ヘッドライトのレビュー・感想・評価
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誰も微笑みすらしない
総合:55点 ( ストーリー:70点|キャスト:60点|演出:50点|ビジュアル:55点|音楽:50点 )
不幸な家庭を持つ中年男と若い女が出会い、安らぎと愛情を手に入れる。しかしそんな2人は不倫以上に重い問題があって悲恋に終わり、どうにもならない寂しさが残る。それが本作品の物語であるし理解はしたしそう感じもしたが、自分は違った見方もした。
主人公ジャンは家庭に帰ると妻の冷めた対応に直面してこんな家庭は嫌だと思ったが、妻と娘にやたらと絡んで怒鳴るジャンの態度を見ていると、むしろジャンが大きな原因ではないかと思えてきた。ジャンが幼い息子たちに示すとの同じ愛情を妻と娘に示していたなら、彼の家庭は全く違ったものになったのではないか。女主人公のクロは子供のころから不幸な家庭に育ったようだが、それにしても彼女は接客中にこりともしないし客に心づけをもらった際もありがとうの一言すら言わない。
何だかこんな登場人物達は元々自ら不幸を招いている気がして魅力がない。彼らの不幸は自業自得だと思った。
もう1つこの作品をつまらなくしている大きな理由は、演出がはっきりとしてなくて緩いことである。たくさんの客を接客しているクロなのに、なぜ自分の親と同じくらいのしがない中年男に惹かれたのかさっぱりわからない。何故2人が愛情を持つようになったのかをしっかりと描かないと、この作品の根本が崩れてしまう。
その後も2人は多忙ですれ違うし、週に2日、15分か5分しか会えない、3日分会うには80年必要と言っている。それなのにクロが妊娠していたのには驚いたし、ジャンはどれだけ早撃ちなのかにも驚いた。この辺りは時代が時代なだけに具体的に描けなかったのかもしれないが、それにしても分かり辛い。クロの死すらはっきりと描かないし、その後のジャンの家族との元鞘の過程も一気にすっ飛ばす。こういう演出がどうにも作品を曖昧にしていた。現在の演出で再映画化すれば良作になると思う。
物語が気になってウイキペディアで調べてみると、原作では夫の不倫を知った妻が家の窓から身投げして死ぬことになっているらしい。原作とはかなり内容は異なっているようだ。
漫画の女主人公の名前にもなっていたこともあり昔から知っていたフランソワーズ・アルヌール、ここで初めて彼女の作品を観ることが出来た。陰気だが、陰のある女性としての存在感はあった。
ヘッドライト:ラムをくれ 一杯飲んで眠りたい【洋画名言名セリフ】
【ヘッドライト:おすすめポイント】 1.ジャン・ビヤール役ジャン・ギャバンの男っぽさが最高!!! 2.クロチルド・ブラシェ役フランソワーズ・アルヌールも素敵!! 3.1950年代のパリを白黒映像で堪能できるのもいいなぁ! 【ヘッドライト:名言名セリフ】 1.ジャン・ビヤール役ジャン・ギャバンの名言名セリフ →「ラムをくれ 一杯飲んで眠りたい」 →「君は大きすぎて靴下に入らない」 →「有り難いが隠居には早い」 →「俺は出て行くべきだな」 2.クロチルド・ブラシェ役フランソワーズ・アルヌールの名言名セリフ →「イブの夜のこと 私にはいい思い出よ」 →「楽しく散歩中に見えない?」 →「何でも真に受けちゃダメ」 →「止まらないんだ いいわ飛び降りて自殺する」 →「10分間の休暇ぐらい許されるわ」 →「愛じゃなくて”習慣”だわ」 →「今日も”習慣”を交わす」 →「悲しいくらいいい人ね」 【ヘッドライト:個人評価=★★★★】 ★★★★★:今すぐ観るべき‥人生を生きる為の何かを教えてくれる貴重な映画 ★★★★:早めに観るべき‥観る人だれにでも何かを与えてくれる大事な映画 ★★★:まあ観ても良し‥観る人によっては全く意味を持たない普通の映画 ★★:観なくても良し‥単に時間だけを浪費してしまう可能性が高い映画 ★:観てはいけない‥観た後に非常に残念な気持ちを感じてしまう映画
今も昔も
その瞬間はホンモノだった 現実とは違う本物 本音でぶつかり合いささやかな幸せを抱きしめて現実を生きることが本当の幸せなのでしょうがほんのすこし隙間ができると その隙間を埋めてくれる何かがタイミングよく来てしまうと 運命とか定めとか言ってそちらの世界へ行ってしまう どっちに転んだって最後にみんなが笑えることは無いと分かっていても 60年以上も前の作品とは思えないほどの美しさ 奇しくもジャン・ギャバンの誕生日は今日のこの日、5月17日 やっとこの頃海外の古い映画を楽しめるようになりました。
