ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカのレビュー・感想・評価
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映画オタクがおっさんになって、25年ぶりに謎に向き合ったよ
本作の日本公開時1984年と言えば、オレは小学生だ。よって先日レビューした「ディア・ハンター」同様、初見はVHSで、高校生の時だ。これも当時長いモノだったが、のちに「完全版」なるものを観たりと、大好きな作品だが、今回は「ディレクターズカット」という4時間11分の代物だという。
あの至福の時間を劇場で味わえるなんて。さらに22分の追加シーンがあるなんて。朝から眠いとかあるわけない。「シティーハンター」に駆け込む大量の老若男女を尻目に、
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ ディレクターズカット版」
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今回は追加シーンについて、話をしようと思う。カットされたシーンには、極めて重要なものもある。
1)墓場管理人ルイーズ・フレッチャーの登場シーン
2)追跡車両の爆破シーン
3)デボラの舞台のシーン
4)老婆キャロルとの再会
これらは特に無くても問題はなかったと思える。特に1)2)4)は、「妄想」ラインが大きく薄れてしまうため、削って正解。
4)デボラとのデートでの、タクシーの運転手とのやり取り
ヌードルスがユダヤ人の恥のように言われるのだが、唐突すぎて不要なシーン。彼がそもそも一匹狼であるのは、「イタリア系」でないのが大きい理由の一つであり、また彼の性格が自分勝手で直情的なクソであることは劇中、十分描かれているので、必要ない。
5)デトロイトでの「泳ぎ」のシーン
これはとっても重要で、車ごと突っ込んだ一行はヌードルスがおぼれたのかと心配する。ここではヌードルスの姿は見せないのだが、ここでの「ゴミ清掃」がラストとリンクする。
ベイリー(マックス)はゴミ清掃車の中に消えたのか?いやそうではなく、初めからいなかったのだ。
これはヌードルスとマックスはお互いに「親友」のなかで「からかいながら、だましだまされ」を繰り返してきた仲だということ。
このシーンが削られたことで、ゴミ清掃車、ラストの「笑み」の解釈がこれまで難しく議論されてきたといえる、最重要のカットシーン。
6)ヌードルスとイヴとの出会い
これまでのヴァージョンでは、イヴの存在がキャロルより軽く見えてたのが、どうも納得いかなかったのだが、今回の追加でその存在が大きくなる。またヌードルスがずーっとデボラを引きずっていたことがより分かりやすくなった。
心情的には削ってほしくなかったシーンだが、ヌードルスの「妄想」の中では、序盤であっさり殺されるという軽い存在なので、確かに無くても良かったのかもしれない。
7)ベイリーとジミーの会話
ベイリーすなわちマックスとジミーの立場が逆転したことがはっきりわかり、ベイリーに選択肢がないことがより分かる。これは「現実」ラインを厚くするエピソードであり、マックスのやり方が60年代では通用しなくなっている、という「ギャング」の衰退を意味する。
総じて、これらのシーンのカットの理由は、上映時間の関係よりも、と作り手の「意図的な混乱」というのがよりはっきりした。
この映画自体の面白さはいうに及ばず追加シーンも不要なものとはいえ、とても楽しく観ることが出来た。
追記
それでも、マックスが連邦銀行に執着した理由がないんだよね。
レオーネの映像、モリコーネの音楽、デ・ニーロの演技に酔いしれる
