真昼の決闘のレビュー・感想・評価
全34件中、1~20件目を表示
愛する二人が黙って町を立去るラストシーンに…
「地上より永遠に」
「わが命つきるとも」
「ジャッカルの日」
「ジュリア」
など、たくさんの作品で魅了してくれた
フレッド・ジンネマン監督の作品がTV放映
されたので久々に観てみた。
この作品は“リアルタイム劇”として有名な
作品だが、そのリアルタイム性を
あまり意識することは無かったものの、
刻々と迫る正午(ハイヌーン)への
緊迫感を醸し出す装置として
機能していたようには感じた。
そもそもが、このストーリーは
現代では考えられない内容だ。
犯罪者が釈放後に仲間とつるんで
警察官に復讐にやって来るなんて、
行政側としてはたまったものではない。
当時の方々への同情を禁じ得ないし、
そんな時代に生きてはいないことに
感謝しかない。
それにしても、愛する二人が、
町の人々への不信感を持ったまま、黙って
町を立去るラストシーンは辛いものがある。
誰か一人でも
あと少しの勇気を振り絞っていれば、
全く別の展開になったはずの場面が
数多くあったことには、
自分も町の一人では、との想像にも繋がり、
現代にも通じる貴重な示唆に感じた。
保安官バッジよりも大切なもの
孤立無援の保安官と、復讐のために舞い戻った悪党一味との対決をリアルな時間経過を軸にスリリングに描く、古典的西部劇のマスターピース。
日本で西部劇映画について語る場合、まずハリウッド(アメリカ)製西部劇とマカロニ・ウエスタンとに区分したたうえで、前者を「本場」「正統派」と称える一方、後者を「まがい物」「インチキ」と貶めることが多い。
だが、「正統派」の本場ハリウッドの西部劇もまた、大きく二つに分類することができる(と思う。あくまで個人的見解)。
ひとつは「インディアン・シューティング・ムービー」と、もう一つは「それ以外」。
本作は後者に属する代表的な作品で、『シェーン』(1953)や『大いなる西部』(1958)と同様、白人同士の間にも深刻な対立が存在する(あるいは、簡単に対立が生じる)ことを主題にした、当時としては異色かつ画期的な西部劇映画。
主人公のウィル・ケインは、キリスト教フレンド派の若妻エイミーとの結婚を機に、引退を決意する老保安官(劇中の彼は「マーシャル」と呼ばれ、事務所にもMARSHALの表記があることから、連邦保安官だということが分かる。地元住民の判断で雇用できるシェリフ〈sheriff〉と違い、州の任命が必要なので、若い助手が「俺が次の保安官になりたかったのに」とゴネてるのは、マジでガキっぽいわがまま)。
仲間に祝福されて結婚式を終えたばかりの彼のもとに、五年前に自分が逮捕し監獄送りにした極悪人フランクが正午の列車で街に戻るとの報せが。
かつての悪党仲間と合流し、保安官に復讐することが目的だった。
時刻は午前10時40分。ここから映画は実際の時間とほぼ同じ流れで推移し、観る側も主人公の焦燥や苦悩、町民の無策・無力をリアルな感覚で目撃することになる。
当初は仲間に促されて一旦は新妻とともに町を離れるものの、意を決して戻ってきたケイン。
妻の哀願をよそに、フランク一味を迎え撃つべく、ふたたびバッジを胸に自警団を募るが、ケインの期待に反してある者は臆病風に吹かれ、ある者は撃ち合いになって町の評判を損ねることを危惧し、また、ある者は高齢を理由に、そして助力を約束した筈の最後のひとりも勝ち目がないと悟るや、家族を理由に彼に背を向ける。