人生の無常
人生の労苦と悲哀にうちひしがれ、苦労の辛酸を嘗め尽くし、それを額に刻んで生きてきた役柄を演じさせたらジャン・ギャバンの右に出る者はいないのではないか。ふとした演技の瞬間にそれが何気なく、ごく自然に表れる。勿論、彼の演技はそれにとどまらず、他のどのような役を演じてもそれを見事にこなしてしまう。そこがジャン・ギャバンのすごいところだと思う。この作品では初老のトラック運転手として仕事をしてゆくうちに、また冷たく暗い家庭に生きていくことによって、鬱積した不満や苦悩から、今流に言へばブラックドライブインで、けなげに働くクロチルド ( フランソワーズ・アルヌール ) と恋仲になるのは必然な成り行きあったかもしれない。それでは何故クロはジャン ( ジャン・ギャバン ) に魅かれたか、思うにジャンの所作に人生の年輪を見て取ったからではないか。細かいストーリーは省く。クロがジャンに自分の妊娠を結果的に伝えられなかったことは、彼女の内向きなやさしい性格のためではなかったか。これらの事実はやがて悲劇的 結末へと収斂されてゆく。まだ充分な説明になっていないが、最後にジャンの相棒ピエロ ( ピエール・モンディ ) やジャンに再就職を斡旋した友人達がこの作品の脇を固めている。
クロ(フランソワーズ・アルヌール)の悲劇。 ジジイと不倫したのがそ...
クロ(フランソワーズ・アルヌール)の悲劇。 ジジイと不倫したのがそもそもの間違いであった。ジャン・ギャバンはそれほどに魅力的ということか。 トラックの運転手って洋の東西、時代を問わず過酷過ぎる労働ですね。フランスの昔のトラック、いけてるぞ! あと、昔のフランスのラブホ事情も知ることができます(笑)
独白で語れる恋ではないはず。
フランソワーズ・アルヌールを最初に観たときは、ジュリエット・ビノシュかと思った。両者の若い頃は似ている。 映画で描かれている物語を、自らの倫理観に照らして批判する物言いが目障りな今日この頃。作品の時代性、製作された国や地域の文化的・宗教的な背景に頓着せずに、登場人物の不道徳な行為を批判したり、差別用語の使用を非難することは、映画のテクストとしての受容の仕方として貧困の極みである。 しかし、堕胎後の容態が悪化して命を落とすアルヌールに対して、ジャン・ギャバンのその後の描かれ方は、あまりにも何事もなかったかのような生活ぶりである。以前から冷え切った夫婦関係にもそれ以上の変化があったようには描かれていない。相変わらず出会いのドライブインに立ち寄り、仮眠をとり、終わった恋を回想している。 他人にしみじみと語ることができるような恋の終わりではなかったはずである。ギャバンのモノローグが入ることによって、彼に罪の意識があるようには見えないのだ。彼のその後を、もっとどん底に落とさなければ、この悲恋を観てきた者たちはカタストロフを得られない。
不倫への天罰
手あたり次第にNHKBSプレミアムからの録画のため、フランス映画なんて興味がないものの、俳優の名前はうっすらきいたことがあり、実益はないが多少は知識になるかと思い今日はこれを選んだ。昭和31年に上映されたのか。この時代にモノクロ映画だがどういうわけかわからん。男優が53歳で女優が25歳の共演らしい。年の差の恋愛映画はある意味洗脳的に有難いかも知れないが、
内容が不倫だからいけないので、私にとっては悪くこき下ろす事になる。神に背いているから、女が死ぬことになる。ヤッてしまったものの、女が死ぬのでは座間で起きた猟奇的事件と同じような事である。違うと言ってはいけない。本当の幸福は結婚した相手と生涯付き添う事だからである。これは曲げられない。このような不倫を美化するような作り物は何を意味しているのだろうか。もし週刊文春が暴露しなかったらクリスマスにハーフのバラエティータレントときのこ頭のミュージシャンが略奪婚してすべて大成功で良かったのだろうか。2時間サスペンスなんかだと思ってくれていた奥さんを愛人と共謀して殺してしまい大成功みたいな作り物さえ出来てしまうのであろう。隠していれば不信感が水面下で横行し、開き直ればフリーセックスという乱交になり、近親や家畜とさえ性行為するようになるであろう。フランスとは一体なにか。不倫話はフランスだけではないのだろうが。経済もそうだが、自由にやりすぎるとどこまでも欲望が強いものが多くの略奪をする。金なら抗議するのに左翼でさえ、女や男を2倍も3倍も30倍も略奪している事には鷹揚なのである。バカとしか言いようがない。そこが政権が左翼が永久にとれない原因なのだろう。中国や北朝鮮のような国はさっぱりわからない。だからこそ脅威なだけである。だが日本より性に関しては指導が正しいのかどうかもわからない。そんなことを教師は教えない。悪を描いている映画なのだ。妻子がいると知りながら女は不倫性行為してしまうのである。政治家やタレントと違い、長距離トラックの運転手とウエイトレスの不倫である。妻子と離れて遠くでやっているからわからない。マスコミも追いかけない。
