ベン・ハー(1959)のレビュー・感想・評価
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最後で台無し
途中までは大スペクタクル映画という感じで物語もセットも素晴らしいです。他の方がレビューしている通り戦車のレースは手に汗握る展開で何度見ても飽きない面白さ。
しかし、最後にキリストが死ぬことで主人公の家族のハンセン病(作中では業病と呼ばれています)が治るというのがご都合主義すぎて拍子抜けしました。
もののけ姫や砂の器を観ればわかる通りハンセン病はそんなに簡単に治る病気ではありませんし、罹患すれば社会的地位を失ってしまう恐ろしいものです。それを最後の最後でキリスト様の奇跡だとかいう都合のいいもので治癒させてめでたしめでたしとは鑑賞者を舐めているとしか思えません。
アラビアのロレンスはベン・ハーと同じような壮大な物語でしたが、こちらはリアリティがあって最後まで飽きさせない展開になっています。ベン・ハーも最後の詰めをもう少しちゃんとしてほしかったです。
これを全てセットで撮っていたとは
アカデミー賞史上最高の11部門を制覇した大作が映画館に登場です。僕は50年以上ぶりの鑑賞でした。だから、騎馬戦の場面以外は全て忘れていました。しかし、冒頭に”A Tale of the Christ”とあったのに驚き、まさしくその様な物語に帰結していく事に二度ビックリ。子供の頃はそんな事分かっていなかったんですね。それにしても、60年以上前にこの大規模・大迫力の物語はやっぱり凄かった。これ、セットを作ったんですよね。また、物語も、4時間近く全くダレることがありませんでした。
でもキリストのエピソードをこんなにハラハラする物語に仕上げるなんて、キリスト教文化の物量はやっぱり凄いなぁ。『十戒』(1956) や『天地創造』(1966)などの聖書物語もヒットしていた時代です。「ゴータマ・シッダールタの生涯」なんて映画は手塚治虫さんのアニメ以外に聞いたことがありません。
また、1925年には無声映画の『ベン・ハー』も制作されていた事を今回初めて知りました。Youtube で視聴可能らしいのでこれも観なくては。
事故かな
圧倒的スケール
これは単なるアクション映画ではない
子供の頃に観て印象的だったのは、ベン・ハーがガレー船に送られる時に...
子供の頃に観て印象的だったのは、ベン・ハーがガレー船に送られる時に「その男には水は与えるな!」「与えるなと言っただろう!」と言った後にナザレのイエスの顔を見て何故かうろたえるローマ兵士の表情。
そして牢獄に何年もいた母と妹が癩病(らい病、ハンセン病)だと判明するシーンが残酷過ぎて怖くて悲しくて泣きそうになった。
凄いのはガレー船のシーンと、やはり戦車競走であり、ベストシーンは今も昔も変わらない。
主人公はジュダ=ベン・ハーだが、同じ時代に家具職人の別のユダヤ人がいて その人物にもスポットを当てるのだが顔を映さない演出は素晴らしい工夫だと(今でも)思います。
アクションシーンでは 子供の頃「あっ 一人死んでしまった!」と思ったもんだ。見事なスタントと編集技術。
多分 テレビ放送で2回、レンタルで1回、その後「午前10時の映画祭」で観た。今回の「午前10時の映画祭 15」だと12年振りらしく、なので12年振りに映画館で観たのだろう。
早めに行ったので1本の映画の為に5時間近くも劇場に居た事になる。
《メモ》
・70mmフィルムのアナモフィックスレンズ撮影。
・イタリアのチネチッタ(Cinecittà:ローマ郊外エウローパにある映画撮影所)で撮影。
・セルジオ・レオーネがセカンド監督。
・ヤキマ・カヌートがスタント・コーディネーターか?