孤立無援のなか、無頼漢4人を相手に闘う羽目になり、恐怖と焦燥感に苛まれるケイン。
だが、無情にも時間は刻一刻と過ぎていく。
そして正午。駅にはフランクを乗せた列車が、予定どおり到着し─。
『真昼の決闘』が製作された1952年当時、ハリウッドでは赤狩りの猛威が席捲していた。
そのため、本作は赤狩りを寓意的に扱った作品と受け取られることも多く、実際に原作小説にアレンジを加えた脚本家のC・フォアマンは映画の完成後、亡命を余儀なくされている。
その一方で、製作のS・クレイマーや監督のF・ジンネマンは政治的意図はなかったとも。
ケインを町から逃がした際の住民は、この時点では概ね彼に好意的。だが、信念なのか意地なのか、「僕は今まで逃げたことはない」と言い張って彼はふたたび町へ舞い戻る。
作品中には、主人公に不満を抱くグループ(保安官が悪党に撃ち殺される話題を肴に、午前中から酒場で屯ろする不道徳者として描かれる)も少数派ながら登場するが、多くの住民はケインの功績を認め、彼を尊敬していた人たち。それだけに、「どうして素直に言うことを聞いて逃げてくれないんだ」という戸惑いや苛立ちがストーリーに滲み出てくる。
個々の政治的スタンスに関係なく、共に映画作りに励んでいた仲間が赤狩りでリストアップされた時、残された側には、「嘘でもいいから転向してくれ」という願いもあった筈。
だが、D・トランボらのように信念を曲げなかった者は、映画界からの追放を迫られる。
本作は、単に赤狩りを非難する文脈だけでなく、仲間を救えなかった多くの映画人の無念や無力感が込められているのだと自分は思う。
作品には、ケイン以外にも二人の女性が孤立した存在(マイノリティ)として登場する。
フランク、ケイン双方と親密な関係だった経験がある酒場の女主人ラミレスは、「この町はメキシコ女に冷たい」と心情を吐露し、町を去る準備にかかる。
一方、すがる思いで彼女を訪ねたエイミーは、撃ち合いで父と兄を失って改宗した経緯を口にする。
キリスト教フレンド派(クェーカーは本来は蔑称)は当時、異端とされた宗派。
平和主義を旨とし、女性の権利や黒人奴隷の解放など先進的な教義を唱えたフレンド派は、保守的な勢力とは絶対に相容れない(だから牧師に「なぜ教会に来ない」と詰問されるまでケインは妻の宗派を秘密にしていた)。
「町のことより自分たちのことを考えて」と訴えるエイミーは一見、自己中心的な存在にしか見えないが、平和を求めて切実な気持ちで改宗したのに、今また大事な人を銃禍で奪われることへの激しい抵抗でもあることも理解すべきだろう。
映画のラストは、ケインが保安官バッジを地面に投げ捨てる有名なシーンで幕を閉じる。
だが、その前に彼は、一度は決別したはずの妻を抱き起こしてやさしく抱擁する。
政治的な思惑で簡単に分断を招く権力より、もっと大切なもののために和解の道を模索すべき─。
ラストシーンには、現代にも通ずるそんなメッセージも込められている気がしてならない。
主人公のケイン役は、ベテラン俳優のゲイリー・クーパー。従来のヒーロー像ではなく、苦悩する等身大の老保安官を好演し、この年のアカデミー主演男優賞に。
ヒロインのエイミーを演じたのは、映画出演二本目のグレース・ケリー。若さと気高さが際立つ魅力をこの作品で存分に披露した彼女は、のちにモナコ公妃になったことで有名。
二人だけでなく、他の出演陣も多士済々。
