8 1/2のレビュー・感想・評価
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監督の妄想の中で究極的に美化された女神の様なクラウディア・カルディナーレと大団円的なラストが印象に残った
フェデリコ・フェリーニ 監督による1963年製作(140分)のイタリア・フランス合作映画。
原題:Otto e Mezzo、配給:コピアポア・フィルム、日本初公開:1965年9月26日。
フェリーニ監督作品は過去幾つか見ていたが、傑作として有名な本作は未見であった。
一回目視聴では、何だコレは、つまらないという感じであった。その理由としては、訳分からない感と、幾つかのショットの既視感が有り、物語的にも寺山修司監督の「田園に死す」(1974)や庵野秀明監督の「式日」(2000年)との類似性があった。ただ真実は勿論、こちらが本家で、後の作家によりさんざんに真似をされたということなのだが。
ただ二回目視聴では、自分でも意外であったが、この映画に何故か愛しさの様なものを感じた。まず、映画の中でも語っていたが、真実っぽいというか、自己開示の大きさに、相当に驚愕。監督自身の映画創作アイデアの枯渇、夫婦間の隙間風や不仲、妻への家政婦的な期待をあからさまに表現していて、ぶっ飛び。更に、愛人や友人の恋人、通りすがりの人妻への欲望やハーレム志向があからさまに描かれていて、そのあからさまな表現の特異性に唖然。
更に、恋愛映画が造れない、エピソードの単なる羅列、ノスタルジックなだけの思い出の挿入などなど、まさにこの映画がそうだが、自己の映画への批判が自虐的?に散りばめられていて、驚かされた。挙げ句の果てに、監督の願望そのものというか、辛辣な評論家を絞首刑にしてしまう。なんて自分の気持ちに正直な!と、ある意味、感心もさせられた。
ただ、監督の妄想の中で究極的に美化された女神の様な存在クラウディア・カルディナーレ(見ている方も彼女に陶然とさせられた)と、現実の女優としての彼女のギャップも描かれていた。そして、監督が苦悩の末にやっと辿り着いた開き直りの様な映画製作への境地(混乱し矛盾した様な自分流映画作りで良い)や台詞「人生は祭りだ。共に生きよう」のせいか、ニーノロータの音楽のせいか、何故か感動させられてしまった出演者たちの手を繋いでのフィナーレ。そこには彼女の姿は無く、計算尽くされた様な演出・脚本上の手管も意識させられた。
しかし、監督の魔法に騙されているかもしれないが、あの映画の中でロケット発射台と言われていた大規模セット、あれを見ると、監督は本当に別の映画作りを目指していたのか、とは思わされた。最後を、監督自身をモデルとする子役の映像で終わるのは、誰もが有する個人史を思い出させ、上手いなとは思った。
監督フェデリコ・フェリーニ、製作アンジェロ・リッツォーリ、原案フェデリコ・フェリーニ 、エンニオ・フライアーノ、脚本フェデリコ・フェリーニ 、トゥリオ・ピネッリ、 エンニオ・フライアーノ 、ブルネッロ・ロンディ、撮影ジャンニ・ディ・ベナンツォ、美術ピエロ・ゲラルディ、衣装ピエロ・ゲラルディ、音楽ニーノ・ロータ。
出演
マルチェロ・マストロヤンニグイド・アンセルミ、アヌーク・エーメルイザ、サンドラ・ミーロカルラ、クラウディア・カルディナーレクラウディア、バーバラ・スティール、
マドレーヌ・ルボー。
「難解な映画は作るな」とプロデューサーは言った。「じゃあ、難解だけど観客が満足するような映画、作ったる」と監督は思った”という感じでフェリーニが撮った映画…かな?
①正直に言って途中何度か眠たくなりました(一度は殆んど失神寸前まで行った)。でも我慢して付き合えば最後に素晴らしい映画的体験が待っています。②『道』や『アマルコンド』『ジンジャーとブレッド』等に比べると遥かに難解です。でも『テナント』のような物理的な難解さではなく、一人の映画監督の内面を映像化したことによる難解さ。③自伝的作品と言われているようですけど、自伝なのかな?それより創作に行き詰まった監督が悩んだ挙げ句新しい創作のインスピレーションを掴むまでの心の旅を映像化した作品のように思う。
④2022.10.10、「午前10時からの映画祭」ではじめて映画館で鑑賞。でも映画館でも寝不足で『8 1/2』を観てはいけません。後半何度か失神し“あの”ラストシーンを見逃してしまった。で、来週リベンジ鑑賞!