2020年7月6日、エンニオ・モリコーネが逝去した。イタリアを代表する映画音楽の巨匠である。91歳だった。モリコーネが「荒野の用心棒」の世界的大ヒットでマカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇)の作曲家として欠かせない存在となって以降、コンビを組み続けたセルジオ・レオーネ監督(1989年逝去)の遺作にして代表作が「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984)だ。
ハリー・グレイの自伝的小説を原作に、ニューヨークのロウワー・イーストサイドを縄張りとした、ユダヤ系ギャングたちの栄光と挫折を描いた一大叙事詩。1930年代初めの禁酒法時代から幕を開け、60年代後半と20年代初めの3つの時代が交互に描かれる。ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ウッズ、エリザベス・マクガヴァンに加え、バート・ヤング、ジョー・ペシ、さらに少女だったジェニファー・コネリーまで錚々たる俳優たちが、構想14年、前作から10年以上の沈黙を破ったレオーネ監督の元に集結した。
第37回カンヌ国際映画祭を震撼させた全編を貫く凄絶なバイオレンス描写とともに、レオーネ作品の重要なモチーフである愛と友情、金と記憶、裏切りと悔恨が、二人の主人公を鏡映しにノスタルジックに描かれ、3時間超えの時間の長さは感じない。イタリア人監督レオーネが、憧れていたアメリカへオマージュを捧げたフィルム・ノワールだ。
光と影、クローズアップの多用と遠景を織り込んだ緻密な画面構成、フラッシュバック、長回し、さらに鏡、覗き穴、電話などを効果的に用いて登場人物の心情を表現。そして、名曲「アマポーラ」とともにモリコーネの音楽が物語を語っていると言っても過言ではない。また、当時のマンハッタンを再現した映画美術も素晴らしく、脚本、撮影、衣装など最高のスタッフで作り上げたスケールと豪華さに圧倒される。
人生で一度、体感してみて損はない、圧倒的な4時間11分
4K映像にて蘇った4時間11分に及ぶこの名作を「午前十時の映画祭」にてスクリーン鑑賞することができた。冒頭から巨匠レオーネの凄まじいバイオレンスが飛び出し、それを抜けると「覗き穴」から景色を望むがごとく、セピア色の昔話が途端に色づいて華やぎ出す。この記憶の紡ぎ方が何とも見事で、圧倒される。まっとうな人生、正義、友情、愛の定義なんて誰からも教わらず、路上で這い上がってきた主人公たち。一心不乱に本能のまま駆け回った子供の頃と、大人になってあまりにも多くのことを知り過ぎた頃とがオーバーラップし、立ち上る埃と汗と阿片窟の煙に思わずむせ返りそうになる。
前に知人から、ウォン・カーワイ監督作『グランドマスター』も本作の影響を多分に受けていると聞かされたことがある。阿片窟や列車ホームでの戦いなどを見ているとそれも深く納得だ。ともあれ、一生に一度、映画ファンならば是非体感しておくべき名作と言えるだろう。
荒廃的な世界を堪能
明日をもしれぬ移民系の少年たちが荒廃的なニューヨークを生き抜く。
成長した主人公をデ・ニーロが熱演。
とても長尺な作品だが最後まで目が離せない。誰もが幸せになりえぬ未来を見届けずにいられない。
音楽効果が作品に重厚感を与えとても良い。
タイトルなし
完全版を鑑賞、他のバージョンは一切観ていない。
4時間近い長尺を嫌って避けていたが、観終わってみれば夢中で観ていたから気にならなかった。とは言え鑑賞後に時計を見た時は思った以上に遅い時間で少し焦りはした。
長過ぎるが、名作。
回想シーンが素晴らしい。そして音楽が素晴らしいし、オチも面白いのだが、長いし、登場人物が多いので観ていて疲れた。セルジオ・レオーネがゴッドファーザーの監督オファーを断ってまで作った映画ということで熱意は理解できるがやはり長過ぎる。最後のシーン(デニーロの満面の笑み)はなぜ壮年期ではなく青年期だったのだろうか?ジェニファー・コネリーは子供の頃こんなに可愛かったんだんだな、と再確認。
1920年代、17歳のユダヤ移民の子ヌードルス(通称)は、ブルック...
