン・フォード)の戦いを通して、「人間とは何か?」「魂とは何か?」と云う哲学的な問いが提示され、脳が揺さぶられました。自分で思考し、空想し、特定の思想を持ち、それに従って行動し始めたらそれはもはやロボットなのか。永遠のテーマだと思いました。
[余談]
舞台の2019年を迎えた今、先見性に満ちた作品だと云う認識を新たにしました。AIの目覚ましい進歩が世の中を豊かにしてくれそうな反面、これまでは考えもしなかった様々な問題が生まれ、議論が絶えません。それらをも予見していたかのような内容に心を奪われました。ただ、「毎日酸性雨が降ってなくて良かった」とは思いました(笑)。
[以降の鑑賞記録]
2019/09/18:TOHOシネマズなんば(IMAX,字幕)
※修正(2024/04/19)
レプリカントの儚さ
レプリカントの儚さに心が痛いです。
最後の後、レイチェルは幸せになれたのかな?レイチェルのことを思うと心が痛い。長生きして欲しい😔 なんかデッカートみたいにレイチェルに恋をしたのかな。
ルドガー・ハウアーの怪演・好演が際立っています。彼は一気に僕の気になる俳優になりました。
映像は素晴らしく、また音楽も世界観に合っていてとても素晴らしい。サントラも聴くようになりました。部屋を薄暗くしてお酒を飲みながらサントラを聴くのにハマってる🎶
続編が見たい!って思う映画。
世界観が素晴らしいが、こんな世界には生きたくないなー。もう2019年。空に車は飛んでいない。
そういえば「デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー」も手に入れたので見なきゃ!とっても楽しみ。購入したDVDもたくさん解説字幕がついているので、再度見るときは結構楽しめるかも。このDVDに「デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー」が付いていたんです。
このDVDは「ブレードランナー ファイナル・カット スペシャル・エディション (2枚組) [DVD]」です。アマゾンで格安で購入しました。
中古ですが全く問題なし。
この映画もこの前観た「グラン・ブルー」も芸術作品ですね。どちらの作品も美術館で観てみたい。映画館でもいいけど、芸術の場で観るのも素敵。
ドはまりはしないけど
なかなか
近未来感と荒廃した雰囲気、異文化がゴチャゴチャした世界観は今後の未来描写に様々な影響を及ぼしたことは感じ取れる。
ただ、そこまで後世まで語られるようなSFの傑作?という感じはしなかったのが正直なところ(経験値が足りないのはご容赦を)
確かに人間よりも人間らしく寿命を全うするようなレプリカントは思わせぶりかつ魅力的に映る。
対象的に引退というか隠居してたデッカードはベテランっぽいのに弱くない?という印象。(そもそもブレードランナーは武闘派とかではないのかも?レビューにはレプリカントとの対比とも書いてるが…)
デッカード=レプリカント説はそこまで?最後のユニコーンが示唆的と言うが、相棒が見逃してやったぞみたいな意味にしてるようにしか見えん。
あと、ファイナルカット版ゆえにりますたがキレイなのでとても昔の映画には見えない(むしろ最近でもヒドイものはヒドイ)
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確かにこれからの未来への考察や不安やらも呼び起こすような作品ではあるし、生きるとは?記憶とは?生命とは?人間らしさとは?みたいなことも描かれているともいえる。(ただ、そこまで、感じはしなかったのが正直なところ。最後の彼に詰め込みすぎた印象)
あと、やっぱり当時の年代とかを考えるとこの世界観を造り上げたのがスゴイとは思うのだが、如何せん最近の映画に慣れているとそこまでの感動がない部分や分かりやすい映画を見慣れているということもあるのかも。
レプリカントは黒人に変わる新たな奴隷
続編『ブレードランナー2049』を観るために復習として本作を観ることにした。
