冷血のレビュー・感想・評価
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“彼らはたまたまそこにいただけ”と済まされては…
アメリカ文学と映画の関連についての書籍で
この作品が採り上げられており、
原作も、と思いつつも未読だった中、
やはり未鑑賞だったカポーティ原作の
映画化作品を先に初鑑賞することになった。
この映画、作品の中での言葉を借りると、
“相乗作用の犯罪、
2人が融合した第三の人格が犯した犯罪”
と分析される凄惨な事件が
淡々と重苦しく展開した。
私には、“サッコ=ヴァンゼッティ事件を描いた
「死刑台のメロディ」が思い出され、
無罪で処刑された2人が、
この作品での2人と同じ絞首台への経験を
したのかと思うと胸が痛くなった。
死刑制度そのものの是非については、
最終版での記者の遣り取りでも語られるが、
少なくとも政治的な思惑や
事実に基づかない処断は絶対に避けなければ
ならない等の想いが複雑に交錯した。
それにしても、犯人の一人の
“彼らはたまたまそこにいただけ”との台詞
には愕然とされられる。
ロシアによるウクライナ侵攻当初の
ブチャでの虐殺やガザ地区での犠牲が
“住民がただそこに居ただけだ”と済まされては
とても納得出来るものではない。
この作品のリチャード・ブルックス監督
については、
「熱いトタン屋根の猫」
「エルマー・ガントリー」
「プロフェッショナル」
等を観てきていたのだが、
各作品に共通する彼の作風が何なのかを
感じられない完成度が、
これらの作品が“ブルックス映画”との認識が
無いままに観てきていた原因だったかも
知れない。
しかし、この作品は、
カポーティの原作の力なのかは分からないが、私にとっては一番見応えのある
ブルックス作品となった。
さて、この作品はカポーティが
“ノンフィクション・ノヴェル”と銘打った
こともあり、彼は登場しないが、
一方で、フィリップ・シーモア・ホフマンが
カポーティ役として登場して、
アカデミー主演男優賞を獲得した
映画「カポーティ」があり、
この作品との比較が楽しみになってきた。
何故カインはアベルを殺した?殺しは殺し。末路は死刑です。
音楽がチャールス・ミンガスのピテカントロプス(直立猿人)みたいだと思ったら、クィンシー・ジョーンズだった。やっぱりね。
『絞首刑は復讐だ。復讐の何が悪い。俺も復讐してきた。だから、死刑に賛成さ。殺されるのが俺でなければ』
原作を読んでこの映画を見た。ほぼ原作通りだと思う。事件は1959年だが、死刑執行は1965年で、映画は1968年。朝鮮戦争の話が出てくるが『反ベトナム戦争運動との関わり』はあったのかと考察する。
DVを冷血漢になった理由にしている。それは『DNAの解釈』から現代では一般視されている。しかし、原作が1965年だと考えるとかなり進んだ解釈だと思う。
さて、映画は被害者側の状況を一切語らず、全編、加害者の言い訳に徹している。その点が、原作からの脚色が無く、大変に共感を得た。
また、映像面で、ペリーが神父に父親との関係を話す時、街灯が雨だれを通して、犯人の顔にプロジェクションマッピングの様に光が流れ、まるで泣いているような演出を施していた。
これこそアメリカン・ニューシネマだと思うのだが。
さて『ティファニーで朝食を』の作者には思えない原作者だが、『ティファニー』のホリー・ゴライトリーは、この『ペリーとディック』と真逆の立場で、自由そのものの女性だ。つまり、この二人は、カポーティに取って、社会に拘束された『男』じゃないのかと思った。
村上春樹さんの『1Q84』と『アンダーグラウンド』はカポーティの二作をリスペクトしていると感じた。
原作もこの映画も傑作だと思った。
重い
犯行シーンを終盤まで見せない手法はうまいと思った。
前半は個性的なキャラクターの犯人二人に悪いやつなんだけど感情移入してしまう。
瓶拾いのシーンはロードムービー風でかなり明るい気持ちで観れる。
しかし、終盤回想として犯行シーンが出てくるが、ここでは完全に被害者に感情移入してしまう。
何の非もないのに惨殺されてしまう被害者家族。最後まで「娘は傷つけないでくれ」「母さんは病気なの」と家族を心配する。
そして死刑執行。刑務所のシーンでナレーションが入るが、あのナレーションはいらないと思う。
キューブリックの「突撃」の死刑執行シーンと似た重苦しい雰囲気が出ていて良かった。
重厚なサスペンス、伏線回収、そして美しい映像で最後まで魅せられる、やや雰囲気は重いが、必見の傑作映画である。
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