劇場公開日 2023年2月17日

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素敵な歌と舟はゆくのレビュー・感想・評価

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4.0ジョージアの素敵なところ

2023年10月16日
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楽しい

幸せ

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まるせ

4.5とても面白い

2023年4月30日
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鑑賞方法:映画館

舟にバイクにヘリにローラーブレード、鉄道模型、そして多種多様のクルマが駆動する様子がやたら多い。乗り物以外も、男子が好きなものをたくさん詰めこんだような印象を受けた。演出のノリも終始視覚的な、無声喜劇みたいな感じで、ただそこに映るものを見る楽しさに溢れた映画だった。綺麗な女性もたくさん出る。

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どんぐり

4.0ブルジョワジーとホームレスの幸福な化学反応。イオセリアーニ群像劇の典型例&代表作。

2023年4月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

実のところ、この作品だけは若い頃観たことがあったのだが、もはや筋も内容もほとんど覚えていなかった(イオセリアーニ群像劇の筋を覚えるのは、はっきりいって至難である)。
今回改めて劇場で観直してみて、びっくりしたことがある。
これって、実質的には前作『群盗、第七章』の精神的続編だったんだな!
このあいだ観た『群盗、第七章』のラストでパリに渡った髭面のホームレス、アミラン・アミナラシヴィリが、ほぼ同じような役で出てきて、イオセリアーニ監督自身が演じる大富豪の亭主と一緒になって飲んだくれているではないか。

しかも、若い頃に観たときには一切知識がなかったが、イオセリアーニ映画祭ですでに何本も同監督作品を観てきた今は分かる。
二人が飲みかわしながらハモり合ってる歌って、ジョージア流のポリフォニー(多声音楽)だよね。
これ、何語で歌ってるんだろう?? フランス語の分かる人にぜひ教えてほしいなあ。僕には、パリに流れ着いた孤独なジョージア人映画監督とホームレスが、望郷の想いをこめて故国のポリフォニーを唱和しているようにしか聞こえなかったけど。
観ているかぎりでは出自は分からなかったが、この大富豪の旦那さんも演じているイオセリアーニ同様、実はジョージア出身で、実業家の奥さんに見初められて入り婿したとか?(ふつうの人は、出会い頭にポリフォニーを歌えたりしない。ジョージアの人は誰でもハモって歌えるらしいけど)
きっと老人は、長く過ごした異国の地で、故郷の歌を歌える男とついに相まみえたのだ。
だからこそ、彼はホームレスにあれだけ執着し、ラストでは家族を捨てて出奔するまでに至るのだ……といったバックストーリーをつい考えてみたくなる。
まあ、ふつうにフランス語で歌っていたとしても、そういう「ジョージアを遠く懐かしむ含意」があるのではないか、ということだ。

結局、パリを舞台に、パリの住人たちの群像劇を紡いでいても、イオセリアーニの心の中核にあるのは、つねに故郷ジョージアなのだ。
この映画において、本当の安らぎとして描かれるのはただ、友と酌み交わす酒と、声を被せ合う歌であり、酒と歌に彩られた宴会である。まさにそれは、ジョージアにおけるスプラ(宴会)のカルチャーに他ならない。
パリを舞台に、パリの大富豪役に偽装しながら、イオセリアーニはイオセリアーニ自身として映画内に降臨し、前作の主人公であり「聖なる愚者」「聖なる酔っ払い」として聖化されたホームレス(アミラン・アミナラシヴィリ)と「旧交を温める」。
彼ら二人の作り出すインティメットな空間は、パリのただなかにぽっかりと生まれた、歌と酒で出来たジョージアの精神的「飛び地」だ。

イオセリアーニは『エウスカディ、1982年夏』のバスクや、『トスカーナの小さな修道院』のトスカーナや、『そして光ありき』のセネガルといった土地に、「ジョージアの文化・自然と共通する何か」を見出し、ジョージアへの望郷の念を重ねながら、地方の習俗をフィルムに収めてきた。
そのあと、ドキュメンタリーである『唯一、ゲオルギア』と、劇映画である『群盗、第七章』の製作を通じて、ソヴィエト崩壊後の祖国ジョージアと真正面から向き合ってみせた。

そんな彼が、ジョージアからパリに再び舞い戻って、街の空気とリズムに順応しながら、パリを舞台に改めて撮り始めたのが、この『素敵な歌と舟はゆく』だ。
『月の寵児たち』に始まる独自の群像劇スタイルには、さらなる洗練味が加えられている。
それでも、彼はパリの風俗のなかに、最終的な救いを見出そうとしない。
彼はあくまでも、パリの街角に再びジョージアを見出そうとし、見つけたそのなかに真の安らぎと幸せを見出すのだ。
実質的な「棄国者」に近い存在であればあるほど、その人物の祖国愛と望郷の念と自国文化へのこだわりはむしろ先鋭化する。世の中は、得てしてそういうものかもしれない。