原作となるフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も以前に1度読んでいるが、全く覚えていないので今回改めて読み直した。
なお映画はファイナル・カットを観た後にオリジナル劇場版も早送りで流し観てチェックした。
結論から言うと、小説と映画はほぼ別の作品である印象を持った。
どちらが面白いかは甲乙つけがたく、深さの方向性自体も違うように思えた。
原作ではアンドロイドと呼び、映画ではレプリカントと呼ぶ亜人種は、端的に表現すれば黒人などに変わる新たな奴隷階級である。
その奴隷をどう考えるかの違いが両者の方向性を分けているといったところだろうか。
原作にあって映画にない大きな要素が1つある。
主人公たち人間の住む世界は核戦争後の死の灰(放射性降下物)が降り積もる世界になっていることである。
そしてそれを浴び続けることでレギュラー(適格者)の人々も、思考力や肉体能力の劣ったスペシャル(特殊者)に退化する危険性と常に隣り合わせで生きている。
この要素があるとない(もしくは明確に示されるのと示されないの)とでは作品世界が大きく変わる。
また原作の世界では野生動物がほぼ死に絶えている世界であり、そのため本物の動物、たとえば牛や羊、山羊、馬、フクロウなどを飼育することが大きな社会的ステータスとなっている。
そこであたかも本物を飼育しているかの偽装をするために電気の動物までが存在している。
物語の序盤では、主人公リック・デッカードも本物の羊を死なせてしまったために電気羊を飼っているのだ。
原作のアンドロイドをあえてレプリカントという呼称に変更したこと自体に彼らを人間に近い存在にしたい意図を感じる。
アンドロイド/レプリカントを狩る人間の呼称も変えている。原作ではただのバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)だが、映画はタイトルである「ブレードランナー」というご大層な名前が付いている。
映画は最後でデッカードとレイチェルが別天地へ旅立つ愛の物語になっているが、原作では妻帯者のデッカードが戻るのはガミガミと小言の多い妻イーランの待つ日常である。
映画と同じく原作でもデッカードはレイチェルと肉体関係を持つのだが、そもそも原作のアンドロイドは感情に乏しいままで、映画のレプリカントのように時間の経過とともに感情が生じるわけでははない。
そのため原作のアンドロイドが死へ諦観を持っているのに対して、映画のレプリカントは生へ異常なまでに執着しているように感じられる。
原作のレイチェルはデッカードの前にも他の複数のバウンティ・ハンターと過去に肉体関係があり、彼らがアンドロイドへ感情移入して殺すのをためらうようにわざと性交するような計算高い女性アンドロイドである。
映画のように愛のために同じレプリカント(リオン・コワルスキー:映画オリジナル登場人物)を撃ち殺すような真似はしない。
またデッカードは彼らアンドロイドに感情移入しつつも、最終的には逃亡アンドロイドを自らの手で処分している。
レイチェルと情交したバウンティ・ハンターの中には人間であるとの偽情報を植え付けられたアンドロイドのフィル・レッシュもいたが、元々が人間ではない彼にはレイチェルの策略は通用していない。
原作と映画の相違点を上げると他にもさまざまある。
映画ではレプリカントが人間に反乱を起こし、地球に逃れたレプリカントを処分する設定になっているが、原作のアンドロイドは単に逃亡しただけである。
原作のデッカードはアンドロイド狩りにおいてホールデンより大分腕が落ちる設定だが、映画ではデッカードが一番腕利きとなっている。
映画の構成上人数も減らしている。原作の逃亡者は元々は8人、デッカードの前任のデイヴ・ホールデンが2人処分して、残り6人をデッカードが始末していくが、映画は4人になっている。
また4人の名前も半分は違う。
ロイ・バティとプリスはいっしょだが、コワルスキーとゾーラ・サロメは映画のオリジナルである。
恐らくコワルスキーは原作ではマックス・ポロコフに当たり、ゾーラは原作ではオペラ歌手のルーバ・ラフトが最も近いかもしれない。
