劇場公開日 2024年1月5日

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「ここから新たな映画史は始まった! 1992年のハーヴェイ・カイテルをはしごする、その1」レザボア・ドッグス じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0ここから新たな映画史は始まった! 1992年のハーヴェイ・カイテルをはしごする、その1

2024年1月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

おおお、新宿ピカデリーが満席じゃないか!!!
公開して1カ月くらい経つリヴァイヴァル上映なのに、ちょっとこれ、凄くない???

客席をざっと見ると、7割くらいは若者たちといった印象。
タランティーノが「バリバリ現役」の人気監督であることを痛感する。
きけば、劇場公開は30年ぶりらしい。
そりゃ、観ときたいよね、大画面で。

すでに暗記するくらい観直していて、DVDも持っている映画に敢えて足を運んだのは、単に大スクリーンで観たかったというだけではない。
ちょうど新宿のシネマートでは、アベル・フェラーラの『バッド・ルーテナント』も現在公開中で、この二作、実は「どちらもハーヴェイ・カイテルが主演」で、「どちらも1992年の映画」なのだ。
スコセッシとの共同作業で、初期の代表作に立て続けに出演したあと、『地獄の黙示録』降板劇でハリウッドを追われ、イギリスでリドリー・スコットの映画に出ながら捲土重来を期していたカイテルが、『テルマ・アンド・ルイーズ』(これももうすぐリヴァイヴァル上映がかかるらしいけど)と『バグジー』で復活ののろしをあげたのが、1991年。
1992年は、まさにハーヴェイ・カイテルにとって「勝負の年」だった。

この2本の映画を「一日ではしごする」。
自分でいうのもなんだが「天才的なアイディア」ではないだろうか??
我ながら素晴らしい企画力だ。さすがは俺!
というわけでさっそく行ってきました。
そしたら、まさかの「若者で満席」という状況に出くわして驚倒したという次第。
日本も、ほんとまだ捨てたもんじゃないね!!

― ― ―

パンフレットに書かれている、「すべてはこの映画から始まった」という惹句は、必ずしも誇張ではない。
本当に『レザボア・ドッグス』は、映画史上の分水嶺になる映画なのだ。
『レザボア・ドッグス』以前。
『レザボア・ドッグス』以降。
間違いなく、この映画の登場によって、映画の在り方は大きく変わったし、監督の在り方も大きく変わった。

僕は、タランティーノの登場とは、ハリウッドに遅れてやって来た「ヌーヴェル・ヴァーグ」のようなものだったと思っている。『レザボア・ドッグス』はさながら『勝手にしやがれ』のような役割を果たしたというべきか。
タランティーノの立ち位置というのは、実はトリュフォーやゴダールのそれとよく似ている。
旧来の映画産業のシステム内で叩き上げてきたわけではなく、「シネフィル」「批評家」的なスタンスから、いきなり現場に入ってきた人物であること。
(ゴダールたちにとっての「カイエ・デュ・シネマ」が、タランティーノにとっての「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」だった。)
最初は「脚本」の持ち込みからキャリアをスタートさせ、旧カルチャー内のパトロンと伝手をなんとか見出して監督業に乗り出していること。
従来的な「名画」や「文芸作」だけではなく、当時は取るにたらないと考えられていたB級の娯楽映画に積極的な価値を見出し、それらのエンタメ作への「愛」を原動力に映画に取り組んだこと(ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、サミュエル・フラーのようなアメリカの40~50年代のフィルム・ノワールと、ヒッチコックのサスペンス映画と、ダグラス・サークのようなメロドラマを高く評価した。タランティーノのB級映画愛好は、これとパラレルな部分がある)。

