欲望の翼のレビュー・感想・評価
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香港映画の“熱気”が伝わってくる奇跡的な傑作
この映画の登場は衝撃的だった。それまで見ていた香港映画のイメージを覆し、新しい感性を持った才能が現れ、新世代の香港映画の誕生を世界に知らしめたのだ。そして、俳優たちの美しさを永遠にフィルムに焼き付けた作品としても語り継がれるべき傑作である。
「今夜、夢で会おう」「1960年4月16日、3時1分前、君は僕といた。この1分を忘れない」こんなキザなセリフから始まる本作は、デビュー作「いますぐ抱きしめたい」(1988)に続くウォン・カーウァイ監督の長編第2作。1960年代の香港を舞台に、若者たちが織り成す恋愛模様を描いた青春群像劇だ。レスリー・チャン、マギー・チャン、カリーナ・ラウ、アンディ・ラウ、ジャッキー・チュン、そしてトニー・レオンという当時の香港映画界を代表するトップスター6人が競演し、「あの時にしか生まれ得なかった」と言われるほどの奇跡的な映画である。
冒頭、タイトルとともに熱帯雨林がゆっくりと映し出され、じっとりとした高温多湿な雰囲気が作品全体を覆う。脚本も手がけたカーウァイ監督は、時間や数字へのこだわりをみせ、文学的なセリフと構成、モノローグを多用した語り口が特徴だ。さらに撮影監督クリストファー・ドイルのスタイリッシュな映像美とカメラワーク、ウィリアム・チャンの美術、そして印象的なラテン音楽が融合し、カンフー映画やノワール映画では見たことのない、独特なスタイルを提示。映画からはその“熱気”が伝わってくる。
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 『欲望の翼』という邦題も悪くないけれど、原題の『阿飛正傳』(フェイちゃんの物語)の方が内容からしてピンとくるし本作への理解が深まった。
①その斬新で美しい映像にぶっ飛んだ『ブエノスアイレス』、斬新なカメラワークと語り口の妙に魅せられた『恋する惑星』に比べ、映画としておとなしい印象を受けましたが、ウォン・カーウァイ監督の長編2作目ということを知って納得。
②一言で言い表すと、自分が貰われ子だと知ってから育ての母との関係も上手く行かず、人生への不満を女性たちとの関係で憂さばらししている1960年代の香港のお坊ちゃんのお話です。
③彼を中心にした若い男女のすれ違う愛憎模様が描かれるわけですが、そこはワン・カーウァイ監督、凝った構成と語り口、カメラワークでただの若者愛憎群像劇にはしていません。
④経済的には問題がないのに(から?)自堕落な生活を送るレスリー・チャン。
男としてはその生活ぶりには共感出来ないキャラクターながら、女性には容姿も併せ魅力的なようで、お堅いマギー・チャンの一度好きになってしまったら忘れようにも忘れられないヒリヒリするような未練の感情表現。
どうしてそこまで執着するのか分からないほどカリーナ・ラウの激しい愛憎表現。
⑤マギー・チャンのエピソードで一瞬だけ顔を会わせたアンディ・ラウとフィリピンで再会し同行することになるという件は少しあざといと言うか出来すぎの感はしました。
次作の『恋する惑星』では同じ様なシチュエーションを扱いながら全くあざとさを感じなかったのは、それだけウォン監督の演出力が上がったお陰でしょう。
⑥若者群像の陰で描かれるレスリー・チャンの義母の金で若い男を繋がずには生きていけない中年女の悲哀も忘れ難い。
1960年代香港へのレクイエム
母さんと二人でとても幸せだったのに!
ある日、母親が、自分はお金をもらって主人公を養育していたのであって、本当の母親は言えないが別にいると言われて主人公は傷つき、生活は荒れる。普通は働いて自活する年頃だが、彼にとってはそれからが反抗期だったような。
町で軽く声をかけた女性を家に入れて同棲するが、心の中は荒んでいる。育ての母は自分を香港に残してアメリカに移住する。本当の母親に会いたいと治安の悪いフィリピンに行くも育ての母の言った通り、実の母親には会えず、トラブルに遭ってしまう。
彼を愛してくれる女性達はいたのに、脚のない鳥(極楽鳥)のように、死んでしまうまでどこにもその翼を休めることはなかった。最期に、自分は飛ぶ前に死んでたんだ、と呟いて逝ったのが哀感を誘った。
主人公が香港そのものに思えなくもない…。
見る者の想像をかきたてる、詩のような作品。
レスリー・チャンはこの役にハマっていた。
雨音とレスリー・チャン
何度目かな。10年ぶりくらいに鑑賞。
ただただなつかしい。
若かりしトップ俳優たちの表情と体温、
色彩とムードに押し切られ
雨の匂いに包まれる。
この映画は未完らしく
とても妙な部屋にいるトニーレオンのシーンで終わるのだけれど
この唐突さが物語全体を軽やかにもしている。
そして
レスリー・チャンのしなやかで儚すぎる佇まいに涙。
マンダリンオリエンタルの窓から飛び立ってしまったことが
いまだ残念でならない。
ウォンカーワイグリーンの世界
赤や、青のイメージの映画もあるが、この映画はウォンカーワイグリーンの世界。
心の中のウエットな部分が、じとっとした、森林の緑と溶け込んでゆく。
