「レプリカントは黒人に変わる新たな奴隷」ブレードランナー ファイナル・カット 曽羅密さんの映画レビュー(感想・評価)
レプリカントは黒人に変わる新たな奴隷
続編『ブレードランナー2049』を観るために復習として本作を観ることにした。
原作となるフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も以前に1度読んでいるが、全く覚えていないので今回改めて読み直した。
なお映画はファイナル・カットを観た後にオリジナル劇場版も早送りで流し観てチェックした。
結論から言うと、小説と映画はほぼ別の作品である印象を持った。
どちらが面白いかは甲乙つけがたく、深さの方向性自体も違うように思えた。
原作ではアンドロイドと呼び、映画ではレプリカントと呼ぶ亜人種は、端的に表現すれば黒人などに変わる新たな奴隷階級である。
その奴隷をどう考えるかの違いが両者の方向性を分けているといったところだろうか。
原作にあって映画にない大きな要素が1つある。
主人公たち人間の住む世界は核戦争後の死の灰(放射性降下物)が降り積もる世界になっていることである。
そしてそれを浴び続けることでレギュラー(適格者)の人々も、思考力や肉体能力の劣ったスペシャル(特殊者)に退化する危険性と常に隣り合わせで生きている。
この要素があるとない(もしくは明確に示されるのと示されないの)とでは作品世界が大きく変わる。
また原作の世界では野生動物がほぼ死に絶えている世界であり、そのため本物の動物、たとえば牛や羊、山羊、馬、フクロウなどを飼育することが大きな社会的ステータスとなっている。
そこであたかも本物を飼育しているかの偽装をするために電気の動物までが存在している。
物語の序盤では、主人公リック・デッカードも本物の羊を死なせてしまったために電気羊を飼っているのだ。
原作のアンドロイドをあえてレプリカントという呼称に変更したこと自体に彼らを人間に近い存在にしたい意図を感じる。
アンドロイド/レプリカントを狩る人間の呼称も変えている。原作ではただのバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)だが、映画はタイトルである「ブレードランナー」というご大層な名前が付いている。
映画は最後でデッカードとレイチェルが別天地へ旅立つ愛の物語になっているが、原作では妻帯者のデッカードが戻るのはガミガミと小言の多い妻イーランの待つ日常である。
映画と同じく原作でもデッカードはレイチェルと肉体関係を持つのだが、そもそも原作のアンドロイドは感情に乏しいままで、映画のレプリカントのように時間の経過とともに感情が生じるわけでははない。
そのため原作のアンドロイドが死へ諦観を持っているのに対して、映画のレプリカントは生へ異常なまでに執着しているように感じられる。
原作のレイチェルはデッカードの前にも他の複数のバウンティ・ハンターと過去に肉体関係があり、彼らがアンドロイドへ感情移入して殺すのをためらうようにわざと性交するような計算高い女性アンドロイドである。
映画のように愛のために同じレプリカント(リオン・コワルスキー:映画オリジナル登場人物)を撃ち殺すような真似はしない。
またデッカードは彼らアンドロイドに感情移入しつつも、最終的には逃亡アンドロイドを自らの手で処分している。
レイチェルと情交したバウンティ・ハンターの中には人間であるとの偽情報を植え付けられたアンドロイドのフィル・レッシュもいたが、元々が人間ではない彼にはレイチェルの策略は通用していない。
原作と映画の相違点を上げると他にもさまざまある。
映画ではレプリカントが人間に反乱を起こし、地球に逃れたレプリカントを処分する設定になっているが、原作のアンドロイドは単に逃亡しただけである。
原作のデッカードはアンドロイド狩りにおいてホールデンより大分腕が落ちる設定だが、映画ではデッカードが一番腕利きとなっている。