1920年代、17歳のユダヤ移民の子ヌードルス(通称)は、ブルックリンから越してきた同じくユダヤ移民の子マックスと出逢う。
ふたりは意気投合。
同年代のパッシィー、コックアイ、それに年少のドミニクを加えた仲間で、街でひと稼ぎしていた。
そこには、親が経営するバーの手伝いをする太っちょモーも時々加わっていた。
モーの可憐な妹デボラにヌードルスは恋心を抱いていた。
ある日、バグジー率いる年長集団といざこざが起こり、殺されたドミニクの復讐で、ヌードルスはバグジーを刺し殺してしまう。
刑期は6年。
20代半ばになったヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)を迎えに来たのはマックス(ジェームズ・ウッズ)。
マックスは禁酒法下で、太っちょモーを利用してスピーク・イージー(もぐり酒場)を経営して、裏社会ではちょっとした顔だった。
しかし、「ボスは俺自身だ」と言っていたマックスも、大立者フランキー(ジョー・ペシ)の仕事をするようになっており、そして禁酒法の終焉とともに自棄な銀行強盗を計画するようになった・・・
そして、パッシィー、コックアイとともに焼死体で発見され、ヌードルスはひとり、グレイハウンドのバスに乗り、姿を消した。
それから30数年、60年代後半。
老年期に入ったヌードルスのもとに一通の手紙が届き、ヌードルスは街へ戻って来る・・・
といった物語で、禁酒法時代の30年代を中心に、少年時代と老年期の現在が複雑な時制で描かれます。
豪華な美術とゆったりとした語り口で、壮大な絵巻物をみるような感じであるが、いかんせん、物語が薄っぺらい。
「男たちの友情と裏切り」といえば聞こえはいいが、ヌードルスもマックスも下衆な男で、彼らをとりまく人物も概ね下衆な人物なので、途中から「どうぞ、ご勝手に」って感じになってしまいます。
花を添える女優陣は、少女期のデボラを演じるジェニファー・コネリーが格段に良く、成長してからを演じるエリザヴェス・マクガヴァンは、やや小物な感じは否めない。
マックスの情婦キャロルを演じるチューズデイ・ウェルドが、予想外にいい味を出しています。
エンニオ・モリコーネの音楽も甘美で素晴らしいのだけれど、のべつ同じようなトーンで流れるので、胃にもたれる感じがします。
どうもセルジオ・レオーネ監督とわたしは相性が悪いなぁ。
(ディレクターズカット版での鑑賞)
鑑賞回を重ねる毎に、監督の意図した最終形態に迫っていくかのよう
この作品には、レオーネ氏の言によりイタリア本国での「4時間半のテレビ版がある」という、その存在が示されていた。
現時点でBDにより鑑賞可能な、2回の劇場公開を経て復元修復された追加箇所の素材というのは、上記の経緯を辿った物である可能性が考えられ、従って素材の状態自体が元々、はじめから劇場公開フィルム版と同等のレベルを有していなかったのではないかとも推察される。
そのような事実をアタマの隅に入れて観てみると、劇場公開(元の完成)版に対し、どの部分がテレビ版に追加復元されたのかが判別が付くというのも、マイナスの要因とばかりも言えないかも知れない。
最も典型的で分かりやすい部分を上げると、エンドロールにその名を連ねながら、劇場公開されたどのバージョンにもその姿を確認する事が出来なかった出演者がいるという事である。
その一人が女優の“ルイーズ・フレッチャー”氏であり、その部分の映像にクオリティは、劇場公開済み本編の部分とは明らかに異なっている。
そのような紆余曲折を辿って、やっと我々の手元にたどりついてくれたレオーネ氏の遺作の“”究極版”が、そのクオリティ(画質)によって評価が左右させるような事などは無いだろう
初公開時には、「新宿プラザ劇場」の大画面で観賞した時とは、また違った感動がある。
またその後、そこから再公開鑑賞までの間には、サントラには未収録だったため、モリコーネ氏には異例に思えたThe Beatles の Yesterday が(インストゥルメンタル編曲版で)流れた記憶が「あれって、もしや記憶違い!?」と混乱状況に陥ってもしまった。
それを耳にした瞬間があれだけ衝撃的で、まさに「ガーンッ!」とした出来事だったにも関わらず?
むしろ、「えっ!、まさかっ!!」状態だったからこそ、ユメかウツツカ状態に陥って記憶の自信を持てなくなってしまったってとも言える。
(なぜかと言うと、その後の放映などで観た際にはそのようになっていなかったような.....?)