タランティーノの場合、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちといちばん異なっていたのは、実作においても、「娯楽映画」の枠から絶対に外れようとしなかったことだ。
彼は、自らのジャンル映画愛をとにかく前面に押し出して、それらのB級娯楽映画のパロディともいえるジャンル映画を撮り続けて来た。
頭でっかちにならず、常に「観客を喜ばせるエンタメ作」を指向してきた。
クライム・フィクション。ブラックスプロイテーション。マカロニ・ウエスタンと任侠映画。ホラー。戦争映画。ミステリー。ハリウッド内幕もの。
彼の映画は、常に愛するジャンル映画群を「リファイン」したものであり、そこにはバッド・テイストや過剰さの引き起こす笑いが散りばめられている。一方で、結果として生み出された作品は、なんだかんだいって常に「クオリティが高い」。
「頭のべらぼうに良いシネフィルが、全力でくだらないB級映画を撮る」というスタンスそれ自体が、おそらくならタランティーノの発明だったといっていいだろう。
「めちゃくちゃ面白くて完成度の高いB級のジャンル映画」というおそろしく歪んだ代物は、タランティーノ以降生み出された、新たな映画的アプローチだった。
(パンフレットに書かれている、「何度も再生できるヴィデオをメディアとして映画的研鑽を積んだ結果、映画の細部にこだわるようになった最初の世代」という視点もとても重要な指摘だと思う。)

やがて、完成度の高いトリッキーな脚本によって、ジャンル映画をポリッシュしたようなウェルメイドな作品群が、インディー・シーンを中心として続々と製作され始める。
こうした「斬新な映像」に「練りに練った巧緻な脚本(およびサプライズド・エンディング)」を絡めた作品群は、腕ぶす新人監督たちの格好の実験場となり、この流れは世界の隅々にまで広がってゆく。
一方で、タランティーノ以前から「タランティーノ好み」の映画を撮っていた深作欣二や北野武、ウォン・カーウァイらに対しては、積極的にタランティーノの側から「リスペクト」を示し、全米公開の労をとったりもしている。
自作では新たな映画観を呈示し、更新しつづけながらも、新人を積極的に引き立て、過去作品を掘り起こし、「タランティーノ好み」の世界観を拡大し続ける。
彼のやっていることは、江戸時代でいえばまさに「本阿弥光悦」に近いような「実作も超一流の目利き」としての「価値観の再創造」を促してゆく仕事であり、あるいは、モダンホラーにおける「スティーヴン・キング」に匹敵する役回りを示してきたともいえる(キングは「帯推薦」で新人を庇護し、評論において過去作を激賞することで、自らの「傘」の下に多くのホラー作家を従えてきた人だ)。
タランティーノは、1970年代の(当時、評論筋からはバカにされきっていた)大衆向け娯楽映画の再評価と実作への援用によって、「趣味性」と「偏愛」が立派に「作家性」たりうることを証明し、1990年代以降の「映画の在り方を根底から変えて」みせたのだ。

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エルモア・レナードの香りが濃厚な1990年代の初期3作と、より趣味性とドギツいアホネタ度が高まった『キル・ビル』以降(2000年代以降)の作品群には、テイストにそれなりの懸隔があって、個人的には、やはりタランティーノの最高傑作といえば『レザボア・ドッグス』と『パルプ・フィクション』にとどめを刺すと思っている。

アメリカの映画史上、強盗団を主人公にしたフィルム・ノワールは、それこそ星の数ほど作られてきた。しかし、後にも先にも『レザボア・ドッグス』ほどに面白い映画はないし、作られて30年以上が経った今観ても、まったく古びていない。

考えてみると、話のネタ自体は、決して斬新というわけでもない。
強盗団の作戦失敗。疑心暗鬼による自壊劇。
潜入捜査官と犯罪者の駆け引きと友情。
これらの作品内イベントには、多くの人々が指摘する旧作の前例がある。

やはり、今回久しぶりに観直して痛感したのは、なんといってもこの映画は「リズム」が良い。画面の切り替え、役者の演技のメリハリ、音楽のインサート、すべての「間合い」が、絶妙にスタイリッシュで素晴らしいのだ。

それから、リアリティと嘘くささのバランスが絶妙だ。
いかにもそのへんの「輩」がほざいていそうなセリフと、妙にインテリくさい「ライク・ア・ヴァージン論」や「チップ論」の対比。
各キャラの言動に見られる現実感と、フィルム・ノワールに由来する「いかにもな型どおりのギャングしぐさ」の按分。
生っぽいのに、作り物くさい。そこがいい。