・今作が3回目の映画化。(1、2回目はサイレントで2016年に4回目の映画化)
・キノシネマ天神は4Kプロジェクターではない。
・212分 + 休憩10分 = 222分
・相変わらず序曲中は真っ暗
その姿に何を見る
時間を忘れる映画でした
有名な映画で、何回かTV放映で見た記憶はありますが、全編観たのはこれが初めてでした。
チャールトン・ヘストンの男性的で誠実な魅力と、ギリシャ彫刻のような肉体美は惚れ惚れしますね。それと、この時代の衣装が本当に似合う。
キリストの顔を見せないようにしているのは、他の古い映画でも見られましたが畏れ多いとのことなのでしょうか。ハー家の当主として豊かな生活を送っていた主人公ですが、無二の親友だったのに嫉妬や価値観の違いから、裏切られて互いに憎みあってしまうところは、なんとなく西郷隆盛と大久保利通を連想してしまいました。友情は壊れたら元には戻らない…。
有名な競馬のシーンですが、瞬きするのが惜しいほどの迫力で、この時代だからほぼリアルということですかね。どうやって撮影したのだろう。このシーンは優秀で美しい馬達も主役同然ですな。
午前十時の映画祭で鑑賞しましたが、年齢層が高いからか映画好きが集まっているからか、マナーの良い方ばかりで不愉快な目にあったことがないです。なのでより名画を心から堪能でき、ありがたいです。
ブドウの房でも
持ち込みたい所ですが無理なので、Lサイズのオレンジジュース、チェック!休憩に備えてトイレの場所、チェック!
メッサラとのやり取りがちょっとタルい、だが“ファーストコンタクト”から戦闘速度!と俄然テンポアップ!人にしてもらった事は忘れない・・それが信仰なのかも?とうっすら思う。
休憩突入。
序曲、間奏、いくら助走と言っても長いよ!100m位たったっしてるんじゃ?
9頭立ての馬場のロケーションだけでも凄い金がかかってそう、遠くは絵だったけれど。邦画ではこんなの作れないのか、当たると解ってないと駄目か?“セカンドコンタクト”これが教徒が信じる伝説・・まぁユダヤ教から発展し、死に追いやったのもユダヤ人ってのはよく考えた方がいいと思いますがね。
最後にチャールトンヘストン、正にアメリカンロールモデルなんでしょうな。離婚歴も無く従軍経験もある、聖書絡みの役を演じ、全米ライフル協会会長、最後の肩書きはあまりにアメリカ的過ぎでしたけど。
若き日の彼をスクリーンでも見たいけど…。
アカデミー11部門受賞の歴史超大作。
本作の最大の欠点は、とにかく長いこと。
随分前にTVで録画し頑張って全編見たあと、短い二箇所の場面を除きすぐ部分消去(というか大部分消去?!)。
保存した二つのシーンに共通するのは、子供の頃好きだった俳優がエキストラで出演していること。今でも時どき見返している。
彼はもともと主演のチャールトン・ヘストンのスタント(有名な戦車競走のシーン)として採用されたのに、身長が2インチ低かったためにエキストラに回されたという話が一般的に知られているが、そんなことは選考段階で分かってた筈。
その話が本当だったにしても、「悪いけど、ほかのスタント使うから」で済むことなのに、セリフこそないものの、彼は結構目立つ場面で登場する。
今のようにCGで顔だけ張り替える技術のなかった本作の製作当時、役者の顔を映さないのがスタント撮影の大原則。
あくまでも自分の勝手な想像だが、おそらくスタッフ(少なくともエキストラの起用に口出しできる立場)の誰かがこう思ったのでは。
「彼の顔を映さないなんて間違ってる。この顔を使わないのはもったいないだろう」と。
彼の最初の登場場面は、家族を捕らえられた主人公ベン・ハーが旧友の司令官のもとへ抗議に乗り込むシーン。司令官の護衛役を演じている。
もう一つはローマ史劇お約束(?)のローマ風呂のシーン。彼はここで器械体操や俳優デビュー前の肉体労働で鍛えた筋肉美を披露している。そして、のちに彼の代名詞ともなった100万リラのスマイルも。
彼には別に「マカロニの貴公子」というニックネームもある。
本作の五年後に始まったマカロニ・ウエスタンブームに乗って脚光を浴び、彼も一躍世界的な大スターに。
国内のロングセラー・スクーター、SUZUKIジェンマも彼、ジュリアーノ・ジェンマの人気にあやかったもの。
「午前十時の映画祭」の企画で全国の劇場で上映されているが、冒頭でも指摘したとおり、やたら長いことが作品の欠点。
戦車競走などスペクタクルシーンはあるものの、物語の骨格はキリスト教史観。
宗教的シンパシーや何らかのモチベーションがないと、4時間近く座って見てるのは結構しんどいと思う。単なるアクション・スペクタクルだと思って見に行くと、睡魔はあなたを容赦しない。
自分も若い頃のジェンマを劇場の大きいスクリーンで見てみたいけど、隣の知らない人に「ジェンマ出たら起こして」とお願いする訳にはいかないし…。
これから見に行かれる方はしっかり睡眠とって、体調を整えてご覧になることをお薦めします。
個人的には、かつて日本でも人気のあったジェンマの登場場面にも、是非ご注目を。
お腹いっぱい!