「完全版」を謳っての再公開時の鑑賞は日劇でだったと記憶する。
その時点で、記憶違いなんかじゃ無かった事を改めて確認して安堵したりと、この映画には色々な思いがある。
その後現在に至って、ただただ、興味深く、感慨深く、長い年月を経てやっと、その最終形態(作品の本来の姿)での「観賞できるその瞬間にたどりついた」という喜びに満たされる。
しかし今回、先日の「ドル3部作」の鑑賞を経て、この作品についても久しぶりに劇場での鑑賞で味わいたいものだという思いがつくづく、また湧き上がってくるのであった。
素晴らしい
独りの人生でこれほどの物語を織れるのはまさにアメリカだからという感じがする。一人の人間の人生を描くことがアメリカ近代史そのものなのである。/時間をあちらに行きこちらに行きしながら、心地よくも苦いヒストリーを織り上げることの美しさ。
御伽話というよりマックスとヌードルス
大作、どこかで観たようなエピソードが散りばめられている、が、こちらがオリジナルになるはず。
禁酒法時代の移民が生きたストーリー。
当時の日本はどうだったか?明治から大正にかけてアウトローは闇市、赤線、賭博で稼いだと思うが、それのニューヨーク版か。
見所はどこか、カタルシスは?であるが、男の世界観に尽きる。
歴史、或いはゴッドファーザーのような社会史というほど深いものはなく、どちらかというと友情、奇妙な友情、生き様。カタルシスはそれでも笑うオトコの生き様。
特にデ・ニーロ作品はこのようにハッピエンドというより哀愁漂うかく生きるべし、というのが多いが本作もそれ。
大作なりの見事な作り込みで珠玉の4時間。これはゴッドファーザーなどとも並ぶ愛を注いで良い作品ではある。
あとはやはりジェニファーコネリーか。思春期特有の幼さと大人っぽさが素晴らしい。
では☆4かというと、そーはならないのは、個人的な嗜好の問題。デ・ニーロものとしてある種のパターンにピポットしてしまった。
作品としては4以上。
ヌードルズは誰に狙われたのか?
マックスはその才能を買ってくれた政治家どもにとっての扱いやすい駒として生きることに決めた。恐らくは彼はユダヤ移民で孤児で住所や職業を転々としてきて誰にも詳しく良いことを知られていないので政治家としては利用しやすかった。政治の駒として使うためにはには死んだことにしなければならないし彼の悪行を詳しく知る人間は始末しなければならない。だから仲間と一緒に超無理のある銀行強盗とか決行させてそこで射殺されたことにする・・という政治家たちの書いたシナリオに乗った・・彼の悪行を知る仲間たちは皆殺しにしなければならない。
ヤクザとかギャングってのは自分の周りにいる奴はたとえ仲間でも友達でも全員が未来のカモなのだ。騙して利用したり稼げる時が来たらそうする。友情とか信用とかいうのはそのための伏線に過ぎない。たとえ何年も続いたものであったとしても。・・人を騙した。殺しもした。レイブもしてしまった。友達はカモ・・そんな人生の中に友情や愛情のようなものがあった・・
関係ないけどこの映画を見てプーチン大統領のことを思い出した。プーチンはエリートとしては下っ端の方だった。エリツィン勢力に対抗する奴らがプーチンをうまく担ぎ出して大統領にした。そしてエリツィン勢力をぶっ潰した。・・この話とこの映画のネタがよく似てると思った。
ある年寄りが思う友人とはしゃいだ昔の思い出はどこまでも甘美で懐かしいのだが、もう1人の想いは?
