8 1/2のレビュー・感想・評価
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陳腐だが普遍的な内容、その映像
主人公である映画人の叙事詩なのだが、モノクロ、時代背景がわからない為、とても幻想的、抽象的な印象を受ける。
幻想的、或いは抽象的なシーンのあとセリフ展開が始まり、また次のチャプターでは幻想的、抽象的なシーンが入りストーリーが入るという作りで、物語を掴みにくい。また物語自体は中年の叙事詩であり、特段感じるものはない。
では何が良いか?
それはその幻想的、抽象的な映像とセリフ展開の作りそのものと、出てくる映像がとても素晴らしい事。
話題の冒頭のシーンのあと、広場で人が集まってるシーンは意味がわからないままである。老人の視点は虚ろ、誰もこちらを気にしない、そのシーンはとても美しく、天国というものはこのような雰囲気であればと思った。
この映像が1900年代前半に作られてる事を含めると素晴らしい芸術作品。
すっきりせず2回目鑑賞で追記
イタリア映画の典型的な能天気×シリアス、人生は楽しもう、大団円に、というもの。
内容は女、仕事を軸に展開し、ハーレム、パトロン、カトリックという在りがちなテーマで陳腐、しかしながら、結局人間なんてそれしかない、それを幻想的な映像で展開している。
幻想の導入、与太話というシークエンスが当時は新鮮だった。
では、それまでかというと、妻にも、クラウディアにも中途半端、結局何がしたいんだとう絶望からふいに軽くなる、力が出るときは確かに「それでも踊ろうよ?」という感覚があり、それを表現したのは見事。
これだからゲージュツ映画は
つまらん。
午前10時の映画祭のラインナップに入らなかったら絶対観ない一本。
巨匠フェリーニのブランドで名作だと思い込んで我慢して
映画通気取りで観ている人はいないのかなー?
単細胞の私の脳みそには内容が全く入って来なかった。
延々と意味不明の映像と全く繋がらない台詞。
カメラワークも今風じゃないので物凄い違和感。
何から何まで理解不能のゲージュツ作品。
カーチェイス、銃撃戦、殺人鬼、宇宙船、大災害、スーパーヒーローの
エンタメ映画の方が面白いに決まっている。
やっぱり欧州古典映画は無理でした。
やっぱり、フェリー二は凄い。
私が映画のベスト5に挙げている映画だ。スクリーン画面で観るのは初めて。テレビ画面で見るより、スクリーンはいい。
この映画を難解だと評する人は多い。小説で例えるとジョイスの「ユリシーズ」みたいな作品だからだ。支離滅裂と言われても仕方がないなと思う。
芸術作品を創作している人だとわかり易いかもしれない。但し、成功している人だけだ。世界的名声を得たフェリーニが、自身の体験をぶち込んだ作品だ。でも、よく見るとところどころ、マストロヤンニが真実と思われるセリフを語り、繋げてみるとこの作品が理解しやすいと考える。
しかし、公開時、この映画は有名な映画賞を受賞しているはずだ。分かる人には、分かる映画か。
圧巻のラスト
監督は次回作の構想に頭を悩ませていた。
ツタヤでずいぶん前に借りて鑑賞し、あまりに感動したためその後、リバイバル上映された際、遠くの劇場まで足を伸ばして観る。
生涯ベスト10に入る名作。
自分を売り込みに来る厚かましくも貪欲な役者たち、
小難しい足かせを説く宗教検閲、
こまごまと、しかし一番厄介な個人的な事情のあれこれ、
なにより巨匠は次に何を撮影するのか、
大衆の大いなる期待。
俗っぽさの極みに翻弄され、無邪気なプレッシャーに襲われて、
それでも名監督として堂々振る舞わねばならず、
しかし迫る製作発表の日。
期待に満ちた目が、監督を追い詰めるあの残酷さは痛々しく、
そこから一気にファンタジーへ飛んだ時の開放感たるや。
何があろうとあなたの味方、といわんばかりのあの混然一体とした幸福感とパワフルさに
涙腺崩壊だった。
そしてこれを言葉でうまく表現しろ、と言われてもとても難しい。
ただ人前で何かを表現したことがある人なら、
その舞台袖で、公開前に、震えながら本番を待つ、
あの酷くみじめで恐怖に満ちた、けれど本当は愛に包まれた瞬間が
同様に本作に流れている事を理解してもらえるんじゃないかと思う。
人生はお祭りだ!