監督の感性が冴える他者には真似のできない映画
私の頭の中のハーレム
早稲田松竹で今年初の劇場鑑賞。
休みの日の昼の回でほぼ満席でしたが客席の民度は高めで混乱もなく。
呎がかなり長い(トイレ行きたくて気が散る)ことを除けば好きな映画だった。
とにかく画がきれい。ロケーションやら衣装やらカメラワークやら、とにかくフェティッシュが満載。白黒だけど色のコントロールが完璧。車はシトロエンDSぽいのが出てくる(最高にかっこいい未来カー)。
音楽はニーノ・ロータだけど、ワグナーのワルキューレとか、聞き覚えのある曲の印象が強い。
予算があるんだないんだか、優雅なんだか破れかぶれなんだかわからない、貧乏だけど妙に貴族的な感じがイタリアっぽい。江戸っ子気質というか。。
当時の観客にはさそじかしインパクト大だっただろうな(でももし自分が当時の観客だったらこれをちゃんと好きだと言えただろうか。。)
トップシーンからしてもう強烈。車の中で窒息しかけるマストロヤンニを周囲の誰一人として助けない。ノーリアクションなだけで人の顔ってこんなに怖いんだな。。
画面が白黒というのも手伝って、終始悪夢の中にいるような浮遊感が漂う。
一方で、現実と幻想(現実逃避)がシームレスにつながる感じは妙に舞台劇っぽくもある。
そして、こんな内容なのに意外なほど理解しやすい。
相貌失認の気があるので、初めは説明が少ない中で誰がどの役だ?って思ったけど、最終的には問題なく飲み込めた。どうやらイヤリングをしないのが本命の女と見た。
ハーレムシーンは色んな前提を抜きにしても、いちばんハッとさせられた。自分の女を一堂に集めた光源氏同様、男の夢はいつの時代も同じなのか。。
これは映画関係者の(悪)夢のような作品だと思う。自分の脳内、あるいはセラピーの過程がそのまま一本の映画になる。
デビットリンチ味が濃い。「マルホ」の時間シャッフル構造をすごく想起した。あとはエヴァTVの最終回を思い出して、今にもみんなが拍手しはじめるんではとヒヤヒヤした。
どんな監督も一度は夢見るだろう自伝的な作品だろうけど、カトリックだからか?非常にきまじめさを感じたり、クールなのにすごい土着的なものに縛られている感じがする。
映画の語りや構造はテクニカルだけど基本的な心根は無垢っていうギャップは、ニューシネマパラダイスを思い出した。
あとはすごいお風呂映画。なにしろ舞台が温泉だし。水=死や誕生、洗礼を連想もするけど、まず単純にあのハイソな湯治場がめちゃくちゃ映える。
あとはあの巨大な農家っぽい家。あんな構造の家、初めて見た。あれは実在の場所なんだろうか。私が見たことのあるドイツや南仏、ゴッドファーザーのシチリアとかとも全然違う不思議な作り。
家の中に屋根付きの中庭みたいな炊事場があって、階段で上がるとアパートみたいに個室になってる。壁や階段は土みたいな素材で、今見ると逆にモダン。セットかも知れないけど、モデルがあるならイタリアの前近代やばいな。
陳腐だが普遍的な内容、その映像
主人公である映画人の叙事詩なのだが、モノクロ、時代背景がわからない為、とても幻想的、抽象的な印象を受ける。
幻想的、或いは抽象的なシーンのあとセリフ展開が始まり、また次のチャプターでは幻想的、抽象的なシーンが入りストーリーが入るという作りで、物語を掴みにくい。また物語自体は中年の叙事詩であり、特段感じるものはない。
では何が良いか?