セルジオ・レオーネ 監督による1984年製作のアメリカ映画。原題:Once Upon a Time in America、配給:東宝東和
1回目視聴ではサッパリ理解出来ず。2回目視聴で初めて、とても良い映画と認識できた。とは言え、最後のところは監督が観客に謎かけを仕掛けてきてる様にも感じた。
少年時代、成人時代、老年時代と、時代が順序無関係に混ぜられて描かれる構成が上手く、深い感動に結びつく。こうして昔の少年時代を描かれると、やっていることはチンピラ集団で酷いことや滑稽なことだが、どこかノスタルジックで甘美な思い出に思えてくる。主人公ヌードルスが覗き見をするジェニファー・コネリー演ずる少女デボラの美しさ・可憐さが、その思いに拍車をかける。
そして、ヌードルスから見たマックスのカッコ良さや少し大人びたリーダーシップも印象づけられる。近所のヤラセ娘との初体験もマックス主導で出来た。2人の出会いと友情のきっかけになったのは懐中時計。それがラストシーンにも意味ありげに再登場する。ヌードルスはジェニファー・コネリーとキスをするが、それをマックスは覗き見していたことも本人弁で明かされる。キスが下手とか言うので、マックスの視線はヌードルス側にあった様にも思える。マックスのヌードルスへの気持ちは、友情の次元を超えている様にも思えてしまう。そして、マックスが水中に消えた様に見せてヌードルスを慌てさせるエピソードは、将来の出来事を予言していて見事である。
大人になったロバート・デ・ニーロによるヌードルスは悪い奴だがとても魅力的だ。だが、憧れの女性に対しての行動は不器用と言うか、いただけない。ハリウッドで女優を目指すと言うエリザベス・マクガバン演ずるデボラを車中でレイプしてしまう。年齢を重ねた彼女、死体偽装で過去を消し政治家として力を得た愛人マックス(ジェームズ・ウッズが好演)の力も借りて、長年の夢であった主演女優として成功し、マックスそっくりの息子も得た様であるが、必ずしも幸せそうに見えなかった。それが、厳しい映画界の現実ということだろうか。
ラスト、老年となった2人は再び対峙する。ヌードルスに銃を渡し、撃てと言うマックス。お前の全てを奪ったと言う彼。仲間を見殺しにして、稼いだお金を我が物とし、ヌードルス憧れのデボラを愛人としたマックス。しかし、仲間の墓を立派なものとし、苦労してヌードルスを探し出し大金を与え、パーティに誘い出し、35年の悔恨を話すのもマックス。モリコーネの甘美な主題メロディと共に楽しい懐かしい思い出しかマックスに関して浮かばないヌードルス。殺人依頼を断り、部屋を出て行くヌードルスのデ・ニーロ。大切に持っていた思い出の懐中時計を握りしめるマックスのウッズ。もう一回、ヌードルスへの長年の羨ましさ・憧れ愛憎を噛み締めたのだろうか。
ヌードルスが外に出た際、強力な歯車で物を砕くゴミ収集車が稼働する。その影に消えたマックス類似の人影。異論もある様だが、彼は自殺した様に自分には思えた。そして、その車と入れ替わりにやってくる若者を乗せた車。遠からずの死を見据えていたレオーネ監督自身(次作構想もあった様だが、遺作となってしまった)の世代交代を暗示した様にも思えた。
最後の最後のデ・ニーロの笑顔、大きな謎とされているが、きっと楽しかった若き日のことを思い出しているのだろうと自分は理解。そして、あの笑顔を愛したマックス、即ち監督の分身の想いが込められているのではと。結局、この映画は男同士の長年の友情、否それ以上の羨望や愛憎、それを超えたプラトニック・ラブを描いているという気がしている。レオーネ監督と作曲家モリコーネは小学校の同級生で、監督はモリコーネが他の監督と組むことは邪魔したとのエピソードを知ると、穿ち過ぎかもしれないが、映画の中の2人の関係性と重なるのかもしれないと。
監督セルジオ・レオーネ、製作アーノン・ミルチャン、製作総指揮クラウディオ・マンシーニ、原作ハリー・グレイ、脚本セルジオ・レオーネ 、レオ・ベンベヌーティ 、ピエロ・デ・ベルナルディ 、エンリコ・メディオーリ 、フランコ・アルカッリ 、フランコ・フェリーニ、撮影トニーノ・デリ・コリ、美術カルロ・シーミ、衣装ガブリエラ・ペスクッチ、編集
ニーノ・バラリ、音楽エンニオ・モリコーネ。
出演 ロバート・デ・ニーロ: ヌードルス、ジェームズ・ウッズ:マックス、エリザベス・マクガバン: デボラ、ジョー・ペシ:フランキー、バート・ヤング:ジョー、トリート・ウィリアムズ、チューズデイ・ウェルド:キャロル、ウィリアム・フォーサイス:コックアイ、ジェームズ・ヘイデン: パッツィ、ラリー・ラップ、ダーラン・フリューゲル、ジェニファー・コネリー:デボラ(少女時代)、スコット・ティラー:少年時代のヌードルス、ラスティ・ジェイコブズ: 少年時代のマックス。