「午前十時の映画祭」で鑑賞。
映画や美術作品を鑑賞して、その感想を述べるときに「わからない」という言葉は使いたくないのだが、この映画、何をやりたいのか、何が言いたいのか、ハッキリ言ってよくわからなかった。虚実綯い交ぜのストーリーに混乱するところも多く、たびたび眠気にも襲われ、「これが傑作と呼ばれる所以は?」などと考えながらスクリーンを見つめていた。
けれど――けれど、ラストシーンには感動してしまった。
なんか知らんけど、こころが震えた。
高揚感と悲哀、混沌と狂騒、炸裂するイメージとぶっ飛んだ演出……。何よりも、生命感にあふれている気がする。こんな映画なかなかないんじゃないか?
「うん、やっぱり傑作かもしれないな」と、さっき観たシーンの数々を反芻しながら、これを書いている今そう思うのだった。
いちばん印象に残ったセリフ――それは、グイドがラストに語る「人生はお祭りだ 一緒に過ごそう (“ともに楽しもう” だったかな?)」という言葉だ。
よくわからん映画だったが、このセリフが監督からのメッセージなのだろうと僕は勝手に受け取った。
そして、映画館からの帰り道、僕はちょっと元気になっていた。
観終わったあと、元気になる映画は、いい映画だと思う。
難しいが貴重なものを観た気がする
映画監督のグイドは、新作の構想で悩みクランクインを延期していた。温泉地を訪れたグイドは女性たちとの関係や仕事上の知人たちとの現実に悩まされ、様々な夢や幻覚が現われ・・・てな話。
これ、たぶんストーリーが有って無いようなものなんだろうと思った。
男も女も浮気しても良いってな雰囲気もあるし、哲学的だったり、政治的だったり、もちろん文化的で、凄く奥深い事を作品の中に散りばめてるように感じた。
映画を作るためにはそんな色々な要素を脚本に込め、キャストを厳選し、舞台美術に細心の注意を払い、音響やBGMを考え、凄く神経をすり減らされるものなんだろうと感じた。
タイトルの意味が観賞後もわからず、ググったら、作品数なんだと知れた。面白い事をする監督だなぁ。
クリエイターの迷宮
久しぶりに観たフェリーニの作品で、非常に難解ながらも映像やキャラクターの魅力に強い引力を感じました。次回作に行き詰まり湯治場に逃げてきた映画監督が、次から次へと現れる映画の関係者や愛人、女房に振り回されるのが何ともおかしいです。そこに、クリエイターの原風景となる幼少期のエピソードや今は亡き両親との会話などを挿入し、現実と幻想の区別を曖昧にしながら、フェリーニ好みの大道芸趣味の猥雑さが加わった独特の映像世界のインパクトが強烈です。映画監督として撮りたいものと周囲が期待しているもののギャップに苦しむのは、まさにクリエイターでないと理解できないのかもしれません。だからこそ、フランソワ・トリュフォーやボブ・フォッシー、北野武等のクリエイター達が同じタイプの作品を作っているのがよくわかりました。役者では、マストロヤンニの当て書きのような名演で、伊達男とコミカルさのバランスが絶妙です。女優も素晴らしい人ばかりですが、クラウディア・カルディナーレの息を呑むような美しさはダントツでした。
騒々しい夢のような作品の中で終幕の語りとその情景が強烈に印象に残る...