それはその幻想的、抽象的な映像とセリフ展開の作りそのものと、出てくる映像がとても素晴らしい事。
話題の冒頭のシーンのあと、広場で人が集まってるシーンは意味がわからないままである。老人の視点は虚ろ、誰もこちらを気にしない、そのシーンはとても美しく、天国というものはこのような雰囲気であればと思った。
この映像が1900年代前半に作られてる事を含めると素晴らしい芸術作品。
すっきりせず2回目鑑賞で追記
イタリア映画の典型的な能天気×シリアス、人生は楽しもう、大団円に、というもの。
内容は女、仕事を軸に展開し、ハーレム、パトロン、カトリックという在りがちなテーマで陳腐、しかしながら、結局人間なんてそれしかない、それを幻想的な映像で展開している。
幻想の導入、与太話というシークエンスが当時は新鮮だった。
では、それまでかというと、妻にも、クラウディアにも中途半端、結局何がしたいんだとう絶望からふいに軽くなる、力が出るときは確かに「それでも踊ろうよ?」という感覚があり、それを表現したのは見事。
これだからゲージュツ映画は
やっぱり、フェリー二は凄い。
圧巻のラスト
監督は次回作の構想に頭を悩ませていた。
ツタヤでずいぶん前に借りて鑑賞し、あまりに感動したためその後、リバイバル上映された際、遠くの劇場まで足を伸ばして観る。
生涯ベスト10に入る名作。
自分を売り込みに来る厚かましくも貪欲な役者たち、
小難しい足かせを説く宗教検閲、
こまごまと、しかし一番厄介な個人的な事情のあれこれ、
なにより巨匠は次に何を撮影するのか、
大衆の大いなる期待。
俗っぽさの極みに翻弄され、無邪気なプレッシャーに襲われて、
それでも名監督として堂々振る舞わねばならず、
しかし迫る製作発表の日。
期待に満ちた目が、監督を追い詰めるあの残酷さは痛々しく、
そこから一気にファンタジーへ飛んだ時の開放感たるや。
何があろうとあなたの味方、といわんばかりのあの混然一体とした幸福感とパワフルさに
涙腺崩壊だった。
そしてこれを言葉でうまく表現しろ、と言われてもとても難しい。
ただ人前で何かを表現したことがある人なら、
その舞台袖で、公開前に、震えながら本番を待つ、
あの酷くみじめで恐怖に満ちた、けれど本当は愛に包まれた瞬間が
同様に本作に流れている事を理解してもらえるんじゃないかと思う。
人生はお祭りだ!
「午前十時の映画祭」で鑑賞。
映画や美術作品を鑑賞して、その感想を述べるときに「わからない」という言葉は使いたくないのだが、この映画、何をやりたいのか、何が言いたいのか、ハッキリ言ってよくわからなかった。虚実綯い交ぜのストーリーに混乱するところも多く、たびたび眠気にも襲われ、「これが傑作と呼ばれる所以は?」などと考えながらスクリーンを見つめていた。
けれど――けれど、ラストシーンには感動してしまった。
なんか知らんけど、こころが震えた。
高揚感と悲哀、混沌と狂騒、炸裂するイメージとぶっ飛んだ演出……。何よりも、生命感にあふれている気がする。こんな映画なかなかないんじゃないか?
「うん、やっぱり傑作かもしれないな」と、さっき観たシーンの数々を反芻しながら、これを書いている今そう思うのだった。
いちばん印象に残ったセリフ――それは、グイドがラストに語る「人生はお祭りだ 一緒に過ごそう (“ともに楽しもう” だったかな?)」という言葉だ。
よくわからん映画だったが、このセリフが監督からのメッセージなのだろうと僕は勝手に受け取った。
そして、映画館からの帰り道、僕はちょっと元気になっていた。
観終わったあと、元気になる映画は、いい映画だと思う。
難しいが貴重なものを観た気がする
映画監督のグイドは、新作の構想で悩みクランクインを延期していた。温泉地を訪れたグイドは女性たちとの関係や仕事上の知人たちとの現実に悩まされ、様々な夢や幻覚が現われ・・・てな話。
これ、たぶんストーリーが有って無いようなものなんだろうと思った。
男も女も浮気しても良いってな雰囲気もあるし、哲学的だったり、政治的だったり、もちろん文化的で、凄く奥深い事を作品の中に散りばめてるように感じた。
映画を作るためにはそんな色々な要素を脚本に込め、キャストを厳選し、舞台美術に細心の注意を払い、音響やBGMを考え、凄く神経をすり減らされるものなんだろうと感じた。
タイトルの意味が観賞後もわからず、ググったら、作品数なんだと知れた。面白い事をする監督だなぁ。
クリエイターの迷宮
久しぶりに観たフェリーニの作品で、非常に難解ながらも映像やキャラクターの魅力に強い引力を感じました。次回作に行き詰まり湯治場に逃げてきた映画監督が、次から次へと現れる映画の関係者や愛人、女房に振り回されるのが何ともおかしいです。そこに、クリエイターの原風景となる幼少期のエピソードや今は亡き両親との会話などを挿入し、現実と幻想の区別を曖昧にしながら、フェリーニ好みの大道芸趣味の猥雑さが加わった独特の映像世界のインパクトが強烈です。映画監督として撮りたいものと周囲が期待しているもののギャップに苦しむのは、まさにクリエイターでないと理解できないのかもしれません。だからこそ、フランソワ・トリュフォーやボブ・フォッシー、北野武等のクリエイター達が同じタイプの作品を作っているのがよくわかりました。役者では、マストロヤンニの当て書きのような名演で、伊達男とコミカルさのバランスが絶妙です。女優も素晴らしい人ばかりですが、クラウディア・カルディナーレの息を呑むような美しさはダントツでした。
騒々しい夢のような作品の中で終幕の語りとその情景が強烈に印象に残る...
