「諦めたもん勝ち」死亡遊戯 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
諦めたもん勝ち
なんかもう「杜撰」の一言でパッと片付けたい気持ちもあるんだけど、それはそうと「せっかくフィルムの断片が残ってるんだから足りない部分は代役で補って映画にしちゃおう!」という潔さにはメチャクチャ好感が持てる。
何であれ創作行為には不確定要素が絡まってくるものだ。映画であればうっかり何かが映り込んじゃったとか、セリフを間違えちゃったとか、あるいは役者が途中で死んじゃったとか。
映画は小説や漫画と違って基本的に大多数の人間が協働的に作るものだから、やり直しが利きにくい。「完璧」などというものを目指そうとすれば途方もない回数の試行が要求される。もちろん金も時間もかかる。だからどこかで諦めないといけない。これでいいかと妥協しないといけない。
役者が死んじゃったなんてのは一番どうしようもない。金と時間がいくらあっても死者は決して蘇らないのだから。でも本作の場合はそこでお蔵入りさせなかった。ツギハギで焼き増ししまくって一本の映画に仕立て上げた。いわば「これで本当にいいのか?」という作家的懊悩を全力で諦めた。鏡にリーの顔写真を貼り付けて代役を誤魔化すシーンなんかは笑いを飛び越えて尊敬の念すら湧いてくる。
ホドロフスキーやテリー・ギリアムあたりの制作頓挫エピソードを聞くと「映画に真剣に向き合っているからこそだなあ」みたいな感想がつい思い浮かぶけど、本作を見ているとそういうメンタリティのもとで作られるものばかりが映画じゃないんだよな、と反省させられる。
本作は作家的懊悩を完全に諦めた。しかし諦めたことによって、事実『死亡遊戯』という一本の映画が世に放たれた。ブルース・リー最後の勇姿がスクリーンの前の観衆に届いた。脚本はガバガバだし代役は全然似てないけど、それでも誰の目にも触れることなく歴史の狭間に沈み込んでいくよりはよっぽどいい。
諦めた、とネガティブな言い方をしたが、そこには「どうせだし見せてあげるよ!」という気前のよさも含まれていたと思う。思えばジャッキー映画のエンドロールにありがちなNGシーン集も、そういう素朴なもてなし精神の表れなのかもしれない。
「愛おしいクソ映画」というジャンルがあるとすれば、本作とエド・ウッド『プラン9・フロム・アウタースペース』はまず筆頭に上がってくることだろう。