騒々しい夢のような作品の中で終幕の語りとその情景が強烈に印象に残る作品.これは僕の知っている映画ではない.フェデリーニが発明したなにかであると思ってしまうような唯一無二の存在だった.作品を作るときに重要なのは駄作を世に出さないことであるという事について深く首肯すると同時に,できる限り沈黙していられるようにありたいとSNSで自分を偽る時代にいる中で身にしみて感じた.
映画監督フェリーニの私小説的映画宇宙の、解体と再構築のイマジネーションのスペクタクル
これは正しく映画の大傑作である。映画の特質を生かした、映画監督フェデリコ・フェリーニの映画のための映画だ。あの「アマルコルド」の時と同じく、感動で全身が震える快感に身を委ねるが、フェリーニ監督の40代の若き作品だけに、その活気ある演出と表現力に圧倒されてしまった。「道」のリアリズムタッチは、幻想と感覚の大胆な発露によって内包化されている。替わって作者自身の自己批判と映画創作の苦悩、そして女性に囲まれる男の夢、そこから映画監督として新しい創造の世界に挑戦する使命感まで、フェリーニ独自の映画的宇宙の時空を自由自在に飛行していて、真に面白い。私小説の如き作家の内面を探る興味深さ。想像力豊かな映像の饗宴、そこにある研ぎ澄まれた映像感覚の独自性と内容の個人的な告白の両立によって、この傑作はフェリーニ映画の真骨頂として記録されるべきである。同じイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が耽美的映像美術を創造しながら、何処か映画形態を否定する教養が観客の足枷になるのに対して、サーカスに強い憧憬を持って映画人になったフェリーニ監督のスペクタクル性は映画そのものの魅力に溢れている。イタリア映画は、この二大巨匠を生んだことだけでも偉大であろう。
先ず導入部の主人公の幻覚シーンが、その当時の文明社会における人間の孤独を描いて見事だ。機械文明と情報氾濫の中に埋もれた一人の映画人の心情がイマジネーション豊かに表現されている。続いて湯治場の群衆シーンになるが、このスローモーション撮影による感情のない人形みたいな虚無感の演出には驚嘆した。音楽との調和も素晴らしく、この映像感覚には脱帽である。
主人公が少年時代を回想するシーンも面白い。大家族の様子や、海岸で出会う巨漢の女性とのダンス、そのことで神父から叱られる神学校の描写など。フェリーニ監督の記憶がノスタルジーに止まらず、常に現在の主人公の心理に反映されている。そして移動ばかりの映画撮影の裏側を見せながら、ラスト大規模なオープンセットのクライマックスとなり、一度失意のどん底にいた主人公が映画創作に全精力を注ぐ結末の、何とも言えない寂しさがいい。ラストシーンの印象的な幕切れは、この映画の製作成功を意味した心地良い境地に誘う。映画を愛する人なら、この傑作は貴重な宝ものになろうし、映画監督の大変さに想いを寄せるだろう。それだけの自己分析の厳しさが、フェリーニ監督の中に確実にあるからだ。
1978年 12月12日 フィルムセンター
女神カルディナーレ
正直で嘘のない映画をつくろうっていうのなら、やはりああいうことになるのだろうね。
名作の誉高い作品をようやく鑑賞したが、構図の見事なカメラワークやクラウディオ・カルディナーレのこの世のものとは思えないのになぜか庶民ぽさも感じる美しさが印象に残っただけで、自分には受け付けない映画だということがわかった。
ハーレムも考えものだな。あんなに面倒くさくてイラついて、自分のダメなところを見せつけられるなら、一人でいた方がずっといい。結局、とてつもない寛容さと、マメさがなければ、自分に正直になんて生きられないのか。
明るくて悲しい。
映画
『8 1/2』
の感想をブログに上げました。
監督:フェデリコフェリーニ
制作年:1963年
制作国:イタリア フランス
アカデミー賞 外国語映画賞
【あらすじ】
スランプに陥った映画監督が、キャスト、スタッフ、妻、愛人、空想の人々と交わり苦悩しながら映画作りを進める物語。
現実、妄想、映画のイメージ、過去の記憶の4つの映像が混在する世界で進行する物語は明るくて悲しい。
フェリーニの自伝的映画。
【感想】
自分の中で最高の一本の一つです。
映画全体を通して、笑いの中に感傷的な思いが漂っており、穏やかにじんわりとした気持ちで酔わせてくれる映画でした。
映画史に残るラストシーンも素晴らしいです。
