劇場公開日 1982年12月18日

「心の中の差別が人との不幸を呼ぶ、争いの無い社会を待ち望む」ランボー Ryuu topiann(リュウとぴあん)さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0心の中の差別が人との不幸を呼ぶ、争いの無い社会を待ち望む

2012年6月14日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

悲しい

「ランボー」の公開当時、私は未だ学生で、シルヴェスター・スタローンが演じるジョン・ランボーが何故、警官隊達とあれ程までに激しい戦闘戦を繰り広げる事になってしまったのか?その経緯が今一つ判然としないままに、単なるアクション映画の1つと言う位でしかこの映画を観ていなかったし、グリーンヴェレーと警察官との闘いが起こる事は、単なる縄張り争い位にしか考えていなかったが、昨年家の近隣の単館系の映画館で公開していて見損なってしまっていた「リトル・ランボー」を観たかったので、DVDレンタルし、それと併せて、ついでに30年振りで、本家の作品であるテッド・コッチェフ監督の「ランボー」も観てみる事にした。すると今回この映画が何故生れたのか、その経緯がやっと理解出来たのだった。
ランボーは、ヴェトナム戦争帰還兵で、彼らヴェトナム帰還兵士達が、数年振りにいざ、戦地から本国へ帰還してみると、彼らを待ち構えていたのは、彼らの出兵前とは、完全に180度変化してしまった、アメリカ社会の冷たい目が広がっていたのだ。当時のアメリカでは反戦運動が広がり、アメリカ社会全体を動かすまでに反戦の世論は高まっていたために帰還兵である彼らを人殺し呼ばわりする辛辣な批判の嵐ばかりが、本国ではあったのだ。
出兵した兵士達は自分達が戦地へと赴く前と、帰還後の現在の彼らに対する社会の目が全く対局するその現象に戸惑い、極限まで追い詰められ、苦悩した戦地での、恐怖体験のフラッシュバックとの戦いが、自分の心の内面では起こっているのと併せて、2重3重の苦しみを帰国後も彼ら帰還兵達は、体験させられる事となるのだが、その帰還兵の象徴として
グリーベレーだったジョン・ランボーの物語は生れたと言う訳なのだ。
国の要請で、戦地に赴く事になった兵士達が、いざ帰国すると彼らを批判する声ばかりに社会が反転していたと言うのは、余りにも不運で、皮肉な社会現象である。
勿論戦争を始めてしまう社会、国家に問題が有るのであり、そこで出兵した、兵士達に戦争責任がある訳では無いのだ。
戦争を仕掛けられたヴェトナム側からアメリカ兵士達を眺めるなら、自国に侵略して来た憎い敵兵でしかその存在は値しないので、ヴェトナム兵は、どんな手を使ってでも、彼らの侵攻をくい止めるべく、死闘を繰り広げる。そしてアメリカ兵達は惨敗する。
しかしヴェトナム国民も、アメリカ政府が行った化学兵器による、国土の広範囲に及ぶ化学兵器汚染とその後遺症が、今もヴェトナムの国民の生活を苦しめている。
日本人坂田雅子監督による「花はどこへいった」(2007年シグロ制作)をみてみると、ヴェトナムに於けるその戦争被害の詳細がよく理解出来る。
2年程前の夏に「ウインターソルジャー」と言うアメリカ人ヴェトナム帰還兵による戦地での模様を語った証言集が20数年の時を経て公開された。私はこの映画を2005年にアメリカで観たが、イラク戦争に苦悩するアメリカ社会で反戦の声が高まってきた事で、製作から20年以上の時を経て、やっと公開された映画である。しかしそれもメジャー上映ではなく大学などに於いて自主上映されていたのだ。必ず世界の何処かの国で戦争は繰り返されていて戦争の無い時代は皆無だが、一日でも早く平和な世界の来る事を願うのみである。

ryuu topiann