「「汚れ」によって歪められた岩井ワールド」打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(1993) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
「汚れ」によって歪められた岩井ワールド
元々はテレビドラマの一編として製作された中編。荒っぽくチープな映像ながらも、カメラワークやカッティングに岩井俊二の繊細な美意識が見て取れる。一つの物語が二つの異なる世界線に分岐するという、クシシュトク・キェシェロフスキ『偶然』を彷彿とさせる物語構成も凝っている。「打ち上げ花火は下から見ても丸いのか?」という素朴だが強烈な疑問を解決するための冒険が、子供特有の飽き性と疲労によって次第に勢いを失っていくのも『スタンド・バイ・ミー』みたいで懐かしい。もちろん奥菜恵の今にも壊れてしまいそうな美しさも大きな魅力の一つだ。中身はさておき、美しいイメージと透明感のある筆致によって唯一無二の世界観を立ち上げることができるという点において岩井俊二は傑出している。
しかしそれゆえに夾雑物も目立ちやすいといえる。白いシャツほど小さな汚れでも目についてしまうのと同じように。たとえば男子小学生たちの粗暴で平板な性格。転校という人生の転換点を目前にして曖昧に揺れ動く奥菜恵に比して、周りの男子小学生たちがあまりにしょうもない。女性教員の胸を揉んだり「男の約束」を理由に異性との先約をすっぽかしたり不満があればすぐさま暴力的手段に訴え出たりと、お前らは脊髄反射だけで生きているのかと疑いたくなる。もちろんそこに「思春期の焦燥」みたいな精神的深層を見出す余地もない。現実の男子小学生なんかこんなもんだよと言われればそれまでだし俺もこいつらと大差なかったと思うけど、こういう身も蓋もない「汚れ」が岩井俊二の映画に不要であることだけは確かだ。
「汚れ」によって歪められた作品世界の中では、奥菜恵の美しく透き通った存在感も「男の妄想・フェチズムの具現」へと貶められてしまう。男たちにクラスの女の子のことを「ブス」と言いかけて呑み込むだけの繊細さと良心が備わっていたなら、と思うと勿体ない。最後のほうなんかアレもコレも岩井俊二の個人的な性欲の発露に思えてしまってうんざりした。そういうものを一切合切脱臭してしまうのが「岩井美学」の強度だろ。そう思うと、下卑た欲望の対象が生身の人間でないだけアニメ映画版の『打ち上げ花火~』のほうがいくらかマシかもしれない。