ダメ人間を愛してやまない方にもお勧めの映画です。
ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
微妙な感覚の映像化
あらすじ
映画監督であるグイドは、新作の構想に頭を悩ませている。実績もあり、次回作が期待されているものの、新しいアイデアはうまくまとまらず、関係者の意見も厳しい。
そんな時、グイドは体調が思わしくないことから保養地に滞在するよう医者からのアドバイスを受ける。妻のルイザを残し、その場所で映画の構想を練る。その地での逢瀬、幼少期の回顧などに着想するが、どれも受けは良くない。疲労していくなか、家に残るルイザを保養地に誘うことにした。夫婦の間には溝があり、原因はグイドの不貞である。グイドのもとには過去に関係のあった女たちが次々現れ、夫婦の溝は顕在化することとなる。同時にグイド自身が、どの愛をも信用できていないことに気付く。
制作途中の映画の大掛かりな舞台セットは完成間近である。しかし続く物語は相変わらず決まらない。いよいよテーマを決定しなければならないが、結局4つの候補はどれもボツ。セットは不要となり破壊することとなった。しかし、制作中止となった時、自身の混乱の原因が、自身のこれまでの過去の無秩序にあったことに気づき、それを救うものは妻のルイザの存在であるように思われた。そのことが彼に映画製作の情熱をかき立てる。
感想
まずは、難しいというのが率直な印象。彼自身の混乱というものが描かれていると分かるまで、これは一体なんの映画なんだろうと思ってしまいました。けれども、現実とその現実から知らず知らずのうちにかけ離れ妄想の世界に入り込んでいく、そんな個々人が無意識に経験しているであろう感覚を見事に再現・表現しているようにも思います。
妄想(回想)シーンでのストーリーの進み方は特に面白いと思いました。かなり誇張された登場人物の語りや、人物表現。サラギーナが出てくる幼少期の回想などは、神学校の彼がマントを被った姿で描かれますが、そのフォルムの可愛らしさなどもすごく目を惹きます。サラギーナとの接触を嗜める大人たちの姿をなど、観ていて美しいなと思うシーンが多いのが、この時の回想でした。白黒映像の良さというのも感じます。
「人生は祭だ。ともに踊ろう。」というセリフはこの映画にとっておそらくかなりキャッチャーなものだと思いますが、妻への想いを新たにしたグイドの言葉です。そういうと、彼の人生における過去も現在も含めた登場人物たちが手をつなぐなかへ、2人も飛び込み踊るのです。印象的な言葉と映像です。
これをどう解釈していいのか、早く解説が読みたいと思っているのですが、その前に思っていることを書いておきたいと思います。
妻も含め、過去の人たちの輪に入るということは、現在の自分たちとその人たちを、同列化するということのように見えます。つまり、彼はそれまで様々な女性との愛を語りながら、じつはそのどれもに真実を見ていない存在でした。そのことに彼自身が過去のしこりのように感じていて、遠ざけたいものと思ってしまっていたのです。しかしそのことで、彼は却って囚われてしまう。彼の映像製作もそこから抜け出せないのです。
過去の人物と、今の自分を同列化することは、そんな垣根を壊し、意識が分散することなく、今の自分たちに向けられていくということを表してるのかなと思いました。そしてそのことはとてもポジティブなことです。人生は祭、とはとても良い言葉ですね。
とりあえずこんなこと書きましたが、多分これから何度か観て、またいろいろな感想を持つと思います。
ASA NISI MASA
はちとにぶんのいち⇨ようかとにぶんのいち⇨はつかにぶんのいち⇨はっかにぶんのいち
まず読めなかった。
未だに【はっ↘︎か】なのか【はっ↗︎か】なのか…
ずっと気になっていたフェリーニ作品。
高評価の一方で、「難解」「自分にはまだ早かった」「退屈」「眠い」との声もたくさんあり、「まさかねぇ」と。
まだアマルコルドしか観てないけど、あの雰囲気でそんな訳……ありました。
びっくりするぐらいその通り。
眠くなるまいと意気込んでいたのに、半分も行かずにウトウト。
ただ(また、矛盾文になりますが)、退屈なのに楽しいという謎現象。
分かりそうで分からない、難解映画特有のあの感じ。
あ、分かりそうと思って観ていたら、どんどん分からなくなっていくという。
ネタバレ解説を読んだら、意外にあらすじ自体はしっかり掴めていましたが、
謎、謎だ、謎すぎる、この映画!