今見ても凄い映画だ。
映画館で見るのは今回が初めてです。
封切りの時は当然生まれていませんでした(笑)。
TV放送をビデオで撮ってみた事はあるのですが、とにかく200分超えの大作、途中休憩ありの二部構成。現在なら前後編、三部作など作品分割していたでしょう。本当に長い映画で途中疲れてしまい早回しで飛ばしていたので海戦やら馬車レースなど面白い所しか覚えていません。
改めて一から全部見て初めてこの映画はキリスト教に関する映画だと知りました。キリスト教については一言も触れていませんが。
キリスト自体も画面に出ているのですが後ろ姿やシルエットだけ。
キリスト教もなにも知らなかった時には何のこっちゃでしか無かった。
この映画では業病(不治の病、悪い事をした罰、ハンセン氏病などの俗語)と言う病気(映画内ではハンセン氏病の事)が治ってしまう奇跡も出ます。
これも知らないと何のこっちゃになります。ローマ時代の復讐と復活の映画かと思ったら神の奇跡とか意味不明でした。
映画冒頭の降臨した映像を見た時はベン・ハーの生まれた事かと勘違いしたくらい。
ベン・ハーもフルネームがジュダ・ベン・ハーと意味深である事を知りました。
とにかく60年以上昔のCGも何も無い時代にこれだけの大作を作れる事が驚きです。途方もなくお金が掛かっていたでしょうね。
実写と絵の合成ですが全て本物の様に見えます。
一部クロマキーの処理が甘く合成しているところがチラチラ見えますがご愛嬌。とにかく何もかも凄すぎです。
ただ一本の映画として見ると長すぎて集中力が持ちません。ビデオで早回しや飛ばしでショートカットしたい気分になるのも無理からぬ事かも。
時はローマ時代、所は今のイスラエル。ローマが統治していた頃のエルサレムの話。
ユダヤ人の貴族の青年ベン・ハーは貿易に勤しんでいた。
その頃ローマ人で幼友達のメッサラがローマから戻ってきてローマ軍の指揮官としてイスラエルに赴任。旧友と親交を暖めるがメッサラはローマに戻って野心に目覚めイスラエルの不満分子を抹殺する事を考えていた。ベン・ハーに協力者として密告して欲しいと願うが断り敵対関係に。
新しいエルサレムの総督が赴任する為の行列でベン・ハーの家の前で事故が起こりメッサラは事故と知りつつ見せしめの為ベン・ハーを総督暗殺を企てたと無実の罪を着せ奴隷に落としガレー船(今で言う戦艦)の漕ぎ手として遠くに追いやった。
母と妹は捕らえられ牢屋の中に。
復讐に燃えたベン・ハーはメッサラに生きて戻ってきて復讐する事を誓う。ここからが長い…
言葉にならない
午前十時の映画祭にて。これまで、昔の映画にはあまり興味がなかったため今回が初鑑賞。
競走馬のアクションシーンが有名ということは知っていたので、てっきりそういうアクション系の映画なのかと思っていたくらいだったが・・・、鑑賞後の感想としては、もう、言葉にならない。これに尽きる。この映画は言葉にならない。言葉にできない。以上。
強いて言うならば、、、
映画館への入場が遅れてしまい、入室したときにはオープニングの音楽は流れていたもののスクリーンは真っ暗。部屋も真っ暗すぎて座席も見えず座ることもできない。これは部屋を間違ったのかと思い、1回出て確認するも合っているので再入場。でもやっぱりスクリーンには何も映っていないので、故障なのかな?もしかして誰も居ないのかな?と、出たり入ったりを3回繰り返す。でもよくよく見ると座っている人が居る気配はしたので、これはもしかしたらスクリーンを見える人と見えない人が居る映画なのかと・・・大パニック。帰宅後に感想欄を見たらそういう演出だったんですね・・・。そんな衝撃的な映画。
