「或いは一つのハッピーエンド」ブレードランナー ファイナル・カット 森のエテコウさんの映画レビュー(感想・評価)
或いは一つのハッピーエンド
37年前の感嘆が鮮やかに蘇る。
あれ、エンディングが…
確かに、この後は更なるハッピーエンディングだった。
公開当時、監督が涙を飲んで、映画会社の意に沿った結末があった。
そこで、自分の魂は救われた記憶がある。なんとも言えない多幸感である。
それから、この映画は自分の中の映画ベスト3に入り続けている。
人の生きる意味と喜びが、何となく分かったような気にさせられたからである。
しかし、それはあくまでネクサスという架空の人工人間でなくて良かった、自分の寿命が予め分からない人間で良かったという浅い多幸感で、監督が本当に描きたかったテーマは別のところにあったのだといういうことが、あのエンディングがないディレクターズファイナルカットバージョンをIMAXという最新のフォーマットで鑑賞して新たに思えた。
それは、人間が創り出したネクサスという人工人間が、最後に人間以上に人間愛に基づいて行動していたという事に気がついたからだ。
劇中のネクサスは、人間と写し鏡を隔てたもう一つの人間だ。
自らの寿命を察した時、自らの運命を呪い、神に祈る。もう少し寿命を延ばして下さい、と。
その為に、自分を創り出した人間に近づき、何とか寿命を延ばしてほしいと訴える為に、反旗を翻したような形になり、存在を否定される。
それこそ正に人間ではないか。自らの死を受け入れるまでに、もがき苦しむ人間そのものだ。
自らの死を追いやろうとすればするほど、自分と自分の周りのものを傷付け苦しめる。
しかし、その事に気づいたとき、ネクサスは自らの死を受け入れ、後に続く命を助けた。
まるでキリストのように自らの体に杭を打ち、まるでそれまでの身の振りを悔い改めるような決意の表情で。
そこには、人間かネクサスかということは問題ではなく、生きるものの死をどう捉えるかという、生命誕生の瞬間から宇宙が抱える永遠のテーマが語られていた。
だから監督は、そのテーマを曖昧にさせてしまうことを畏れて、初公開当時のエンディングをヨシとしなかったのだと思う。
ネクサスが死の淵で自由になる方の腕で掴んでいた鳩が、死の瞬間に飛び発った。
それが凡ての答えであり、それしかないハッピーエンドだったんだと、37年の時を経て思い至ったことで、この映画はこれからも確固として自分の映画のベスト3であり続けると思う。
本作を映画館で観られたことが何よりも嬉しかったです。IMAXだからなおのこと幸せでした(笑)
レビューを拝読させていただきましたが、考察が素晴らしかったです。
ラストでロイがデッカードを助けた理由に納得がいきました。
ありがとうございました。