― ― ― ―

『素敵な歌と舟はゆく』は、イオセリアーニ映画のなかでも特に人気のある作品だ。
世間的には、おそらく代表作と目されているのではないだろうか。
彼の群像劇は似たり寄ったりで、どの作品にも作劇上そう大きな差異があるわけではないのだが、実際に本作は他と比べても格段に「観やすい」映画に仕上がっている。

一番の理由としては、主人公に若い青年を採用していることが挙げられるだろう。
イオセリアーニ映画特有の、登場人物のいい加減さや犯罪性が、「無軌道な青年」が主役に立つことでずいぶんと印象として緩和されている(「ふつうさ」を偽装できている)。
それから、後年の群像劇ほど「何をやっているのか意味のとれない行動」や「笑うに笑えないギャグ」が目立たず、少なくとも登場人物が何を目的として動いているかがちゃんと把握できるのも大きい。いくつかのスケッチ風のギャグはふつうに面白いし、ドタバタも様になっている。登場人物は概ね魅力的で、まさに「ノンシャラン」という標語があてはまる雰囲気が横溢している。出だしのコウノトリ(マラブー)のインパクトも強烈だ。アコーディオンの曲がちゃんと「映画音楽」としてBGMに用いられているのも、彼の映画としてはけっこう珍しい。
要するに、イオセリアーニ映画としては、とても観客に「宥和的」な作りになっていると言える。
パリ郊外の豪邸とパリの中心地を結んで、空・道・河の三経路で登場人物たちが行き来し、ヘリコプター、バイク、スクーター、自動車、船が動線を疾駆する、「動的」な映画であること(全体にプチ・ロードムーヴィー的な空気感が付与されている)も、本作をキャッチーに感じさせる一因だろう。

それから本作の場合、各登場人物の行動がしりとりのように連鎖していって、やがてお互いが交錯し影響し合っていく独特の叙述スタイルと、筋らしい筋のない「とらえどころのなさ」自体はいつもと全く変わらないのだが、代わりに「階級間の交流」という構造的な枠組みがどっしり据えられている(映画としてやろうとしていることがはっきりしている)。この枠組みの明確さも、いつもより「観やすい」映画に仕上がっている理由の一つだと思う。

本作では、大富豪一家の生活ぶりと、労働者の最下層&町のごろつき&ホームレスの日々が常に対比的に描出される。で、その両者がしきりに不思議な形で「行き来」を繰り返すわけだ。
大富豪が住むのはパリ郊外のお城のような大邸宅(室内をペットのマラブーが徘徊している)で、そこから長男坊は船を一人で駆って、セーヌ川を下って街の中心地に向かう。一方、実業家の母親はヘリコプターで商談に赴く。黒塗りの車で行く日があるのは雨でヘリが飛ばせないからか? なんにせよ、実に優雅な出勤スタイルだ。
長男坊は、家では富豪のボンボンとして家長である母親の厳しい教育を受けているからか、街に出るとその反動のように「貧乏人のふり」をして過ごしている。皿洗いのバイトをして、ストリートギャングとつるんで窃盗を働き、カフェの看板娘をナンパし、ホームレスたちと飲みニュケーションで友情を培う。で、家に帰るとボンボンとしてのペルソナを被り直す。
じつに奇妙な「グレ方」だ。場所を限定して、グレている。
で、ちゃっかりブルジョワジーとしての居場所も確保している。
「必殺」シリーズのようなキャラの二重性を自ら設定することで、反抗期を巧みに乗り越えているとでもいうのか。

このボンボンの「裏」キャラとして登場するのが、しがない貧乏な鉄道清掃員の青年で、彼はパリの街に出向くときは、バイカー仲間のハーレーを借りて、スーツを身にまとい、「金持ちのふり」をしてナンパにいそしんでいる。
ブルジョワジーは貧乏人のふりをして、貧乏人たちに溶け込み、
貧乏人はブルジョワジーのふりをして、ガールハントに精を出す。
そして、「偽りのペルソナ」が巻き起こすちょっとした悲喜劇が、本作の主眼となる。