もうひとつ、「笑い」と「残酷さ」の兼ね合いが絶妙だ。
たぶん、元ネタとされる『現金に身体を張れ』や『友は風の彼方に』とは一番異なる、タランティーノ独自の「核心」ともいえる部分こそが、この「笑い」の感覚なのではないか。
90年代以降、われわれはこのタランティーノの「笑い」の嗅覚に憧れ、タランティーノが面白いと思うことを自分も面白いと思えるような思考を鍛えることを望み、タランティーノ好みの映画観に寄り添って映画を観ることを強いて来た部分が、間違いなくある。
とくに僕のように、『キネマ旬報』(敵視していたw)や『スクリーン』(バカにしていたw)ではなく、『映画秘宝』をもっぱら愛好してきたような映画ファンの場合、タランティーノの「笑い」への憧れは滅法強かった。
ファックの連呼に笑い、マドセンのダンスに笑い、耳そぎに笑う。
真顔で色名の綽名をつけるジョーに笑い、結局ほとんど出てこないブルーに笑う。
自分を撃った素人のババアを条件反射で容赦なく撃つティム・ロスに笑い、
友と信じた男の裏切りに男梅のように男泣きする男カイテルに笑う。

タランティーノが面白がっている「細部」に共鳴できるか、自分もそれを面白がれるくらいの「マニア性」や「B級映画愛」があるかをはかられている、タランティーノ体験には、なんとなくそんな「試されている」ようなところがある。肩を組んできたタランティーノに「どうだい、イカすだろ??」とささやきかけられているような。

で、「リズム」が良くて、リアリティ・バランスが良くて、「笑い」と「残酷」さの按分が良くて、というのは結局のところ、タランティーノの「センス」が良い、という話に尽きるわけで、誰にでも似たような話は作れても、誰ひとりとして同じ出来の映画を真似することはできないという結論になる。
実際、どこか初々しい生硬さがあちこちに残っている『レザボア・ドッグス』のほうが、作品の純度の高さは『パルプ・フィクション』より上な気もするし、タランティーノ自身、その後も『レザボア・ドッグス』ほどに「鮮烈」な印象を与える映画は作れていない。
タランティーノにとっても、『レザボア・ドッグス』は唯一無二の作品なのだ。

この映画の特別さを語る上では、本作を足掛かりに「さらなる高み」を目指していた(ハーヴェイ・カイテルも含めた)出演俳優たちのギラギラした大熱演ぶりも、大きな役割を果たしていると思う(とくにスティーヴ・ブシェミとマイケル・マドセンはほんとに良い)。一方で、ブルー役に敬愛する元犯罪者エディ・バンカーを出演させるあたり、やっていることがゴダールと本当によく似ている。

ハーヴェイ・カイテルは、スコセッシ仕込みということもあるのか、演技プランや台詞の繰り返しを多用するクセにデ・ニーロの影を感じないでもないが、スターらしい風格で映画をぐっと引き締めている。彼がいるといないとではまるで違う映画になっていただろう。特にラストシーンは、実は意外に説得力を持たせるのが難しい展開だと思うのだが、カイテルの力業で無理やり押し切った感があって、さすがとしかいいようがない。

個人的には、ガソリンの充満した倉庫で撃ち合いなどしでかしたら、そんなことではすまないだろう、と思うところもあるし、タランティーノ演じるブラウンの死は、もう少しきっちり描いたほうが良かったのではとも思う(初見時、僕はこれって『そして誰もいなくなった』ネタか!と思って、てっきり最後に生き残ったタランティーノがダイヤをかっさらっていくオチかとばかり思って観ていたので、ラストで微妙にがっかりした記憶があるw)

でもまあ、今回観直してみて、やっぱり思いました。
これを超える映画ってのは、そうそう今後も出てこないし、
自分の青春時代にこの映画に出逢えてよかったなと。

みなさん、まだ劇場でやってる間にぜひ大スクリーンでご堪能ください!
あと、パンフレットはマストバイ。この映画をしゃぶりつくすために必要な解説とトリビアのすべてがぎっしり詰まった、超お手頃ガイドとなっていて、マジで素晴らしいです。

じゃい