「映画というものに対する感覚を変えた分岐点的な作品。」マトリックス あふろざむらいさんの映画レビュー(感想・評価)
映画というものに対する感覚を変えた分岐点的な作品。
公開時に映画館で観た以来に観た。
B級サイバーパンクになりそうな作品だが、超A級の仕上がりになっているのはあらためてすごいと感じた。
当時革新的な映像技術だと感じたマシンガン撮影は、今観てもかっこいい。それだけではなく、画面の作り方が洗練されていて、どこを切り取ってもかっこよく見える。
ウォシャウスキー兄弟が、本作のあと、イマイチな作品しか撮らなかったのは、シナリオに恵まれなかったのだろうか。
本作はシナリオも非常に巧い。
安ホテルの303号室での、トリニティと警察の戦いではじまる。そこにエージェントもやってくる。トリニティは敵に追われるが、危機一髪で逃れる。
場面がかわって、主人公のトーマス・アンダーソンが登場。彼はソフト会社の社員だが、ネオというハンドルネームでハッカーをやっている。パソコンに、「白ウサギについていけ」というメッセージが表示される。彼はその言葉通りにすると、トリニティに出会う。ここでトリニティがハッカーの世界では名を知られた人物であることが明かされる。さらには、モーフィアスも、伝説のハッカーとして知られているようだ。
エージェントにつかまったネオは、紆余曲折を経て、モーフィアスたちと合流する。「赤いピルと、青いピルのどちらかを選べ」という有名なシーンがあり、ネオは赤いピルを選ぶ。
現実だと思っていた世界は、実はマトリックスという仮想現実で、人類はチューブにつながれて、眠っているのだった。
モーフィアスたちは、マトリックスと戦って、現実を取り戻そうとしている。ネオは救世主なのだ。
当初、ネオは自らが救世主だといわれても信じられなかったが、やがてその確信に至る。
巧いと思ったのは、物語の最後に、冒頭の安ホテルの303号室に戻るところ。冒頭ではトリニティが部屋にいたが、最後はネオが部屋に入っていく。トリニティは救世主であるネオを捜すために、その部屋にいて、ネオは救世主として、その部屋に入っていく。この時点で物語が円環を描く。
おもしろいのは、「現実の世界」を発見するのが、ハッカーであるということ。コンピューターという仮想の世界で生きている人間が、現実を発見する。そして、「現実」の中で、彼らは互いをハンドルネームで呼び合う。
ネオもエージェントスミスに「アンダーソンくん」と呼ばれて「おれはネオだ」と答える。現実世界を発見した人物が、仮想現実で使っている名前を「本当の自分」として認識するというのは、どういうことなのだろうか。
エージェントたちはいわゆる「アンチウィルスソフト」のようなもので、彼らにとってモーフィアスたちは「コンピューターウイルス」のようなものだ。エージェントたちが「アンダーソンくん」と呼ぶのは、「マトリックス」での名称を使っている。そういう風に考えると、「ネオ」というのは、現実の名前なのか。しかし、それはハンドルネームだ。「アンダーソン」が仮想の名前なら、「ネオ」は仮想の、さらに仮想の名前ではないのだろうか。
最大の謎は、最後にエージェントスミスに殺されたネオが、トリニティの口づけによってよみがえるというところだ。コンピューターと人間の戦いということを考えると、愛の要素が人間の生命を復活させるというのは安直に感じられるが、どういう意味なのだろう。
理解できなかった点があるとはいえ、本作は非常にすぐれた作品だ。言うまでもないが。
「これは仮想現実だ」と言われて、街を歩くシーンなどが出てくると、本当にそこがデジタルのように感じられるのが不思議なものだ。これは視聴者の印象がそうさせるのか、映像的になんらかの処理をしているのか。
ウォシャウスキー兄弟はこの無機質で洗練された映画によって、一種の革命を起こした。つまり、俳優というものが、CGによっていかようにもなるという次元に突入したのだ。
以前、「バットマン」でバットマンがビルから飛び降りて、地面に着地したときに、衝撃で地面が割れるという演出を、「それはリアルではない」と嫌って、主演のヴァル・キルマーが断ったという話を聞いたことがある。アイデアを却下したのか、映画を降板したのかは忘れてしまった。
当時としては、人間らしさというものが映画だったのだろう。しかし、本作ではそういうものはすべて排除されて、この現実はデジタルなのだ、だからどうにでもなるのだ、という趣旨のもと、俳優たちが空中で一時停止したり、素手で壁を壊したりする。本作は映画における俳優の役割を変えたとも言える作品だと思う。
そのあとで、CGばかり派手な、つまらない脚本の作品が多く出るようになったことを考えると、複雑な思いに駆られるが、それでも本作が革新的な作品であったことの証ではあるだろう。