ただしルーバは全く武闘派ではなくむしろデッカードを罠にはめるような知性派であるし、最終的に手を下したのもアンドロイドのフィル・レッシュである。
映画のリプスはロイと恋人関係にあるが、原作のロイにはアームガードという配偶者のアンドロイドが存在する。
また映画ではレイチェルをショーン・ヤングが、プリスをダリル・ハンナが演じ分けているが、原作は両者は同一の姿形をしたネクサス6型であり、プリスは最後にデッカードに撃ち殺されている。
映画のロイは肉体的に相当強くデッカードをターミナーターばりに追い込むが、原作のロイはデッカードにあっさりと殺されてしまう。
ネクサス6型を開発した会社名も違う。映画はタイレル社となっているが、原作はローゼン協会であり、そのため創始者の名前が、映画はエルドン・タイレルであり、原作はエルドン・ローゼンになっている。
またエルドンがロイに殺される描写は原作にはない。
映画でレプリカントを匿うはめになるJ・F・セバスチャンの役回りは、原作ではJ・K・イジドアという人物である。
セバスチャンを早老症にしているのは、原作のイジドアがスペシャルという設定に寄せているのだろう。
そしてもう1つ大きな違いがある。
原作では、感情を制御するためにデッカードや妻のイーラン、イジドアが入信している「マーサー教」という宗教が頻繁に話題に上る。
また最大のテレビ娯楽作品としてバスター・フレンドリー・ショーもよく会話に出て来るが、マーサー教の教祖ウィルバー・マーサーもショーの司会コメディアンであるバスター・フレンドリーも後にアンドロイドであることが判明する。
映画では感情面で人間に近づくレプリカントが実社会ではほとんど影響を持っていないのに対して、原作では内面が人間からはほど遠いはずのアンドロイドが社会的には大きな影響力を持っているなど、両者の描かれ方が全く正反対である。
やはりこれだけ違いがあると映画は原作を活かした別作品と言っても過言ではないだろう。
映画本作における近未来的な描写は30年以上前であってもそれなりの説得力を持ってはいるものの、テレビの形体やレイチェルの着る肩パッドの強い服などの小道具には時代を感じてしまう。
本作のあらゆるデザインをシド・ミードが担当しているが、『トロン』とほぼ同時期に平行して仕事をしていたというのだから驚く。
因みに日本でもガンダムシリーズの『∀ガンダム』において主要なロボット(モビルスーツ)のデザインを担されていたりする。
雑多な町並みや様々な人種が行き交うディストピアな近未来的ロサンジェルスの描写は後のアニメ映画『攻殻機動隊』にも少なからず影響を与えたことも感じられ、なるほどこの下地があるからこそ『攻殻』もアメリカで受け入れられたのかとも思わせてくれた。
本作で描かれる「強力わかもと」の映像広告や微妙に意味不明な日本語看板、ステレオタイプな芸者映像は当時のハリウッド映画なら致し方ないところかと笑って諦められる。
ハリソン・フォード扮するデッカードがうどんを食べるシーンで店主が日本語で話しかけるのも奇妙と言えば奇妙である。
Blu-rayで本作を観たせいか光を巧みに使用した明暗のコントラストは美しく感じられ、登場人物の内面描写にもつながる素晴らしい演出だと思う。
またセバスチャンの部屋の妖しい雰囲気を醸し出すために小人を登場させているが、最近ではホドロスキー監督作品の『リアリティのダンス』や『ブランカニエベス』などの1部のヨーロッパ映画でしかお目にかかれなくなってしまった。
小人症の役者たちは映画などで活躍の場を求めているのに、昨今の表現の自主規制によって多くの映画業界からなかば閉め出されているのだとしたら悲しい限りである。
マネキンが並ぶ変な部屋なども登場し、たとえ『時計じかけのオレンジ』ほど洗練されてはいなくとも、不気味さが感じられる格好の表現である。
以上の何かひっかかる演出は現在のハリウッド映画や日本映画では全く見なくなってしまったので、なおさら映画を制作する当時の環境の自由さを感じてしまう。
エンドロールなどで流れるヴァンゲリスの作曲による音楽も作品に最適であるのを改めて確認した。
