「地獄には入口も出口もない」炎628 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
地獄には入口も出口もない
本当の戦場。つまり入口もなければ出口もない、そういう地獄を想像してほしい。
そこには『トラ・トラ・トラ!』や『ダンケルク』のように心躍るスペクタクルもなければ、『地獄の黙示録』や『アメリカン・スナイパー』のように戦争と自意識を重ね合わせる余裕もない。いわんや『フルメタル・ジャケット』や『M⭐︎A⭐︎S⭐︎H』のようなアイロニカルな諧謔をや。
本物の銃弾が飛び交い、灼熱の炎が燃え広がる戦場には、それを内面化したりメタ化したりする余地などない。圧倒的な地獄。渋滞のど真ん中に巻き込まれたかのように身動きのかなわない戦場。
フリョーラ少年は物語の語り手ではあるが、それは彼が物語に直接介入できるということを意味しない。彼もまた地獄の渦中にあるのであって、彼の視線はカメラ以上の権能を持たない。
地獄を描くには卓越した演出が要求されるが、その点において本作は私が見た戦争映画のどれよりも優れていた。
木造家屋の壁にへばりつくように積み上がる死体、ヘドロまみれの沼を曳航するフリョーラとグラーシャ、骸骨のヒトラー像、闇夜に炸裂する橙色の閃光弾、濃霧を這うナチスのサーチライト、陽気な軍歌の裏で燃えゆく小屋、壊れた玩具のように遺棄された女、泣き叫ぶ子供の声。
これらの息が詰まるようなショットの数々は「映像の中の出来事」という安寧を振り切り、今も私の記憶の闇の中で閃光弾のように炸裂し続けている。こっちまで身動きが取れなくなる。
ナチスの非道をここまで非道として描き切った作品は後にも先にもこの作品だけなんじゃないだろうか。少なくともリアリズムの手法を用いた作品の中では。
しかしナチスの残虐な仕打ちに対し、村人たちの逆襲には倫理性がある。彼らはナチス分隊のリーダーたちを捕らえるが、ナチスのように残虐な方法ーー焼殺や精神的凌辱ーーは行わず、散弾銃で一思いに殺害する。
中には火をつけるために松明を持っていた者もいたが、最後には思い直したように松明を川に捨てる。
それでも恨みは残る。家族を、友人を、故郷を奪われた恨みが、倫理のみによって消えるわけもない。フリョーラは川べりに浮かぶヒトラーの絵を執拗に銃で撃つ。
その一発ごとにナチスの記録映像がフラッシュする。しかしそれは逆再生だ。崩壊したビルは元に戻り、爆撃機の爆弾は空を上り、調印は一画ずつ白紙に後退していく。破壊ではない、時間の逆行による戦争の否定。もちろん伴いヒトラーもだんだん若くなっていく。一発ごとに、若く、若く、若く…そして最後には赤子となる。
フリョーラはそこでトリガーを引くのを躊躇う。心が怨嗟と倫理の狭間で揺れる。そして彼は銃を下ろす。ここで引き金を引けば、彼もまた第二のナチスになってしまうからだ。
戦争という運命にただただ翻弄されていた彼だったが、この最後の瞬間だけは、自分というものを持つことができた(あるいは許された)のかもしれない。
しかしそこまでに彼は多くのものを失ってしまった。
彼の心に空いた巨大な穴はいつか埋まるのだろうか?
そんな疑問を呈する間もなく、パルチザン軍は行軍を始める。フリョーラは慌ててそれを追う。行軍は森の奥へ消えていく。真っ暗な森は、この地獄がどこまでも果てしなく続いていくことの示唆に他ならない。