簡単なあらすじとしては、映画監督のグイドが新たな映画制作のために温泉療養をするものの、良い案が思いつかず、周りから圧力をかけられ、女性関係ももつれ、ちょっとずつ病んでいくみたいなおはなし。
冒頭の車の渋滞(あのシーンの煙は、周りからの重圧ですよね)からの空中浮遊、そして自分が凧みたいになってしまうあの夢(?)で、これヤバイなと悟り…
その後も夢だかなんだか分かりませんが、幻想シーンが入るのですが、恐らくその幻想と現実が入り乱れ過ぎていて区別がつかないのが、難解さの最大の理由なんじゃないでしょうか。
映像、音楽はやはり良くて、そこはしっかりと味わうことができました。
フェリーニ節楽しいです(特に最後の円になって踊るところは最高)。
アマルコルドも徐々に好きになっていったように、これも反芻映画のような気がします。
今はこの多少のモヤモヤを持ち続けて、少し時間が経ってからまた観たいと思いました。
また違った味わい、良さが感じられるでしょう。
きっと。
映画化された自由連想・箱庭的なもの。
よくぞここまで己の内面をさらけ出したものだ。
尤も、映像や音響等他の人の手が入っているので、無意識の世界というより、ち密に再構成・再創造された表象の世界である。とは言え、その表象世界におけるそれぞれの布置等と考え出すと、興味をそそられてのめり込んでしまう。ひっくり返ったおもちゃ箱。
監督はユングに傾倒していたとか。ユング心理学や夢分析の知識でもあればさらに楽しめるんだろうな。
ミュージカル・映画『NINE』の原作。
難解。
映画『NINE』の方がミュージカル仕立てという特性もあってメリハリがはっきりしていてまだ解りやすく作っている。しかも『NINE』はハリウッド映画で有名どころがたくさん出演していらしたから人物を取り違えることは無かった。
けど、こちらは古いイタリア映画だけあって、インパクトある俳優以外は皆同じに見えてきて、1回見ただけじゃ把握しきれない。相当予習が必要かも。
かつ、飛ぶ鳥落とす勢いの監督グイドに群がる人・人・人。常に騒がしい。
かつ、グイドの現実・願望・妄想・思い出が入り混じる。どこからが現実でどこからが内的現実なのか定かではない。
スランプになった監督の悪あがき。人間関係も行き詰っている(こっちは自業自得だが)。
ものすごく身につまされる。
今までとこれから、周りからの期待と自分らしさの狭間で、押し潰されそうになっていた私には珠玉の台詞が満載。重苦しいべたべたとした雰囲気が、最期に少しだけ軽くなった。断捨離って必要ですね。
(自死を匂わせるシーンもあり、そういう解釈の方もいらっしゃることを考えるとぞっとするが、自殺のシーンが妄想・断捨離のある意味の比喩と、私は解釈)
これだけハチャメチャなのにもかかわらず、映画と成立しているところがすごい。他の映画なら時間返せと叫ぶのに、この映画からは何故か目が離せない。落としどころをどうするのかがすごく気になって、最後まで見てしまう。
女性のファッションも真似したいものから、反面教師的なものまで。
役者の所作だけでも見応え有る。
特筆すべきは、主人公にマストロヤンニ氏を起用。
『ひまわり』のようなシリアスなものから、『ああ結婚』のような喜劇役者までこなせる役者。
この映画でも、『ああ結婚』でも、女にだらしない自己中人間を演じながらも、徹底的な嫌悪感を抱かせない色悪を演じられる方。
超セクシー・かっこいいマストロヤンニ氏のあんなカッコが見られるなんて(ブブッ)。
スランプを扱っているにもかかわらず、重すぎない、でも、上記のような自死を匂わせる危なさをだせる役者。
つい放っておけなくて、グイドの顛末を見届けたくなる。
そして音楽。
『アマルコルド』と似た旋律もあるが、どちらもロータ氏なのでご愛敬。