ひとりの男の人生
貧しいながらも仲間と逞しく生きるヌードルス、ギャングとして生きるヌードルス、なにもかも失った壮年期のヌードルス…ひとりの男の人生を、哀しみ、憂い、いろんな感情を折り込みながら描いている映画です。
人の欲望、憎悪、嫉妬、愛。綺麗事だけではないリアルさや、不条理さの多い作品なので、そういった類が苦手な方には無理かも。
観終わった後の感想は、なんともいえない気持ち。
人生って幸せも不幸も、いろんなことがある。簡単な言葉になってしまいますが、そう感じる映画です。
観終わった後に考えさせられる、余韻の残る映画。
半端な覚悟で見てはいけない
長尺で見てるのが辛い映画
ロバート・デ・ニーロとジョー・ペシが
好きなので最後まで見たが
時間返せってレベル
そして気付く、色々な解説がされてるが
この映画の伝えたいことは
(この映画見てくれてありがとう)
そして、最後の笑顔なんだと思う
煽りスキル高けー
春の夢の如し
踊るジェニファーコネリーの愛らしさ。天窓のあるこの部屋は聖域。そこが違法酒場と堕とされ、それでも踏み込まれる気配を示さぬ聖女を、勢いに任せて踏みにじる演出。男どもの獣性溢れる世界観。理性や秩序がなく、連帯しなければ生きながらえぬ世界。懐古的でいられるか?それを肯定しえない運転手。窒息しそうで反吐がでる。しかしこの世界しか与えられていない。ゴミ収集車に消え去る男は多くの妥協の末に世を渡ったのだろう。それでも古きものと共に古い者は退場する。狂った世の中で、狂って聖女と戯れたか。
とても贅沢な映画
2023年1月に追記
「モリコーネ 映画に恋した音楽家」を鑑賞して
改めて、モリコーネによるこの映画の音楽の素晴らしさったら!!
主人公が生涯憧れ続けた「デボラ」のテーマ。
なんと美しい〜〜
正直、デボラを演じた女優さんの演技はそこまで
デニーロ演じる主人公の人生を、
狂わせるほどとは思わなかったけど「デボラのテーマ」が
あまりに美しく切ないので、
主人公が人生の中で如何に「デボラ」という存在が
特別だったのか〜
「デボラのテーマ」が彼女の魅力を何十倍にも
盛り上げているように感じます。
素晴らしいテーマ曲でした。
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名前は有名な作品だし、音楽も有名。
パンフルート、アンデスのケーナに似た音色の笛が印象的な曲も
よくギャングもののパロディーに流れたりするよね〜
上映時間も長いので「午前10時の映画祭」でしか観られない作品。
これ映画館で観た!といえば映画好きの中でもちょっと自慢になるでしょう。
(何なんだ!それ〜笑)
冗談はさておき、観ておいて良かった映画です。
確かに一人の男の60数年に及ぶ歴史を語るのだから
このくらいになるよね〜と思っちゃう上映時間。
その分、各時代のロケシーンやセットが半端なく超贅沢!!
凄いです。「アマデウス」に匹敵する画面の圧!
10代のパートのまだ高い建物の少なかったニューヨークの街並みや
中堅ギャングになって経営する秘密BARや、友達の売春宿の調度品。
憧れの人デボラと食事をする高級レストラン〜
凝りに凝りまくってる!
贅沢な映画です。
で、月に8回程映画館に通う中途半端な映画好きとしては
ストーリーに関しては、私が女だからかあまりハマれなかった。
憧れの女性をズッと思い続ける感じとか
仲間=ライバル的な空気感ってやはり男の人の心情なのかな〜〜
10代パートで主人公ヌードルスが憧れのデボラと二人っきりになるシーン。
デボラは思わせぶりに詩を朗読する。
「彼は本当に美しい、でも薄汚いゴキブリの様なままでは愛せない」
デボラは少女ながら、とても野心的。
実家のレストランが大繁盛で人手が足りないから手伝え!と言われても
自分のレッスンを平気で優先させる様な意志の強い女性。
だから、本心は好きだけど、仲間のマックスに呼び出されると
自分よりそちらを優先する主人公ヌードルスを
自分の野心の為にはあまり役に立たない男として切り捨てる。
私はデボラの気持ちの方がよく解る。
でも、男って生涯、憧れの女性を追い続けるのよね〜〜
ある意味、哀れかも〜〜
兎に角、ロバート・デ・ニーロ、やっぱ凄い!
そこになってしまいます。
@もう一度観るなら?
