「映画を殺さないで」シュワルツェネッガー ラスト・アクション・ヒーロー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
映画を殺さないで
映画少年のダニーはひょんなことから自分の大好きな映画シリーズの最新作『ジャック・スレイター4』の中に入り込んでしまう。
映画の中でシュワルツェネッガー演じるジャック刑事と邂逅を果たしたダニーは、この先襲いかかってくるであろう脅威について彼に忠告を与えるが、ジャック刑事はダニーの言葉に耳を貸そうとしない。
それもそのはずだ。ダニーは「映画だとこの後〜」とか「第2作目だと確か〜」といった具合に、映画の外側の視点からものを言っている。そこに悪意はなくとも、ここでダニーがジャック刑事の人生を、リアルに従属する形で存在するフィクションと規定していることは明白だ。
けれども映画の内側の存在であるジャック刑事にとっては『ジャック・スレイター』の物語こそが唯一無二のリアリティに他ならない。したがってそれを「これは映画だ!」などとしきりに指摘してくるダニーのことを快く思わないのもむろん当然のことだ。
しかし物語の後半、ジャックはダニーの言葉を信じざるを得ない窮地に追いやられる。悪党を追っていた2人は悪党の家の壁に不思議な裂け目があるのを発見し、そこに飛び込む。2人を待ち受けていたのは現実の世界だった。
ジャックは自分を演じているアーノルド・シュワルツェネッガーの映画ポスターを見て、いよいよ自分の存在がフィクションの中の虚像であることを理解する。このあたりはウディ・アレン『カイロの紫のバラ』を彷彿とさせる。しかしそれでも彼は悪党を倒すという当初の目的を果たそうと奮起する。それこそが「映画の中のヒーロー」である彼の存在意義なのだから。
そのころ悪党は現実とフィクションを自由に往還する術を身につけてしまっており、『ジャック・スレイター3』に登場する切り裂き魔・リッパーを現実世界に召喚していた。
リッパーは『ジャック・スレイター3』でジャックの子供を人質に取り、小学校に立て篭もった。ジャックは単身で小学校に乗り込み、攻防の末にリッパーを銃弾で倒すが、彼は最後の悪あがきとしてジャックの子供を道連れにした。
再び蘇ったリッパーと対峙するジャック。しかしリッパーはダニーを人質に取っていた。「まるであの日のようだな」とリッパーは下衆な笑みを浮かべる。
リッパーは「あの日」の二の舞にならないよう、人質のダニーをビルの下に投げ捨てる。怒ったジャックはリッパーを再び倒す。しかしビルの下から「ジャック!」と叫ぶ声が。ダニーは生きていた。
ビルに引っかかったジャックを助けようとしながら、ジャックは天に向かって思い切り叫ぶ。
「神様!ダニーを殺さないで!」
これは映画の外側の存在、つまり我々に対する痛切な哀願だ。
映画内存在であるジャックは常に、我々の欲望に沿って悪党を懲らしめてきた。我々の欲望に沿ってピンチに陥ってきた。我々の欲望に沿って最後まで生き延びてきた。
さて、それでは『ジャック・スレイター3』で彼の子供を殺したのは誰か?切り裂き魔のリッパー?それとも運命のいたずら?
いや違う。我々だ。我々の欲望が彼から子供を奪い去ったのだ。
映画を見るという行為は受動的なものではない。我々の感性の総体が世論を生み出し、それによってフィクションの歩むべき物語の進路に分岐が生まれたり消えたりする。
「彼の子供が死ぬ」という悲劇によって感傷やカタルシスを得たのは我々だ。そのためだけに彼の子供は死んだ。殺された。それならば一番の悪党は我々ではないか。
「見る」という動詞の受動的な属性は、時として我々「映画を見る者」からフィクションに対する責任意識を消し去ってしまう。あるいはフィクションを単に現実という本流に従属する傍流であるという軽率な認識を強化してしまう。
ダニーだってもともとその一人だ。彼がジャックの生きる「現実」を残酷にも「それは映画だ」と言い切ったのも、フィクションが常に現実によって形成される副次的なものであると彼が思っていたからだろう。
しかし「フィクションは現実に包摂される」という認識は、フィクションそのものを安易な人形遊びへと貶めかねない。
フィクションの全てが現実の欲望に向けて捏ね上げられ、書き加えられ、削り取られるとするならば、そこにはもはや生き生きとした生の躍動といったものは存在せず、単なる快楽物質としてのカタルシスがオブジェクト的に散在するばかりだろう。それはまさにフィクションの死だ。
もしあなたがフィクションによって現実が1ミリたりとも動かされたことはない、と断言できる人間であるならば、彼の哀願に耳を傾ける必要はない。フィクションなしで生きていくことのできる人間だってもちろんいる。
しかしほんの少しでも、フィクションによって、映画によって救われたり突き落とされたりしたことがあるならば、彼の言葉の意味をもっと深く考えるべきだ。
別に大きな転換がなくたっていい。たとえば『アニー・ホール』を見てラルフ・ローレンのシャツを買ったとか、『仁義なき戦い』を見てちょっとだけ広島弁に興味を持っただとか、そういう些細なことでもいい。一度でもそんな経験があるならば、彼の言葉にもう一度よく耳を傾けてほしい。
「神様!ダニーを殺さないで!」
映画の中の爆弾や悪党や切り裂き魔が現実に出てくることは、現実的に考えれば決してあり得ない。たとえ4D映画でも観客が本当に死ぬことはない。
しかしひょっとしたらそんなことが起きるかもしれない、と常に想像力をはたらかせることが重要なのだ。そしてそうすることによってのみ、フィクションはこの先も生き長らえていくことができるはずだ。
〜以下余談〜
モノクロのハンフリー・ボガートが合成で出てきたシーンを見て山田洋次『虹をつかむ男』のラストシーンを思い出した。『虹をつかむ男』も「映画にまつわる映画」だったから、たぶん本作のオマージュなのかなと思った。
膨大な引用数を誇るスピルバーグ『レディー・プレイヤー1』の中には本作も登場するが、オマージュ映画のバトンタッチを目撃したようで感慨深かった。タランティーノみたいなスノッブでハイブロウな引用も好きだけど、こういうただひたすら映画が好きな人によるストレートな引用の嵐も気持ちがいい。