映画の構成上人数も減らしている。原作の逃亡者は元々は8人、デッカードの前任のデイヴ・ホールデンが2人処分して、残り6人をデッカードが始末していくが、映画は4人になっている。
また4人の名前も半分は違う。
ロイ・バティとプリスはいっしょだが、コワルスキーとゾーラ・サロメは映画のオリジナルである。
恐らくコワルスキーは原作ではマックス・ポロコフに当たり、ゾーラは原作ではオペラ歌手のルーバ・ラフトが最も近いかもしれない。
ただしルーバは全く武闘派ではなくむしろデッカードを罠にはめるような知性派であるし、最終的に手を下したのもアンドロイドのフィル・レッシュである。
映画のリプスはロイと恋人関係にあるが、原作のロイにはアームガードという配偶者のアンドロイドが存在する。
また映画ではレイチェルをショーン・ヤングが、プリスをダリル・ハンナが演じ分けているが、原作は両者は同一の姿形をしたネクサス6型であり、プリスは最後にデッカードに撃ち殺されている。
映画のロイは肉体的に相当強くデッカードをターミナーターばりに追い込むが、原作のロイはデッカードにあっさりと殺されてしまう。
ネクサス6型を開発した会社名も違う。映画はタイレル社となっているが、原作はローゼン協会であり、そのため創始者の名前が、映画はエルドン・タイレルであり、原作はエルドン・ローゼンになっている。
またエルドンがロイに殺される描写は原作にはない。
映画でレプリカントを匿うはめになるJ・F・セバスチャンの役回りは、原作ではJ・K・イジドアという人物である。
セバスチャンを早老症にしているのは、原作のイジドアがスペシャルという設定に寄せているのだろう。
そしてもう1つ大きな違いがある。
原作では、感情を制御するためにデッカードや妻のイーラン、イジドアが入信している「マーサー教」という宗教が頻繁に話題に上る。
また最大のテレビ娯楽作品としてバスター・フレンドリー・ショーもよく会話に出て来るが、マーサー教の教祖ウィルバー・マーサーもショーの司会コメディアンであるバスター・フレンドリーも後にアンドロイドであることが判明する。
映画では感情面で人間に近づくレプリカントが実社会ではほとんど影響を持っていないのに対して、原作では内面が人間からはほど遠いはずのアンドロイドが社会的には大きな影響力を持っているなど、両者の描かれ方が全く正反対である。
やはりこれだけ違いがあると映画は原作を活かした別作品と言っても過言ではないだろう。
映画本作における近未来的な描写は30年以上前であってもそれなりの説得力を持ってはいるものの、テレビの形体やレイチェルの着る肩パッドの強い服などの小道具には時代を感じてしまう。
本作のあらゆるデザインをシド・ミードが担当しているが、『トロン』とほぼ同時期に平行して仕事をしていたというのだから驚く。
因みに日本でもガンダムシリーズの『∀ガンダム』において主要なロボット(モビルスーツ)のデザインを担されていたりする。
雑多な町並みや様々な人種が行き交うディストピアな近未来的ロサンジェルスの描写は後のアニメ映画『攻殻機動隊』にも少なからず影響を与えたことも感じられ、なるほどこの下地があるからこそ『攻殻』もアメリカで受け入れられたのかとも思わせてくれた。
本作で描かれる「強力わかもと」の映像広告や微妙に意味不明な日本語看板、ステレオタイプな芸者映像は当時のハリウッド映画なら致し方ないところかと笑って諦められる。
ハリソン・フォード扮するデッカードがうどんを食べるシーンで店主が日本語で話しかけるのも奇妙と言えば奇妙である。
Blu-rayで本作を観たせいか光を巧みに使用した明暗のコントラストは美しく感じられ、登場人物の内面描写にもつながる素晴らしい演出だと思う。
またセバスチャンの部屋の妖しい雰囲気を醸し出すために小人を登場させているが、最近ではホドロスキー監督作品の『リアリティのダンス』や『ブランカニエベス』などの1部のヨーロッパ映画でしかお目にかかれなくなってしまった。
小人症の役者たちは映画などで活躍の場を求めているのに、昨今の表現の自主規制によって多くの映画業界からなかば閉め出されているのだとしたら悲しい限りである。