ベンハー、駅馬車、セブンサムライ
This beginning
感想
原作者のルー・ウォーレスは南北戦争時代の北軍の将軍で1880年に本作の原作を記しているが、睡眠時に見た夢を小説にしたという。本職は軍人・政治家であり宗教とは死に立ち会う度に関わる事はあったが、夢にはイエス・キリストやその弟子達である十二使徒などの聖書に語られる人物が登場する他に、伝承上は生まれたばかりの飼馬桶に寝る幼子イエスの生誕場所を指し示す移動する天体(ダビデの星)を追うように現れ、馬小屋で対面を果たし乳香、没薬、黄金を贈ったという東方から来たとされる三人の博士(天文学者や占星術師)の内の一人、賢者アレキサンドリアのバルタザールが現われ、成長したイエスの姿を追い晩年になるまで探し歩くー。
という夢であった。ウォーレスは夢の内容を非常に印象深く、重く受け止めて小説を書き留め始めたという。これが本作の冒頭部タイトルが出た直ぐ後に表示される A Tale of the Christ BY GENERAL LEW WALLACE」の内、A Tale〜の部分にこの物語とウォーレスが見た夢の意味が集約されていると言われる。
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ジュダ・ベン・ハーは(聖書の中ではユダヤ王はイエスと血統として繋がりがある)王族の血を牽く輸出入の商売を行う裕福なユダヤ人であり母ミリアム妹のティルザと共に暮らしている。ハー家の大番頭サイモニデス代表される多くの使用人からも尊敬されている。サイモニデスの娘エステルは身分が違い過ぎると感じながら幼馴染のジュダを慕いジュダも彼女の気持ちを受け入れていた。まさにユダヤ人の代表になるべくして生まれてきた者であったが、幼い頃から兄弟同様に育ったローマ人であるメッサラに成長後再会するも、裏切られ、名誉を剥奪された上に家族を幽閉され、奴隷としてガレー船漕手として送り込まれる。この時からメッサラ対して怨念と復讐心の鬼となり生きていく事になる。
ガレー船に送り込まれる道中、瀕死の状況に追い込まれるが奇跡が彼に起きる。喉の渇きに耐えられず気力の限界が訪れ倒れ込んでしまったジュダに優しく水を掛け、労わるように飲ませ与える人物。彼はその顔を見上げると、また生きる力が身体中に漲ってくるの感じた。威厳と優しさに満ちたその人の顔を記憶に留める。ローマ兵の一人がその人物を叱責するも威厳に満ちた姿を見た途端に心が圧倒され押し黙ってしまう。
ガレー船の漕手として3年の間怨念と復讐心のみを持ち合わせ生きるジュダ。新しいガレー船に移りそこにカルタゴ征伐の為に乗り合わせてきた新艦隊司令官のクイントゥス・アリウスと出会う。アリウスはジュダの復讐のため命に拘る執着心と闘志力や体力が優れていると見抜き、次第に目をかけるようになる。
神の御心により生き抜くと主張するジュダにアリウスはガレー船の上では神は自分であり、神の恩寵などは無いと断言するが、ジュダは一念は神に通じると言い切る。
アリウスのローマ艦隊は地中海上でカルタゴ軍船と戦闘となる。戦闘直前に漕手の足には鎖が付けられるが、アリウスの命によりジュダの鎖のみ解き放されたままにされる。再び奇跡を感じるジュダ。激しい戦闘の末に司令船は狙われて沈没させられるが、アリウスにより自由を許されていたジュダは海上に投げ出されたアリウスを救い出す。海上を漂う二人。役に立たない者は殺せというアリウスの主張は間違いであり、役に立たないと思われた者も信じれば救われる事を態度で指し示す。