野心家で嫉妬深い保安官補ハーヴェイを演じたのはロイド・ブリッジス。TVでも活躍し、息子たちも俳優として成功している(彼も一時、赤狩りにリストアップされたことも)。
サム役のハリー(クレジットはヘンリー)・モーガンは、ほかにも西部劇に多数出演しているが、『グレン・ミラー物語』(1954)での主人公の親友チャミー役が印象的。
前任の保安官を演じたロン・チェイニーJrはモンスター映画の常連俳優。
ドラキュラ、狼男、ミイラ男、フランケンシュタイン(の怪物)すべてを演じたとか。四刀流だね。
フランクの一味コルビーを演じ、いの一番に画面に登場するのは若き日のリー・ヴァン・クリーフ。
オープニングでは精悍なアップもお披露目し、強烈なインパクトを植え付けるが、本作が彼の映画デビュー作。
しかし、オープニングの鮮烈なイメージとは裏腹に、本編の彼には一言のセリフも与えられず、目立ったシーンもない。
その後の彼のキャリアも不遇。
端役ばかりで大きな役をもらえず、1960年代半ば頃には俳優としてセミリタイア状態だった。
だが、イタリアからの誘いで出演したマカロニ・ウエスタン『夕陽のガンマン』(1965)が世界的に大ヒットし、リーも一躍大スターに。
『真昼の決闘』がその後の多くの映画に影響を与えたことは有名だが、西部劇好きのS・レオーネがリーを招いて監督した『夕陽のガンマン』も本作のオマージュで一杯。
『真昼の決闘』同様、冒頭で精悍なアップを印象付けたリーは、フランクのように列車で登場し、ケインのように独りで悪党一味に立ち向かおうとする初老のガンマンを貫禄たっぷりに熱演(当時の実年齢は40歳)。やはりマカロニ・ウエスタンでキャリアアップしたスーパーレジェンド、C・イーストウッドの向こうを張った存在感を示している。
マカロニの貴公子G・ジェンマと共演した『怒りの荒野』(1967)では、みずから射撃の手ほどきをした主人公と対決する運命になる、ちょっとひねった悪役を好演(ちなみに、役名はフランク・タルビー)。
晩年に出演した『ニューヨーク1997』(1981)でのホーク所長役もシブくてかっこいい。
決闘に向かうケインに牢屋から追い出される酔っ払いを演じたジャック・イーラムも、のちにレオーネの『ウエスタン』(1968)に出演し、本作を模した冒頭で、駅で待ち受ける3人組のひとりをケレン味たっぷりに演じている(ここでも悪役の名はフランク!!)でも、リーのようなスターにはなれず。
『地平線から来た男』(1971)での、ラストシーンの自虐ネタ(?)が、もの悲しい。
ジョン・ウェインが激怒した名作‼️
この映画は辞任直後の保安官が、お礼参りに来た四人のならず者と決闘する西部劇‼️ストーリーを聞くと、定石を踏まえた痛快娯楽西部劇のように思えますが、この作品ほど恐ろしい映画はないですね‼️初老の保安官が一人では無理だと、町の住人に協力を求めるが、誰も応じてくれない。最初は協力を約束していた住民が臆病と不安が引き金となり、住民の打算や卑劣さがいろいろな形で露呈される‼️これは究極のファシズム映画でもあると思います‼️人間って汚くて、ホント恐ろしい‼️全編を通して保安官の怒りはならず者ではなく、住民たちへ向けられている気がしてなりません‼️そしてゲイリー・クーパー扮する保安官の85分は、我々観客にとっても85分‼️リアルタイム進行がもたらすその緊迫感‼️主題歌「ハイ・ヌーン」も素晴らしい‼️新妻グレース・ケリーの美しさも素晴らしい‼️ゲイリー・クーパーの凛とした佇まいも素晴らしい‼️そして何より全てを完璧にまとめ上げたフレッド・ジンネマン監督の演出が一番素晴らしい‼️