だが、だからこそしてはいけないことをあえてしない事が人間の崇高性である。それを破壊している行為を美化するのは神への冒涜である。これが良ければ、近親とも動物とも座間連続殺人さえ
どこまで許されるのかわからなくなってしまう。暴露しなければ何をしてもいいのかというのがある。生命的には生かしていても、精神的には殺しあっている。元から絶たねばダメなのである。夏目漱石も不倫物語は幸福にしなかったが、この映画も女が死ぬ。これで罪を軽減しているつもりではある。むしろ太宰治なんかは愛人と心中しようとしたのだから倫理的だったのかも知れない。座間殺人の白石はそれさえ騙し、自身は死ぬつもりはなく、金目当てだったとするのだ。女は不倫相手との命に人工中絶を為し、それが元で死ぬらしい。そして男は結局家庭の妻子の元に戻るのである。
女はモノとして思い出だけに美化されて、戻る事のない昇天をするだけなのである。現在の女は死にたくもなく、快楽だけ欲しいから、避妊して、食事や金までもらい、堂々として罪の意識もなんにもなく、離婚回数にもカウントされず、肉欲と金欲で男を渡り歩いているのである。楽しい成功映画になるだろう。そうした悪事を雰囲気ある俳優や美人女優にさせてきた映画というメディアはいったいなにを目的としていたのだろう。でもこの映画では女は死ぬ。そこだけは救われている。今の女は死なない。性欲だけを消費し続ける。子供を可愛いとは思わない。自分自身の子供の頃なんか忘れてさえいるのだ。または不倫するような女は両親から愛されてはいなかったのだ。その女の両親は金のほうが大事だったのだ。それへの復讐が不倫の場合もあるのかも知れない。この映画でも娘が踊っている会場で、不倫相手と踊るシーンがある。娘は「お父さんもお盛んね」と言う。人にもよるのだろうが、53歳はずいぶん爺さんに見える。会場で不倫相手と家族が同時に席につくシーンがある。どこまでもふざけた不倫女である。美人女優なので怒りは犯したいという気持ちにもなるだろう。このように悪は悪を連鎖させる。連鎖しない者は麻痺させる。寝取られて興奮するような変態である。こういう映画は不倫者が死ぬところを見る以外は時間の無駄なのだが、批評のためには見なければならない。相手に家族があるために多少は悩む女を描いているのも少しは救いがあるが、現在の女は悩みさえない。肉欲快楽の楽しさだけあれば良くて、つまらなくなったら相手を乗り換えるだけである。こんな女ばかりにしてしまったのだから、どこでも不正ばかりまかり通るのはもっともだ。だいたい、娘が不倫妊娠に怒ったら、逆に頬を思い切りぶってしまうオヤジである。
これはどう説明したら良いのだ。しかし不倫相手と遊んでしまった事で勤務が不安定になりクビになってしまう。ざまあみろだ。妻子は辛い思いをする。螺旋階段でのめまいから不倫女の死への予兆がイメージされる。モノクロで静かな感じも怖さを助長する。妊娠中なのにタバコを吸うシーンも破滅的である。日本では年間20万件前後の中絶が続いているというが、いかがわしい場所での
中絶シーンのような所になる。屋根裏から中絶器具を取り出す暗示がまた恐怖映画なのである。異常の構図の取り方は上手い。不倫男の友人のお人よし男が女のもとを訪ねてくる。不倫男の近況を短く伝える。「苦労のないものは人にも親切なのさ」不倫女は中絶後に具体が悪くて寝ている。
不倫男がきて、不倫女を大型トラックで連れ出す。不倫女は中絶後で具合が悪いが不倫男はわからない。女は言わない。ボルドーまであと300キロも揺られて移動する。女はトラックの中で横になっている。真夜中に重体の女を乗せたトラックがひた走るのが初老の男の運転士のどうしようもなさを描き、霧で前に進めなくなり、女は荒い呼吸をしている。救急車が来るまでは夜が明けてきたからずいぶん時間が経過してしまったのだろう。霧で進めなかったのだという。担架で運ばれる女はもう声も出せない。やがて女の死を知らされる。というところで回想が終わり、男は妻子の元に戻っているのを知らせて終える。不倫は悪い。
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