「映画館で一回は観ておいた方がいいでしょうね。」
何度か見ているが2つ勘違いしていた
勘違いしていた点2つ。
1.ロバート・デニーロ主演なので、てっきりイタリア移民の話かと思っていたら、ユダヤ移民の話だった。
2. マックスは最後に自殺したと思っていたが、必ずしも自殺とは断定できない。
彼の死体のシーンがないこと、自殺しようとする人がゴミ収集車の中に飛び込むようなおぞましい死に方を選ぶだろうか。さらに、マックスのような人を欺くような性格の人間だから、自殺したと思わせる事は十分に考えられる(ゴミ収集車の側面に隠れていたとか)。そもそも自殺する設定にするなら単純にピストル自殺のシーンにすれば済むことなのに、わざわざこんなシーンにする必要はなかったであろう。
ただ自殺でなく、ヌードルスに自殺と思わせただけなら、その後マックスはどうしたのであろうか。遠くのどこかに逃げて一人寂しく余生を送るつもりだったのだろうか?
それともあの邸宅から出てきたマックス、ゴミ収集車、その後のパーティー帰り風の一団の乗用車が通過するシーンまではヌードルスの幻か夢だったのか?
それはともかく、この映画をいちばん気に入っている点は、多分他の人とずれていると思うが(多分他の人は2番目か3番目位かな)、音楽とジェニファー・コネリーである。
監督のセルジオ・レオーネはマカロニウェスタンで有名だが、その際の音楽は大体エンニオ・モリコーネだった。気のあったコンビという感じだ。ただこの作品ではマカロニウェスタンでよく使われるトランペットやギターを使わずに、盛り上げてくれた。特に気に入ってるのがニ箇所。 一つ目が、最初のほうの子供の頃のエピソード。仲間の子供が敵にピストルで撃たれて死んでしまうシーン。画面がスローモーションになり、流れる音楽だ。パンフルート(オカリナを侘しくした感じの音色)が実に涙を誘う。 もう一つはレストランでヌードルスがデボラと踊るシーンで流れたアマポーラだ。
ジェニファー・コネリーは、子供の頃のデボラを演じているが、ヌードルスが一目惚れをして好きになってしまうのが納得のいく美しさだった。
何もかもが素晴らしい伝説的名作
アメリカ・イタリア合作のギャング映画。セルジオ・レオーネ監督・脚本作品。音楽:エンニオ・モリコーネ。禁酒法時代にニューヨークのユダヤ人ゲットーで育った二人のギャングの生涯を描いたレオーネの遺作にして代表作である。
ハリー・グレイの自伝的小説に感銘を受けたセルジオ・レオーネが、小説を原作に自ら脚本を執筆した作品である。「続・夕陽のガンマン」を撮り終えた頃から脚本を書き始めていた。しかし、彼に従来のマカロニ・ウェスタンを監督させようとする映画会社の思惑や、小説の映画化権獲得に手間取ったこともあって、製作は遅々として進まず、脚本の草案を脱稿したのが 1981 年、実際に映画が公開されたのが 1984 年と、完成までに 10 年以上もかかった。
カンヌ国際映画祭で先行上映され、そこで高い評価を得るが、アメリカ公開時には製作会社が物語の時系列を整理し、映画の上映時間を大幅に短縮、更にモリコーネの楽曲までカットした改竄版だったため、酷評された。ただし、日本やヨーロッパの一部の国ではオリジナル版がそのまま公開され、高い評価を得ている。アメリカでの不評にはレオーネも深く落胆するが、自身の編集によって3時間49分の完全版を作り上げ、再びアメリカで公開したところ、それまでの不評が打って変わってギャング映画の傑作として捉えられ、レオーネの評価を更に高める結果となった。映画監督のクエンティン・タランティーノなど、本作品のファンであることを公言する著名人は多い。
本作では、往年のハリウッド産ギャング映画にオマージュを捧げつつ、そこでは決して描かれることのなかった裏社会の残酷で醜い現実を赤裸々に暴いている。ヌードルスとマックスの友情は一見すると美しく、時として英雄的ですらあるが、しかし同時に破滅的で破壊的で無秩序で歪んでいる。彼らがまき散らすのは暴力と混沌。挙句の果てに、ヌードルスはマックスとの固い絆の無様な成れの果てを突き付けられる。理想と現実の間に横たわる苦々しいまでの矛盾。そもそも本作の登場人物たちは、彼らを含めて誰もが善と悪の大きな矛盾を抱えている。それは彼らを取り巻く社会も同様だ。