マネキンが並ぶ変な部屋なども登場し、たとえ『時計じかけのオレンジ』ほど洗練されてはいなくとも、不気味さが感じられる格好の表現である。
以上の何かひっかかる演出は現在のハリウッド映画や日本映画では全く見なくなってしまったので、なおさら映画を制作する当時の環境の自由さを感じてしまう。
エンドロールなどで流れるヴァンゲリスの作曲による音楽も作品に最適であるのを改めて確認した。
映画では夢の中にユニコーンが登場したり、レイチェルと旅立つ際にデッカードが見つける折り紙がユニコーンであったり、奇跡の象徴のようにユニコーンを扱っている。
デッカードもレプリカントである暗喩だとも言われているらしく、ハリソン・フォード自身もこの演出はあまり気に入っていないようだが、筆者は観ていてもその演出であることに気付かなかった。
またオリジナル劇場版ではエンドロールになる直前のシーンでデッカードとレイチェルの乗った車が大自然を見はるかす山間の道を走って行くが、ファイナルカットでは削除されている。
筆者の個人的な見解はこのシーンはあってもなくてもどちらでも良いように思える。
フィリップ・K・ディックの映画化作品としては『トータル・リコール』や『ペイチェック』『マイノリティ・リポート』があり、ハヤカワ文庫から新訳版が今も発売され続けている。
筆者も上記の映画は全て観ているし、小説もいくつかは読んでいる。
原作小説で彼はアンドロイドという新たな奴隷階級を創造しながらも、実は死の灰に犯されてレギュラーからスペシャルにいつでも転落する人間も彼らとそれほど変わらないということを示しているように思える。
またもしかすると、ディックは白人がインディアンを殺し、黒人を奴隷としたことへの原罪意識みたいなものを持っていたのかもしれない。
同じくディック作品の『高い城の男』は大日本帝国とナチス・ドイツが戦争に勝ちアメリカを二分した社会が時代背景になっているが、同じ白人国家のドイツは残虐に描かれ、日本は高圧的でありながらも比較的話のわかる相手に描かれている。
しかも小説の結末もアメリカが独立を勝ち取るわけでもない。ディックが若い時にドイツ語を学んでいた事実を知ると尚更不思議な作品に思える。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の世界は核戦争後の設定になっているので、もしかすると原爆投下に関しても原罪意識を持っていたのかもしれない。
『高い城の男』はAmazonでシーズン2までドラマ化されている。予告を観た限りではディックの原作とは違い、日本の描写はステレオタイプに感じたが、真相はわからない。
余談だが、『高い城の男』と『パシフィック・リム』を足して2で割ったような『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』という作品がある。
作者はピーター・トライアスという名前だが、韓国ソウル生まれの韓国系アメリカ人だからなのか、作品の根底に流れる反日がどうしても感じられ、もちろん『高い城の男』の足下にも及ばない駄作になっている。
映画でリドリー・スコットが描いたレプリカントはどこまでいっても奴隷であり、デッカードという人間が愛のためなら仲間も裏切るいじらしい性格の奴隷を1人救うだけである。
まるで独立宣言を起草した第3代大統領ジェファーソンが黒人を奴隷として差別しながら、同じ黒人女性を愛人にしていたように。
この部分は気になるが、2時間の映画にディックの哲学を反映させるのは時間的に無理であり、レプリカント同士も含めて愛と生(性も)を全面に出した作品になっていると言えるだろう。
いずれにしろ古来から奴隷の概念すらない日本では奴隷階級が出て来る作品はなかなか生まれない。
豊臣秀吉が戦国時代に苛烈にキリスト教を弾圧し始めたのも、キリシタン大名が戦争で負けた日本人を奴隷として国外へ売っていることがわかったからである。