アリウスはローマの軍船に救われる。ローマはカルタゴに大勝利したという話を聞き、アリウスは神の御心で生かされているジュダに助けられた事はローマもジュダの信じる神に救われたという事を確信するようになり彼をローマに連れて行く。
ジュダはローマで戦車競技の騎手として腕を磨き、レースで5度の優勝を果たし、最終的には自由人として、またアリウスも自身の世継ぎとしてローマの市民権をも与えるに至る。
ジュダは5年を経てクイントゥス・アリウスⅡ世としてエルサレムへ帰郷する。帰途の際、ある日ジュダが木陰で休憩をとっていると一人の老人が顔を覗き込むように現れる。その人はジュダと歳格好が似通っているある人物を探しているという。彼こそ数奇な運命に翻弄され神に導かれた晩年のアレキサンドリアの賢者バルタザールであった。彼もまた族長イルデリムの所に招待されていた客人だったのだ。ジュダ・ベン・ハーをイエスと見間違ってしまったのだ。その時は気が付かずに通り過ぎた出来事であったが、この出会いが後にジュダにとって人生を一変させる出来事に繋がっていく。
ジュダは優れたアラビア種の白馬を所有し、エルサレムの戦車競技で一旗あげようとするアラブ族長イルデリムと出会う。競争馬の話で親しくなりメッサラがエルサレムのレースに出ている事を知る。メッサラへの復讐に燃えるジュダはイルデリムと組みメッサラに挑戦状を叩きつけると共に幽閉されているティルザとミリアムを探し出すように依頼する
メッサラはティルザとミリアムが地下牢で生きている事を確認するも、二人共癩を罹っており、癩の谷に追放してしまう。牢を出たティルザとミリアムはエステルを密かに訪ね、ジュダには自分達は死んだと伝えて欲しいとした。エステルは了承する。
エルサレムで帝国主催の戦車競技が始まろうとしている。イルデリムの白馬を操りメッサラとの復讐の激闘が始まる。壮絶な競争の末、ジュダは勝利を手にする。メッサラは最終周回時に戦車が大破、後続馬に轢かれ瀕死の重傷を負う。メッサラは己れの死が近い事を悟り、ジュダを呼び出しティルザとミリアムはまだ生きており、癩の谷にいる事を伝えて苦しみを死の時まで味あわせて息を引き取る。
メッサラが亡くなっても憎悪と悲しみは全く消えず自暴自棄になるジュダ。ミリアムとティルザに会いに行くが、二人の気持ちを考えると再会出来ない。その頃、バルサザールはとうとう長年の希望であったイエスに再会し、自分の信仰を確信して喜びをジュダに伝える。山上の垂訓により心の癒やしを感じたエステルはナザレのイエスの話を聞けば何かが変わるかもしれないと、イエスの話を聞く事を勧めるがジュダは耳を貸さない。
エステルは癩の谷にも出かけてミリアムにイエスの話を聞いて欲しい。一緒にエルサレムへ行って欲しいと懇願する。そこにエステルの後を追いかけてきたジュダが現れる。ミリアムの話によるとティルザがもう死にかけているという。エルサレムにいるナザレのイエスと話せば必ず心の平安を持つことが出来る。二人を連れて行こうとエステルはジュダを説得、ジュダは藁をも攫む気持ちでイエスを尋ねるべく寝たきりのティルザ、ミリアムを連れていく。谷を出る際に怖がるミリアムにエステルは「大丈夫。希望は必ずあります。」と優しく諭す。