史上の重要作
従来の勧善懲悪型から人間ドラマに変質した西部劇の第一作として映画史上の重要作とのことです。
確かに独特の性格描写が当時としては斬新だったのでしょうが、今観ても非常にきめ細かい人間ドラマと感じます。クーパー先輩のくたびれぶりが見事にハマっています。
昭和27年の公開時は赤狩りの全盛期だったことも重要な要素なのかもしれません。
無理を感じる顛末
ゲイリークーパー扮するウイルケイン保安官はグレースケリー扮するエイミーと結婚式を挙げ、保安官バッジを返納した。そんな折、ならず者たちが3人町にやって来た。
新婚さんにしてはゲイリークーパーはちょっと老けすぎてるよね。それに命を狙われているのにわざわざ町に戻ってくるとは。これでは新妻がかわいそうだね。バッジも返したんだから責任感は関係ないさ。 町から出そうとする友人を殴り倒すなんてね。顛末に無理を感じるな。意地を張って死んだら元も子もないよね。
『ベルファスト』
僕は『ベルファスト』が大好きで、公開された去年、映画館で5回観ました(笑)
当時、レビューも書きましたが、
最初まあまあ、あとからジワジワ効いてきて、最終的に5回も観に行ったのです(笑)
そんな大好きな『ベルファスト』の中で、いくつか映画が流れます。
その1つが、この映画です。
『ベルファスト』経由で、この映画を観たワケです。
この映画は、音楽が大好きです♪
『裏窓』『ダイヤルMを廻せ!』のグレイス・ケリーが出ているトコも、いいですね♪
ただ、今この時代に観ると、退屈です…
イキだし、オシャレだし、カッコイイけど…
西部劇で好きなのは、
『ヤングガン』『クイック&デッド』『バッド・ガールズ』『シェーン』
など、90年代のが多くて…
『真昼の決闘』は退屈でした…
素の評価は55点ですが、
グレイス・ケリーと、ワインの様に年代を考慮して5点ほど足しましょう(笑)
最終評価は、甘めの60点です(笑)
画面から伝わってくる強い正義感と怒り、諦観
画面から伝わってくる強い正義感と怒り、更に諦観に圧倒された。ハリウッドに対するそれら想いを、新しいタイプの傑作映画にまで練り込んだ素晴らしい脚本と演出に凄みと敬意を覚えた。
I've got to stay here. 気が付かなかった😅
日頃はなかなか観る機会のない西部劇を「午前10時の映画祭」で観賞してきました。白黒の西部劇ってこういう機会でもないと観ないですし、映画好きなら押さえとかねばいけないかなっと思いまして。内容は・・・うん、普通かな。
ゲイリー・クーパーもグレイス・ケリーも知らなかったので、最初の結婚式からかなりの歳の差カップルだったのにちょっとビックリしました。きっと当時の人気俳優二人を起用したら歳の差がスゴかったっという感じなのでしょうか。
事前に情報を仕入れてなかったので時間がリアルタイムで進んでいるって事には他の人のレビューを読んで気がつきました。やたらと時計が写し出されていたのはそういう事だったんですね。ゲイリー・クーパー堅物保安官で人望がないのが悲しい‼️最後の銃撃戦の緊張感はスゴかったのですが、ミラーがヤバイ奴ってのはイマイチ伝わって来なかったですね。あれは街の人たちが協力してたらあっさり決着ついていたのでは?