ボンボンは、必ずしも自分の身分を隠しているわけではない。
彼は自宅で盛大なパーティーが開催される夜に、ストリートギャングのマブダチとホームレスの年上の友人を引き連れて船で帰宅し、そっと酒蔵まで案内して朝まで極上の高級酒を飲み明かす。
翌朝、青年ふたりは乗り合いバスで返されるが、ホームレスのほうはイオセリアーニ演じる富豪宅の父親に見出されて結局居残ることになり、母親の不在中ずっと一緒に飲んだくれることになる。
一方、同じ日に、バイカー青年にナンパされたあと森でレイプされかけたバーの看板娘は、大雨のなか幹線道路沿いに置き去りにされ、通りすがりのスクーターに拾われる。
スクーターの向かった先はくだんの大邸宅。運転していたのは屋敷のメイド(富豪パパとも関係を持っているらしい)だったのだ。看板娘はシャワーを浴びたあと、大邸宅の一室に隠れて一夜を過ごすことに。翌朝、彼女も乗り合いバスで帰っていく。

こうして、ブルジョワジーと貧乏人は何度もエンカウントし、身分を超えての交流がさまざまなフェイズで繰り返される。
やんごとなき令息が、不良として町のごろつきやホームレスに交じって青春を謳歌しているのは、日本でいえば遠山の金さんか暴れん坊将軍かといったところだが、「遊び人のふり」をしているわけではなく、本当に拳銃窃盗に関与して豚箱に送られたりするので、まあまあ質が悪い(笑)。
一方で、イオセリアーニパパとホームレスの友情は本物で、結果としてラストの出奔劇につながるわけだ。
両者の交流に際しては、常に(着脱式のローラースケートも含めて)なにがしかの乗り物や交通機関が介在し、双方の階級差を強調する仕掛けとなっている。

もう一つ、本作の見どころとしては「先行きの読めなさ」「意外な展開の多さ」を上げてもいいかもしれない。
たとえば、主人公の青年とバーの看板娘は、ドラマツルギー上は大邸宅で明かす一夜のあいだにばったりどこかで会うのが「ふつう」だと思うのだが、観客にあえて肩透かしを食わせるかのように二人の動線は紙一重で交わらない。
あるいは、ブタ箱行きとなった青年が釈放されて家に帰ってくるとき、今までのずっと見境なく怒鳴り散らしている流れからして母親が激昂するとばかり思っていたら、まったく怒ることなく抱きしめて終わりとか。
レイプされかけて道に置き去りにされたバーの看板娘に、性懲りもなくバイカー青年が近づいてきたあたりも、出会い頭にビンタ一閃は充分「予測内」だったのだが、そのあとまたもバイクの後ろにまたがって関係が修復されるとはよもや思わなかった。
その他、動物病院でバイオリンの練習にはげむ少年の意外な正体とか、
どんくさすぎる黒人の召使いとランニング女性の意外な邂逅場所とか、
本作では「あえて観客をびっくりさせてやろう」という気の利いた「仕掛け」が散見される。
観客の予測をくつがえし、どうだいと笑っているイオセリアーニの姿が目に浮かぶようだ。

なにより「意外」だったのは、イオセリアーニの「ブルジョワジー」に対する思いがけないくらい「優しい」視線だ。
警官や公権力にはやたら手厳しく、ホームレスや犯罪者にはやけに寄り添った描写の多い監督だが、それなりに本作のブルジョワジー一家の面々には感情移入できる描写が当てがわれていて、必ずしも「金持ちが憎い」って単純な人じゃないのだな、と妙に感心した。

全体を見ると、犬の散歩だとか、掏摸だとか、イコンを骨董屋に売りつける一家だとか、女を尾行する男だとか、他のイオセリアーニ映画でもさんざん出てくるネタがぎっしり詰まっていて、どこをとっても個性的だ。ぐるぐるまわるNゲージの電車模型でパパの置かれた退屈で息苦しい日常を表現するあたりも、いかにもこの監督らしい。

主役に自分のじつの孫を抜擢し、父親役としてイオセリアーニ本人も出ずっぱりで出演するあたり、ファミリー・ムーヴィーとしての親密さも感じられる。イオセリアーニ自身にとっても、大切で、個人的で、特別な意味合いのある一本なのではないだろうか。

でも、この幸せな未来のまったく見えてこない逃避的なハッピーエンドって、『汽車はふたたび故郷へ』の謎ラストと結構よく似てるよなあ。

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じゃい

3.5うん、うん…。

2023年4月13日
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全然飽きずに観れた所があって、
全くおもしろくなくは無いんだけど、
んー、何だろう、

いや街を俯瞰してる感じとか、
あらゆる人が生きてる感じとか

ジョージアってこんな感じなんだなと、
ちょっと呑気なヨーロッパという感じ

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JYARI

1.023-029

2023年2月23日
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鑑賞方法:映画館

オタールイオセリアーニ映画祭。
正直何を観て何を感じれば良いのか、
さっぱり❓でした。

フランス人って、へんなの😅

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佐阪航