映画では夢の中にユニコーンが登場したり、レイチェルと旅立つ際にデッカードが見つける折り紙がユニコーンであったり、奇跡の象徴のようにユニコーンを扱っている。
デッカードもレプリカントである暗喩だとも言われているらしく、ハリソン・フォード自身もこの演出はあまり気に入っていないようだが、筆者は観ていてもその演出であることに気付かなかった。
またオリジナル劇場版ではエンドロールになる直前のシーンでデッカードとレイチェルの乗った車が大自然を見はるかす山間の道を走って行くが、ファイナルカットでは削除されている。
筆者の個人的な見解はこのシーンはあってもなくてもどちらでも良いように思える。
フィリップ・K・ディックの映画化作品としては『トータル・リコール』や『ペイチェック』『マイノリティ・リポート』があり、ハヤカワ文庫から新訳版が今も発売され続けている。
筆者も上記の映画は全て観ているし、小説もいくつかは読んでいる。
原作小説で彼はアンドロイドという新たな奴隷階級を創造しながらも、実は死の灰に犯されてレギュラーからスペシャルにいつでも転落する人間も彼らとそれほど変わらないということを示しているように思える。
またもしかすると、ディックは白人がインディアンを殺し、黒人を奴隷としたことへの原罪意識みたいなものを持っていたのかもしれない。
同じくディック作品の『高い城の男』は大日本帝国とナチス・ドイツが戦争に勝ちアメリカを二分した社会が時代背景になっているが、同じ白人国家のドイツは残虐に描かれ、日本は高圧的でありながらも比較的話のわかる相手に描かれている。
しかも小説の結末もアメリカが独立を勝ち取るわけでもない。ディックが若い時にドイツ語を学んでいた事実を知ると尚更不思議な作品に思える。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の世界は核戦争後の設定になっているので、もしかすると原爆投下に関しても原罪意識を持っていたのかもしれない。
『高い城の男』はAmazonでシーズン2までドラマ化されている。予告を観た限りではディックの原作とは違い、日本の描写はステレオタイプに感じたが、真相はわからない。
余談だが、『高い城の男』と『パシフィック・リム』を足して2で割ったような『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』という作品がある。
作者はピーター・トライアスという名前だが、韓国ソウル生まれの韓国系アメリカ人だからなのか、作品の根底に流れる反日がどうしても感じられ、もちろん『高い城の男』の足下にも及ばない駄作になっている。
映画でリドリー・スコットが描いたレプリカントはどこまでいっても奴隷であり、デッカードという人間が愛のためなら仲間も裏切るいじらしい性格の奴隷を1人救うだけである。
まるで独立宣言を起草した第3代大統領ジェファーソンが黒人を奴隷として差別しながら、同じ黒人女性を愛人にしていたように。
この部分は気になるが、2時間の映画にディックの哲学を反映させるのは時間的に無理であり、レプリカント同士も含めて愛と生(性も)を全面に出した作品になっていると言えるだろう。
いずれにしろ古来から奴隷の概念すらない日本では奴隷階級が出て来る作品はなかなか生まれない。
豊臣秀吉が戦国時代に苛烈にキリスト教を弾圧し始めたのも、キリシタン大名が戦争で負けた日本人を奴隷として国外へ売っていることがわかったからである。
ダリル・ハンナ美しい
SFの金字塔といわれた映画を見逃していて、30年たったはじめてみた。
マイノリティ・リポートの眼球のモチーフ、クラウド・アトラスのレプリカントなどこの映画ですでに出ていたことを考えると当時の評価が高かったこともうなづける。
テーマが鉄腕アトムというところでは手塚治虫の偉大さが際立つ。
80年代の日本のプレゼンスがうかがえる。これが例によって新作では中国にとって代わられているのだろうか。
期せずして若かりしダリル・ハンナを堪能できたのは至上の喜びだった。
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