時計を拭く、床も拭く、香港での生活は現実的だ。
鳥に脚は無いが、欲望の翼は付いている。
地に足を付けた生活ができない脚のない鳥にも欲望の翼だけは付いていた。
この鳥が主人公を象徴している。
人は本当は地に足を付けた暮らしをして、望まれる場所で生きた方が幸せだ。望んでくれる女は育ての母を含めれば3人もいるのだから。
しかし欲望の翼は、望まれてもいない産みの母を探しに飛び立ってしまう。
まるで飛び立つ先は楽園であるかのような欲望を抱き嫌気のさした香港を捨てて。
美しい産みの母のなんと残酷なことか。
愛してあげてそこで着地させてあげて欲しかった。そこに楽園はなく、翼を翻すしかない悲しさ。
自分も産みの母に顔を見せてやらないと負け惜しみのひとつも言って後は、自暴自棄になるしか道はなく金もパスポートも失い…
列車が次の駅に到着するまで時間は12時間もたっぷりあったのだ。
報復に合って撃たれるのに1分もかからなかった。
一生に1度しか着地出来ない脚の無い鳥は生きていればやりたかったことに思いを馳せてスーとの1分の時間を思い出しながら着地し命を終える。
最期を見届けてくれた船乗りに感謝。
警官をしていたことも船乗りになった事も不思議な縁だ。
行動力のあるミミがせっかくやってきたのに、列車は走り去る。
他の鳥たちは脚が付いているので、やり直せるさ。着地してまた飛べばいい。
個人的には勝気でチャーミングなミミにも清楚な待つ女スーにも、幸せになってもらいたい。
望まれる場所は2人ともそれぞれある。
愛してくれる男の元で望まれて生きて欲しい。
最後のくわえタバコのトニーレオンの身支度は、客船の中だろうか。
船は香港に到着したようだ。
船乗りも一旦船を降りてサッカーを観にいってスーと再会してほしい。
ミミもいつか車を売って空に飛ばせてくれた男を思い出して香港に戻って来て欲しい。
2020年になって、久しぶりに観た。悲しい鳥に思いを馳せて。
もう、レスリーチャンもこの世にはいない。
香港もこの頃と随分変わってしまっただろう。
この映画を初めて観た頃に比べると、自分の残りの人生もだいぶ少なくなってきた。
1分が2分になり2分が1時間になるような最初の1分の時を大切にしようと思う。
もー、またラスト意味不明やーん。
ラストのワンシーンだけお出かけ前のおめかしをしてるトニーレオンは一体なんの意味があんの???何役⁉︎
わっからんわー。
気になりすぎてネタバレサイトを漁ったところ、続編の構想があったための引きシーンだとか。
ずっといつになったらあたしのかわいいトニーレオンは出るんかいなー?おもてたらいつまでたっても出やへんし、ついにでたって思ったらなんのこっちゃねんやで?もー。
タイトルの「また」は花様年華の感想にかかっています。
と。言いつつだいたいは楽しくみました。
若いマギーチャン、レスリーチャンはかわいいし、映像がおしゃれやし。鏡越しの映像とか音楽の使い方とかにウォンカーウァイみを感じました。
そんなに生母が誰かにこだわる意味は分からんし、ヨディの良さは全然わからんけども。
ぜったい警官の彼のがいいのにって思うけど。
皆片思いなんやなーて思いました。
ミミ役の人はトニーレオンの妻だってことを見終わってから知りました。
そしてレスリーチャンが、故人であることも…
デジタルリマスター版を映画館で鑑賞。
雰囲気で押し切る佳作
緑がかったというか、青みがかった映像がなんとも印象に残ります。終始薄暗いため映像美という感じではないと思いましたが、雰囲気がめちゃめちゃあります。なぜ、あれほどの湿度が伝わってくるのか。雨の音も妙に魅力的。カメラのカットもすべからく美しいです。BGMも完璧。映像・音楽・カメラワークと非の打ち所がない印象です。さすがはウォン・カーウァイ。
これだけ映画的にムードを作り出せてしまうと、ストーリーがイマイチでも持って行ける力があるな、と感じます。
つまり、そこそこ面白かったのですがストーリーは好みではなかったです。なんかキャラ頼みって感じでありながら、キャラを好きになれなかった。
母親に捨てられ、愛を知らず彷徨って生きざるを得ないヨディが、彷徨い死んでいく姿を見守る話で、変化もなく救いもなかったです。ヨディの悲しみに共感したり萌えたりすれば一気に名作として捉えることが可能でしょうが、個人的にはフーンって感じで終わってしまった。正直、悲しみは伝わって来たのですが、だからなんだ、って感じでした。暴力的でウザいヨディにどこかムカついていたのだと思います。異性ではないのでキザな台詞にも特に思うことはないですし。
警官役がカッコいい、売り子のスーが綺麗と感じたため、この2人の切ないやり取りは割と好きでした。
あと、1990年の映画を現在から観た未来人的立場から考えると、本作は香港の中国への返還直前の不安とか焦りみたいな空気が反映されているのかもしれないな、と感じました。アメリカンニューシネマ的救いのなさは、数年後は共産圏になっちまうのか〜という諦念みたいなものが背後に潜んでいるのかもしれません。
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