見る人を選ぶ映画。合う人と合わない人がはっきり分かれる。
語り合いたくなる映画だが、お勧めしにくい。
分かり易さで言うなら『NINE』の勝ち。
蛇足と見るかはともかくとして、『NINE』はグイドが悔い改めて再生まで見せてくれるし。
でも分かり易いってことは「分けて」「整理する」こと。分断してラベリングする必要がある。リメイクなら、リメイクした監督によって整理されラベリングされている。
そこには混沌の中から、自分なりの宝石を見つける楽しさも、思いがけないものを組み合わせて生み出す楽しさもなくなる。
きちんと整理されている心の部屋は、心地良いし、利便性が高いが、錬金術的反応は起こりにくいし、アドベンチャー気分も味わいにくい。
何もかもを大事に抱えていると動けなくなるが、整理することで取りこぼすものも出てくる。何が必要で何を捨てるべきかは自分で決めるもの。私の人生なのだから。
どちらがお好みかは正解は無く、個人の嗜好の問題。
どうやら私は、整理された世界より、様々なものが行き交う世界が好きなようだ。
そしてそんな世界の中から宝物を探したくて、幾度となくこの映画を観てしまう。
面白かった✨
祝祭劇系の歌舞伎みたいだった。映像そのものを楽しめばいいんだな、と思った。TENETみたいに、考えずに感じろ!さらに、目で楽しめ!
ソレンティーノの映画が好きで、彼が「フェリーニの継承者」と言われる意味が、「道」と「甘い生活」しか知らなかった自分にはよくわからなかった。でも、この映画を見て分かった気がした。ソレンティーノの「グレートビューティー」も「グランドフィナーレ(原題:Youth)」も「LORO」も、妻または初恋の女性の存在が重要で、単細胞的幼児性から離れられない(いい年した)男性を、ママ(=妻)は全部認めてくれる?という願望と、それを許してくれない現実がせめぎ合っている。そして若さと老い・死が大きなテーマとなっている。
フェリーニの時代、多分どこの国でも、40代といったら立派な大人で中年。でも社会で貼られてしまった「大人」レッテルと、「実は自分、まだガキなんです」実態を映像にしてみたよ、がこの映画なんじゃないかなあ。
子どもの頃の呪文、大人の世界を垣間見たドキドキ感、王子様みたいに扱われた快感の記憶、妻がなんでも許してくれたらどんなに素敵でしょう願望、ハーレムへの憧れ、若い人だけ居ればいいから年寄り不要!、仕事でむかつくあいつ死ね!なんとまあ身勝手な。で、最後は大団円!歌舞伎とか長唄が大得意とする、色々ありましたが、明るく踊ってめでたくお賑やかにお開き~。なんかすごく慣れ親しんでる世界でびっくりした。こういう映画をドラマトゥルギーが大昔からあるヨーロッパで作るって、すごい大変で勇気がいったのではないかと想像する。
修道女やカトリックの坊さん、鳥の鳴き声、温泉療法での行列、番号で呼ばれる、美女、パフォーマンス、記憶・夢想・空想世界は、上で挙げたソレンティーノの映画にも出てくる。主人公は名をなした作曲家だったり処女作1本だけの小説家だったり政治家だったり。共通点は、老いている、超リッチである、知り合いは皆セレブである。
冒頭の渋滞道路で、動く映像が静止画像になるところがすごく好き。映像の面白さは抜群だと思った。
グイドの妻ルイザはアヌーク・エーメなんだ!全然わからなかった。美しい!清楚で純粋な感じが、フェリーニのパートナーのジュリエッタ・マシーナを彷彿とさせた。マストロヤンニは黒縁メガネがハンサム度を少し下げて、コミカル度を上げてた。
音楽は、いきなりワルキューレかー!くるみ割り人形のチェレスタ?とビックリしたので、ニノ・ロータの音楽がどれだかなんだかわからなくなってしまったのが残念でした。
"40代半ばにして自信を失い、身動きがとれなくなった男" というコ...