映画監督フェリーニの私小説的映画宇宙の、解体と再構築のイマジネーションのスペクタクル
これは正しく映画の大傑作である。映画の特質を生かした、映画監督フェデリコ・フェリーニの映画のための映画だ。あの「アマルコルド」の時と同じく、感動で全身が震える快感に身を委ねるが、フェリーニ監督の40代の若き作品だけに、その活気ある演出と表現力に圧倒されてしまった。「道」のリアリズムタッチは、幻想と感覚の大胆な発露によって内包化されている。替わって作者自身の自己批判と映画創作の苦悩、そして女性に囲まれる男の夢、そこから映画監督として新しい創造の世界に挑戦する使命感まで、フェリーニ独自の映画的宇宙の時空を自由自在に飛行していて、真に面白い。私小説の如き作家の内面を探る興味深さ。想像力豊かな映像の饗宴、そこにある研ぎ澄まれた映像感覚の独自性と内容の個人的な告白の両立によって、この傑作はフェリーニ映画の真骨頂として記録されるべきである。同じイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が耽美的映像美術を創造しながら、何処か映画形態を否定する教養が観客の足枷になるのに対して、サーカスに強い憧憬を持って映画人になったフェリーニ監督のスペクタクル性は映画そのものの魅力に溢れている。イタリア映画は、この二大巨匠を生んだことだけでも偉大であろう。
先ず導入部の主人公の幻覚シーンが、その当時の文明社会における人間の孤独を描いて見事だ。機械文明と情報氾濫の中に埋もれた一人の映画人の心情がイマジネーション豊かに表現されている。続いて湯治場の群衆シーンになるが、このスローモーション撮影による感情のない人形みたいな虚無感の演出には驚嘆した。音楽との調和も素晴らしく、この映像感覚には脱帽である。
主人公が少年時代を回想するシーンも面白い。大家族の様子や、海岸で出会う巨漢の女性とのダンス、そのことで神父から叱られる神学校の描写など。フェリーニ監督の記憶がノスタルジーに止まらず、常に現在の主人公の心理に反映されている。そして移動ばかりの映画撮影の裏側を見せながら、ラスト大規模なオープンセットのクライマックスとなり、一度失意のどん底にいた主人公が映画創作に全精力を注ぐ結末の、何とも言えない寂しさがいい。ラストシーンの印象的な幕切れは、この映画の製作成功を意味した心地良い境地に誘う。映画を愛する人なら、この傑作は貴重な宝ものになろうし、映画監督の大変さに想いを寄せるだろう。それだけの自己分析の厳しさが、フェリーニ監督の中に確実にあるからだ。
1978年 12月12日 フィルムセンター
女神カルディナーレ
正直で嘘のない映画をつくろうっていうのなら、やはりああいうことになるのだろうね。
名作の誉高い作品をようやく鑑賞したが、構図の見事なカメラワークやクラウディオ・カルディナーレのこの世のものとは思えないのになぜか庶民ぽさも感じる美しさが印象に残っただけで、自分には受け付けない映画だということがわかった。
ハーレムも考えものだな。あんなに面倒くさくてイラついて、自分のダメなところを見せつけられるなら、一人でいた方がずっといい。結局、とてつもない寛容さと、マメさがなければ、自分に正直になんて生きられないのか。
明るくて悲しい。
映画
『8 1/2』
の感想をブログに上げました。
監督:フェデリコフェリーニ
制作年:1963年
制作国:イタリア フランス
アカデミー賞 外国語映画賞
【あらすじ】
スランプに陥った映画監督が、キャスト、スタッフ、妻、愛人、空想の人々と交わり苦悩しながら映画作りを進める物語。
現実、妄想、映画のイメージ、過去の記憶の4つの映像が混在する世界で進行する物語は明るくて悲しい。
フェリーニの自伝的映画。
【感想】
自分の中で最高の一本の一つです。
映画全体を通して、笑いの中に感傷的な思いが漂っており、穏やかにじんわりとした気持ちで酔わせてくれる映画でした。
映画史に残るラストシーンも素晴らしいです。
ダメ人間を愛してやまない方にもお勧めの映画です。
ブログの方では、ネタバレありで個人感想の詳細とネット上での評判等を纏めています。
興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
微妙な感覚の映像化
あらすじ
映画監督であるグイドは、新作の構想に頭を悩ませている。実績もあり、次回作が期待されているものの、新しいアイデアはうまくまとまらず、関係者の意見も厳しい。