でも白黒西部劇もたまに観るには味があってよいですね。こういう機会を得るためにも「午前10時の映画祭」は続いていってもらいたいもんです。
真昼の孤独な決闘
午前十時の映画祭11にて。
やはり、この映画もグレース・ケリーの美しさが際立つ。
グレース・ケリーは本作が映画出演2本目にして初のヒロイン役で、当時22〜23歳。主演のゲーリー・クーパーは51歳だった。ゲーリー・クーパーが扮する保安官ウィル・ケインは設定上も若くはないようなので、グレース・ケリーが演じるエイミーは自分の倍以上年長の男に嫁ぐというわけだ。
主人公のウィルは、結婚と同時に保安官を辞めて町を出ることになっていたようだ。
ウィルと因縁があるならず者が町にやって来ることが分かって、町の人たちはウィルと共闘するか突き放すかで二分する。町長は、ウィルが町のために尽くした保安官だと説明しながらも、町に向かっている悪党はウィルに個人的な恨みを晴らしたいだけだ、ウィルはもう保安官ではないと言い、町の人々はその言葉に無言で同意する。
だがしかし、ウィルは保安官バッヂを外さず一人銃を持って悪党たちに立ち向かうのだった。
この物語の恐ろしいところは、悪党一味の4人が町にやってくるとウィル以外に住民がいないゴーストタウンであるかのように町は静まり返り、一旦は共に戦おうとしていた人たちも含めて誰一人として救援に現れないところだ。多数決の結論を絶対とする民主主義へのアンチテーゼだとも言われている。
新妻エイミーが、悪党と闘うことを選んだウィルを置いて列車で一人町を出ようとするが、これは彼女がクエーカー教徒であることがポイントとなる。
クエーカー教はいかなる者とも闘わない平和主義、友愛主義が教えの宗派だから、闘いを選んだウィルとは決裂しなければならなかった。
だから、そのエイミーが悪党の一人を撃ち殺してウィルを助ける場面には重い意味がある。
この映画は、悪党のリーダーが列車で町にやってくる設定に工夫がある。
弟たち3人の仲間がこの町の駅で待っていることで、町に来ることが目的だと分かる。
列車の到着時刻が正午であることが分かっているから、正午までの時間をほぼリアルタイム進行で描くことでサスペンスを形成している。
これによって、〝ハイヌーン〟が刻々と近づく緊迫感が生まれている。
孤独な闘いを終え、町の人々に失望したように保安官バッヂを地面に投げ捨ててエイミーと共に馬車で町を出るウィルだが、彼があえて孤独な戦いに挑んだのはなぜだろうか。
悪党が町に向かっていると知らせが入り、急いで町を出るように町長は助言している。しかし、一旦町を出ようとしてウィルは舞い戻る。保安官を辞めた自分は銃を持っていない。自分を恨む悪党が釈放されたとなると、自分を守るために保安官バッヂと銃が必要だ。だから町に戻って保安官に復職しようとしたのではないか。そう考えると、もう保安官ではないのだから町を出ろという町長の意見は、政治家として正しかったようにも思える。
自分がいないと知っても、町にやってきた悪党一味がおとなしく帰っていくはずがない。後任の保安官はまだ着任していないのだから、自分が町を守らねばならないと考えたのだろうか。そうだとすると、悪党一味がウィルに恨みを持っているとはいえ、仮にウィルがいなくても、あるいはウィルに恨みを晴らしたとしても、その後悪党たちが町で何をするかという危機意識が町の人たちには欠如していたと言える。
恐らく後者なのだろうが、ウィルの言動には判りづらい部分もあって、従来の西部劇で描かれた完全正義の保安官とは趣が異なっている。
町の人たちも、馬車で去っていく夫妻をただ見つめるのみで、ウィルへの感謝も謝罪もない。
町を救ったであろう元保安官は孤独に戦い、虚無感の中去っていくのだ…
引き金を引いた女
村上春樹はエルサレム賞の授賞式のために空港へ向かう道中、何度もこの作品を見て勇気を出したという。
当時のイスラエルはガザ地区の擾乱をめぐって政府が激しく批判されており、その災禍をよそに授賞式への参加を表明した村上春樹にも当然非難が集中した。
「ずいぶん孤独だった」
彼はそう述懐している。
そのとき彼がスクリーンの中で孤軍奮闘するゲイリー・クーパーに自らの境遇を重ね合わせていたことは言うまでもない。
ゲイリー・クーパー扮する保安官ウィルはなぜわざわざ街に戻ってきたのか。悪漢たちが自らの命を狙っていることを知りながら。
平たく言えばエゴイズムだ。それ以外の何物でもない。保安官として街を救いたい、というエゴイズム。
街の人々にどうして街へ戻ってきたのかと尋ねられた際の「そうする義務がある」という彼の言葉に半ば自己暗示めいたものを感じたのは私だけではないはずだ。
彼がそのようなエゴイズムを採択できた背景には、きっと誰かが自分を手伝ってくれるだろうという打算があったように思う。でなければ1vs4の不条理な決闘に身を投じられるわけもない。
しかし彼の期待は徐々に裏切られていく。酒場や教会を巡りながら彼は保安官補佐を募るが、街の人々は一人また一人と踵を返していく。「俺にも嫁や子供がいるんだ」「それはあんたの個人的な問題だ」。
周囲からの信頼や助力といった頼みの綱をすべて失ったウィルはいよいよ自身のエゴイズムと真っ向から対峙せざるを得なくなった。
街を救いたい。
しかし街の人々はどうだ?自身に被害が及ぶと知るや否や誰もが彼に背を向けてしまった。彼らを助ける価値は果たして本当にあるのだろうか?