13日の金曜日を迎えイエスが他の罪人と共に処刑される事になる。民衆の請願の声にこれ以上の責任は持てないとし、手を洗い清めるピラト。病に苦しむティルザとミリアムを救いたい一心で二人を連れてきたジュダとエステル。時既に遅く刑場へ鞭打たれ十字架を担ぎ進むイエス。途中で力尽き倒れたところ、その姿を発見して居た堪れなく感じて、水を差し入れるジュダ。そこに居た人物は以前に水を恵んでくれたその人であったのだ!驚くジュダ。しかし差し出した柄杓は無惨にもローマ兵により蹴散らされる。病の淵にあっても労りの心を持ってイエスを見守るティルザとミリアム。ジュダはイエスと罪人と見物の人波をかき分けただ歩き追っていく。
イエスを心より敬愛する者、蔑む者、憎む者、喜ぶ者、悲しむ者、さらに多くの様々な人々が見つめる中、ゴルゴタの丘でイエスの十字架への磔を目撃するバルサザールとジュダ。
「残念な事だなバルタザール。私に水と生きる希望
を与えてくれたのは彼だ。何故死刑になるのだ!」
「あの方は全ての人間の罪を代わりに背負い死ぬの
だ。自分は今日死ぬ為に生まれたのだとー。仰っ
ていた。その目的の為にこの世に現れなさった。」
「死ぬ為にか?」
「(いや)これが(全ての)はじまりである。」
バルタザールの言葉を聞き神妙な面持ちとなる
ジュダ・ベン・ハー。
言葉の意味に気付きと悟りを覚え、
その顔は次第に輝きを増していく。
イエスの死と共に大雨と轟音と嵐が吹き荒れ十字架から流れ出た血が大地に染み込んでいく。それはまるでこの地球上のありとあらゆる罪で汚れた大地を洗い流す勢いて拡がり流れ、染み込んでいく。
街中から離れた谷の中で絶望の中にいたティルザとミリアムにも奇跡が。全身に激痛が走る。暫くすると癩が全て消えていたのである。信じ続け愛を与え続けた者に起きた本物の奇跡である。
嵐が過ぎ去り晴れ間が広がる。穏やかな顔のジュダがエステルに話し掛ける。
「イエスが息を引き取る前、父よ。彼らを許したまえ。彼等は何をしているのか分からないのです。とおっしゃるのが聞こえた」
「恨みも全て拭い去られてしまった。」
喜ぶエステル。さらに目を向けるとそこには笑顔のミリアムとティルザの姿。近づき抱擁する四人。ジュダとその家族に新しい日々が始まる。
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オープニングに写し出されるミケランジェロのアダムの創造とミクロス・ローザの音楽が、神と人との壮大な関わりと繋がりを改めて感じさせ且つ考えさせられる。
主演 チャールトン・ヘストン
アカデミー最優秀主演男優賞を受賞。受賞当時30歳であり、脂の乗りきった生涯最高の演技で永遠に記憶に留まる俳優となる。
ミリアム役のマーサ・スコットが品があり美しい。早逝したがメッサラ役のスティーブン・ボイドも目を見張る好演であった。
監督 ウィリアム・ワイラー
「我等の生涯の最良の年」 「ローマの休日」
1959年度アカデミー賞主要部門を含む11部門受賞
人を大量動員して制作されたスペクタクル巨編。戦車競技場面は複数台の65㎜カメラで撮影され70㎜フィルム拡大した映像の効果が最大限に活かされている。本編中でも圧巻の名場面となっている。この映像を創り上げた第二撮影監督のヤキマ・カヌートの身体を張ったスタントは息を呑む大迫力で娯楽作品としても最高の仕上がりをみせている。
⭐️5
1973年頃、新宿ミラノ座リバイバル上映で初鑑賞
以降、鑑賞多数
全60件中、1~20件目を表示