"40代半ばにして自信を失い、身動きがとれなくなった男" というコンセプトだけが自分の中で決定しているが、映画はちっとも進まない。有名監督になった男の苦悩を描く話。
主人公は、「思い描く理想の女性像と現実とのギャップに思い悩んでいる私」 を撮ってみようと思い立った。ありのままに自分を描いてみようと素直に撮っていった。そうして撮れたものは、「自らもすでに齢40に達しているくせに、『年齢が上になった女は2Fに登り、そこで静かに暮らせ。(俺が他の若い女たちと楽しむ1Fに降りてくるんじゃない)』 とほざく男。まるで "ハーレムの長(おさ)" の絵」 だった。まさに ”クズ” だ。 おいおい、さすがにこの絵では共感してくれる観客は多くないのではないかという、ようやく認められた映画監督としての、耐え難い恐怖。
フェリーニ監督本人が、前々作 「道」 でアカデミー外国語映画賞を受賞し、前作 「甘い生活」 ではカンヌ パルムドゥールを獲得。ここまで高めてきた周囲の期待を超える "次の映画" (本作である)はなかなか撮れず、毎日圧し潰されそうだ。そんな八方ふさがりで苦しみぬいていたある日、まさに天啓のように、主人公に光が降ってきた(もしくは、心の中に突然光がきらめいた、か)。
本作を観る前に、本作にまつわるさまざまなエピソードを、みんなのレビューから事前に学んでおいたおかげで、話に置いて行かれることもなく、観ることができた。きっと、"監督の思ったままを忠実に描いた映画" なのだろうとも思った。
ただ正直な感想は、「これが素晴らしいの?面白いの?」 だったなあ。俺にはあわなかったってことか。やっぱ、もっともっと学ぶことがあるらしい。映画の深さって、底知れないなあ。
追伸
L'ATALANTE というサイトで語られている、「『フェリーニの8 1/2』 という無敵の映画のこと」 という評が、いちばんしっくりきたかなあ。
おまけ
本作のオープニングが 「(煙草を吸う)大人たちの目から逃れたい」 というイメージを喚起するということは、いくつかの解説を読んで、事前にインプットしていった情報だ。なるほど。
しかし実際に観た俺は、どうだったか。まったくピンとこなかった。 「上のように感じた人は、よくぞ、そんな風に受け取ったな。受け取れた人たちの想像力が豊富だ」 という感想。自分の感受性の低さか、あな悲し。
とても退屈
ハッとする場面がちょいちょいあって気が抜けないのだけど、全体的には退屈で、物語のフックが弱いし、主人公に魅力を感じない。距離を置きたいリアルな女しか出てこない。主人公に魅力を感じたり共感できればずっと面白いのかもしれない。ただ、ずっといつか見なければと思っていたのでようやく気が済んだ。
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