劇場公開日 1987年10月30日

「水面に映る影」炎628 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 水面に映る影

2025年11月11日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

エレム・クリモフ監督による『炎628』は、ナチス占領下のベラルーシで起きた実際の虐殺をもとにした作品で、戦争映画という枠に収まりきらない、強烈な「体験」の映画だと感じました。ナチスを描いた映画は数多くありますが、その中でも本作は最もリアリティの核に迫ったもののひとつであり、単なる反戦映画とはまったく異なる経路で、人間の内部に潜む暴力性とファシズムの構造を描き出しています。

物語の中心にいるフリョーラは、パルチザンに憧れる無邪気な少年として登場します。しかし、自宅に戻れば家族の死体が転がっており、村は焼かれ、仲間は次々と殺され、彼の顔は子供から老人のような表情へと変化していきます。その変貌は特殊メイク以上の迫真性があり、まるで精神の摩耗そのものをカメラが捉えているようでした。とくに彼の瞳に生まれる虚ろさは、もはや“演じている”という域を超えており、本作が俳優の精神すら巻き込んで作られたことを強く感じさせます。

物語の核心にあるのは、ナチスを「悪魔」としてではなく「普通の人間」として描いた点です。村人を生きたまま教会に閉じ込め、笑いながら焼き殺そうとする兵士たちは、狂気ではなく、むしろ日常の延長線上のようにふるまいます。これはハンナ・アーレントが言う「悪の凡庸さ」をもっとも正確に映画化した表現だと思いました。そして恐ろしいのは、その残虐性が単なる敵の属性ではなく、フリョーラ自身にも芽生えてしまうところです。焼き殺された村人たちの復讐として、彼もまたナチス将校を焼き殺そうとし、暴力の快楽と怒りに呑み込まれかけます。偶然の順番によって踏みとどまっただけであり、もし状況が少し違えば、彼自身がヒトラーのような“殺す側”になっていた可能性すら感じました。

ラストでフリョーラが水たまりに落ちたヒトラーの写真と水面に映る自分に向けて初めて引き金を引くと、映像は逆再生され、ナチスの行進、ヒトラーの演説、第一次大戦、そして赤ん坊のヒトラーの写真へと遡っていきます。この構造は、人間の内部にある暴力衝動や復讐心が、ファシズムと地続きであることを示すものであり、世界がウロボロスの蛇のように循環してしまう恐ろしさを見事に可視化していました。

技法面でも特筆すべき点が多くあります。ロングテイクが多用されていますが、いかにも“技法です”と誇示するような使い方ではなく、観客をその場に縛りつけ、時間を途切れさせないためのロングテイクです。とくにフリョーラと少女グラーシャが自宅の惨状に気づき、沼の島へ逃げる一連のシーンは、長回しであることを意識させないまま、絶望の時間そのものを体験させる見事な演出でした。

私は沼のシークエンスの絵が特に印象に残りました。泥に沈みながら進むフリョーラと、それにしがみつく少女。その姿だけで、世界がすでに壊れてしまっていることが伝わってくる強度があり、この一本を観ようと思ったきっかけでもありました。

また、終盤にはディープフォーカスに見せかけた“偽ディープフォーカス”が登場します。フリョーラ(手前)と遠景の兵士にはピントが合っているのに、中景だけが不自然にボケている。この奇妙な焦点構造は合成によるもので、現実が歪んで見えるフリョーラの精神状態を視覚化した極めて意図的な表現だと感じました。

音響の使い方も卓越していて、爆撃で聴覚を失ったフリョーラの主観に合わせて音が歪み、人の悲鳴が薄く混ざり、まるで幻聴のような電子音が流れます。現実音と精神音が区別できなくなるミキシングによって、フリョーラの心の破綻を音だけで表現する技法は、戦争映画の枠を越えた非常に優れた設計だと思いました。

そして忘れてはならないのは、タイトル「628」が示す史実です。実際にナチスによって628以上の村が焼き討ちにされ、多くが住民ごと消滅しました。村人は共産主義者でも政治的でもなく、ただ“スラブ人である”という理由だけで殲滅の対象にされました。映画の方がむしろ控えめで、実際の記録のほうがさらに残酷です。

総じて、『炎628』は単なる反戦映画ではなく、人間の内部に眠る暴力性・残虐性・ファシズム性を容赦なく可視化した作品だと感じました。ナチスを特別な怪物として描くのではなく、“普通の人間が人を殺すことを楽しんでしまう”という最も危険な真実を、監督自身の内面の暗部ごと引きずり出すように撮った映画だと思います。観る側も決して他人事ではいられず、心のどこかに潜む同じ暴力の芽を直視させられるような重さがありました。技法と主題が完全に一致した、非常に稀な強度を持つ作品だと思います。

鑑賞方法: Blu-ray

評価: 97点

neonrg