劇場公開日 2023年8月18日

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「娼婦はいない」ママと娼婦 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5娼婦はいない

2023年8月23日
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久々に大作らしい大作を目の当たりにした気がする。鑑賞後の素朴な所感としては濱口竜介の『ハッピーアワー』や『親密さ』に近いだろうか。しかし濱口のそれらに比べると映画的外連味が強い。

浮気性の男を中心に描き出される奇妙な三角関係はすべてのレイヤーが同時空に重ね合わせられており、「浮気がいつバレるか」という定型的なサスペンスとはほとんど無縁といっていい。浮気男(アレクサンドル)の愛人(マリー)は彼の恋人(ヴェロニカ)を知っているし、彼の恋人もまた彼の愛人を知っている。愛人の部屋は重要な舞台の一つだが、ビリー・ワイルダー『アパートの鍵貸します』のように危うい関係の者同士が踵を接して入れ替わるような恋愛ドラマは起きず、常に片方の痕跡が、あるいはその当人がそこにいて、もう片方と出くわしてしまう。

こうなってくるとジャン・ピエール・レオ演じるアレクサンドルを単なる浮気男と形容するのも間違いであるような気がしてくる。マリーとヴェロニカが痛罵したように、彼は良くも悪くも恋愛に対して純粋すぎる。おそらく彼が強く信奉していたであろう映画や文学や哲学は、五月革命というピリオドを境にどこか腑抜けたようになってしまったのだろう。カフェでサルトルを腐すシーンが端的にそれを示している。そしてその虚脱感を埋めるように彼は強く女を求める。

実際の行動はどうあれ、アレクサンドルの女性に対する態度には誠実さとまでは言わずともひたすらな愚直さが感じられる。しかもその愚直さが単純な女好きあるいは性欲に由来するのではなく、実のところ女なんか抱いても何の意味もないのだという決定的な直感からの意識的ないし無意識的な逃避に由来しているあたりがかえって純粋さを増している。彼にはもう、恋愛を信じること以外にマジで救済の道がないのだ。

彼の切迫した心理状態を、ヴェロニカは誰とでも寝る女(=娼婦)としての半ば自虐的な包容力でもって受け入れるものの、アレクサンドルやマリーとの歪んだ三角関係に揉まれるうちに少しずつ尊厳を取り戻していく。終盤の10分にもわたる彼女の独白シーンには鬼気迫るものがある。全体を通して古典的モンタージュに倣った斜めのショットが多い作品だからこそ、ここで真正面から見据えられたヴェロニカの存在はひときわ際立っている。

娼婦なんてものはいない、誰とでも交わせる愛は本物じゃない、子供を作る性行為だけが本物の愛なのだと主張するヴェロニカと、それにじっと耳を澄ますアレクサンドルとマリー。曖昧な三角関係は終わりを告げ、アレクサンドルは切羽詰まったようにヴェロニカに結婚を迫る。一方であれだけ彼にゾッコンだったはずのヴェロニカは憑き物が落ちたように超然としている。

いつまでも恋愛を自己実現の肥やしと錯覚しているアレクサンドルと、数多の痛みを経て恋愛の中に他者を発見したヴェロニカでは互いに釣り合うはずもなく、二人の痛々しいくらいちぐはぐな関係は冒頭にて繰り広げられたアレクサンドルとその元恋人との悲惨な恋物語に重なり合う。アレクサンドルが不毛な堂々巡りの円環に囚われていることは自明だ。そしてほどなく、ヴェロニカだけがそこから颯爽と抜け出していくことも。

因果