およそ 10 時間にも及ぶフィルム素材を、当初は6時間に編集したというレオーネ監督は、前編と後編に分けて上映するつもりだったらしいが、さすがにそれは無茶だと説得されて短くしたものの、それでもなお4時間近い長尺に仕上がった。一つ一つのシーンが執拗なまでに長く、全体的にセリフよりも沈黙が多い。言葉による説明は極力省かれ、登場人物の表情や行動、場を包む空気などによって心理や状況が伝えられる。確かに暴力描写や性描写は過激であるものの、いずれも瞬発的で簡潔だ。非常に余白の多い映画だが、その余白こそが豊かな情感を生み、名もなきギャングたちの物語を壮大な叙事詩へと昇華させる。失われた過去の時代を細部まで丁寧に再現したセットも素晴らしいし、エンニオ・モリコーネによる切なくも哀しい音楽スコアがまた、見る者の感情を嫌がおうにも掻き立てる。実に贅沢な映画だと言える。
ロバート・デ・ニーロをはじめとする主要キャストは、少年時代から描かれているため、それぞれの子役が必要になったが、よくもまあこれだけ似た子役を見つけてきたものだと感心させられた。少女時代のデボラを演じたのがジェニファー・コネリーである。その神がかり的な美しさときたら筆舌に尽くし難い。まさしく天使とはこの子のことだろうと思わずにはいられなかった。彼女だけは成長後の姿にかなりのギャップがあって残念だった。ジェニファーがあまりにも美しすぎたのが原因だろう。その後、ジェニファーはレオーネの推薦でダリオ・アルジェントの「フェノミナ」(1985)に主演し、スターへの階段を上っていくことになる。
モリコーネがこの映画のために書いた曲は、一つ残らず屈指の名曲である。まず映画の冒頭、ビートルズの「イエスタディ」のアレンジが流れて、時代感を醸し出し、メインテーマ、デボラのテーマ、コックアイ(やぶ睨み)の歌など、他の人には絶対に書けない曲が目白押しである。特にパンフルートを駆使したコックアイの歌の音楽的な独創性は専門家をも唸らせるもので、世界的チェロ奏者のヨー・ヨー・マが作曲者自身に編曲してもらってチェロで演奏して回っている。
また、劇中で流れる「アマポーラ」は、スペイン出身作曲家ジョセフ・ラカールによって書かれたスタンダード・ポップスであるが、モリコーネの手によって美しいストリングスを奏でたり、クラリネットが主旋律を歌ったりいくつかのヴァージョンでアレンジされており、音楽全体にわたって重要な楽曲となっている。特に重厚なストリングスによってゴージャスな舞曲風にアレンジされたものは、モリコーネの手腕を余すところなく伝えており、更には、モリコーネが書き下ろした「デボラのテーマ」と「アマポーラ」が対位法的に一つの楽曲として交錯し、ついにはひとつの楽曲として絡み合うという神業を見せている。
本作品の完成後、レニングラード包囲戦をテーマとした次回作に取りかかろうとした矢先、レオーネは過労による心臓発作で逝去、結果的にこの映画がレオーネの遺作となった。
229 分版にさらに 40 分のシーンを追加した「レストア版」が 2012 年のカンヌ国際映画祭映画祭で公開された。2014 年のニューヨーク国際映画祭ではさらに 22 分のシーンを追加した「エクステンデッド版」が公開されている。
(映像5+脚本5+役者5+音楽5+演出5)×4= 100 点。
いままで見た映画の中で一番好きな映画です
初見は20代でテレビからでしたかね。淀川長治さんがとてもほめていましたね。
レンタルビデオで借りて、DVDをレンタルして。評価やネタバレも読んで。
60歳になって改めて見直しました。所見では恥ずかしながら知らなかったラストシーンが
若かった時の事だったとしり、深いねぇなんて思いながら、こんな人生もありだなってね。
監督、音楽、俳優 すべてが沁みますね。
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