そんなことはもう関係がなかった。悪漢との決闘はウィルにとって既に個人的な問題だった。自分が決めたことは自分が最後まで責任を持つ。その過程や結果において関わってくる外部のものごとなど彼には関係がなかった。
彼はピストルを持って4人の悪漢に立ち向かっていく。
意思や行為が徹底的に個人の内面において完結しているという点において、ウィルと村上春樹は共通している。
「この時世にイスラエルなんか行くな」と周囲から後ろ指をさされても、彼にとっては「イスラエルの読者たちに何としても感謝の意を示したい」という自己規範を遂行することのほうがよっぽど重要だった。
行きすぎた個人主義はあまり私の好きなものではないが、しかし何が何でも精神の中心に一本の長い長い直線道路を引き続けようとする彼らの強さには論理を超えた敬意を表したくなる。
と言いながらも、この映画で私が最も好きなのは、最後の決闘でウィルの花嫁が彼を狙っていた悪漢を背後から射撃する終盤のシーンだ。彼女が悪漢を撃たなかったなら、おそらくウィルはあの場で死んでいただろう。彼女の助力があったからこそ、ウィルは4人の悪漢に打ち勝つことができた。
彼の孤独を極端に美化すること、つまり物語を「男がたった一人で街や人を救う」的な落とし所で締めることは安易な形式主義だ。それは旧来の西部劇がマッチョイズムと勧善懲悪を絶対的な雛形にしていたことと何も変わらない。
このシーンにはウィルの徹底した孤独=個人主義を単なるニヒルなダンディズムとして受け手に消費させない意図があるように私は思う。そこが私は好きだ。
個人主義は魅力的だ。それを貫徹できる人物を見ると無性に憧れてしまう。それでも思い出さなければならないのは、どうしたって人は一人だけでは生きていくことができないというスタブルな事実だ。
あの村上春樹にだって、親や友人や読者や妻がいるのだ。
自分勝手な保安官
午前十時の映画祭11にて観賞。
1870年、アメリカ西部の小さな町で、保安官ウィル(ゲイリー・クーパー)はエイミー(グレイス・ケリー)との結婚を機に退職し、町を出ようとしていた。そんな彼の元に、かつて逮捕し刑務所送りにした無法者のミラーが釈放され、仲間3人を引き連れて復讐にやって来るという情報が届いた。ウィルは町の人々に加勢を頼むが、ミラーを恐れ協力を拒否したため、ウィルはたった1人で4人を相手に戦うことになるという話。
あのまま町を出てたらミラーが町には何も危害を加えなかったとしたら、自分勝手な保安官が1人じゃ不安だからって仲間を募ってる様にも感じた。
4対1での銃撃戦だが、意外に復讐する方があっけなくやられる。なんじゃい、って感じ。4人を射殺したら町の人たちが出てきて祝ってくれるが、保安官バッチを投げ捨て町を出て行くのも自分のためにだから放っておいてくれ、って感じだったのだろう。
町の人たちは保安官を嫌ってた人も多くそこもなんじゃい、って感じだった。
妻エイミー役のグレイス・ケリーが美しかった。
主人公の孤独と責任
この話は今の時代、今の日本にも通じる、もっというと暮らす人々と守る保安官はいつの時代であっても孤独だということ。誰にも助けられず、1人で向かうケーン。
その姿はかの総理大臣に垢を煎じて飲ましたいと思う。
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