そんな時、グイドは体調が思わしくないことから保養地に滞在するよう医者からのアドバイスを受ける。妻のルイザを残し、その場所で映画の構想を練る。その地での逢瀬、幼少期の回顧などに着想するが、どれも受けは良くない。疲労していくなか、家に残るルイザを保養地に誘うことにした。夫婦の間には溝があり、原因はグイドの不貞である。グイドのもとには過去に関係のあった女たちが次々現れ、夫婦の溝は顕在化することとなる。同時にグイド自身が、どの愛をも信用できていないことに気付く。
制作途中の映画の大掛かりな舞台セットは完成間近である。しかし続く物語は相変わらず決まらない。いよいよテーマを決定しなければならないが、結局4つの候補はどれもボツ。セットは不要となり破壊することとなった。しかし、制作中止となった時、自身の混乱の原因が、自身のこれまでの過去の無秩序にあったことに気づき、それを救うものは妻のルイザの存在であるように思われた。そのことが彼に映画製作の情熱をかき立てる。
感想
まずは、難しいというのが率直な印象。彼自身の混乱というものが描かれていると分かるまで、これは一体なんの映画なんだろうと思ってしまいました。けれども、現実とその現実から知らず知らずのうちにかけ離れ妄想の世界に入り込んでいく、そんな個々人が無意識に経験しているであろう感覚を見事に再現・表現しているようにも思います。
妄想(回想)シーンでのストーリーの進み方は特に面白いと思いました。かなり誇張された登場人物の語りや、人物表現。サラギーナが出てくる幼少期の回想などは、神学校の彼がマントを被った姿で描かれますが、そのフォルムの可愛らしさなどもすごく目を惹きます。サラギーナとの接触を嗜める大人たちの姿をなど、観ていて美しいなと思うシーンが多いのが、この時の回想でした。白黒映像の良さというのも感じます。
「人生は祭だ。ともに踊ろう。」というセリフはこの映画にとっておそらくかなりキャッチャーなものだと思いますが、妻への想いを新たにしたグイドの言葉です。そういうと、彼の人生における過去も現在も含めた登場人物たちが手をつなぐなかへ、2人も飛び込み踊るのです。印象的な言葉と映像です。
これをどう解釈していいのか、早く解説が読みたいと思っているのですが、その前に思っていることを書いておきたいと思います。
妻も含め、過去の人たちの輪に入るということは、現在の自分たちとその人たちを、同列化するということのように見えます。つまり、彼はそれまで様々な女性との愛を語りながら、じつはそのどれもに真実を見ていない存在でした。そのことに彼自身が過去のしこりのように感じていて、遠ざけたいものと思ってしまっていたのです。しかしそのことで、彼は却って囚われてしまう。彼の映像製作もそこから抜け出せないのです。
過去の人物と、今の自分を同列化することは、そんな垣根を壊し、意識が分散することなく、今の自分たちに向けられていくということを表してるのかなと思いました。そしてそのことはとてもポジティブなことです。人生は祭、とはとても良い言葉ですね。
とりあえずこんなこと書きましたが、多分これから何度か観て、またいろいろな感想を持つと思います。
ASA NISI MASA
はちとにぶんのいち⇨ようかとにぶんのいち⇨はつかにぶんのいち⇨はっかにぶんのいち
まず読めなかった。
未だに【はっ↘︎か】なのか【はっ↗︎か】なのか…
ずっと気になっていたフェリーニ作品。
高評価の一方で、「難解」「自分にはまだ早かった」「退屈」「眠い」との声もたくさんあり、「まさかねぇ」と。
まだアマルコルドしか観てないけど、あの雰囲気でそんな訳……ありました。
びっくりするぐらいその通り。
眠くなるまいと意気込んでいたのに、半分も行かずにウトウト。
ただ(また、矛盾文になりますが)、退屈なのに楽しいという謎現象。
分かりそうで分からない、難解映画特有のあの感じ。
あ、分かりそうと思って観ていたら、どんどん分からなくなっていくという。
ネタバレ解説を読んだら、意外にあらすじ自体はしっかり掴めていましたが、
謎、謎だ、謎すぎる、この映画!
簡単なあらすじとしては、映画監督のグイドが新たな映画制作のために温泉療養をするものの、良い案が思いつかず、周りから圧力をかけられ、女性関係ももつれ、ちょっとずつ病んでいくみたいなおはなし。
冒頭の車の渋滞(あのシーンの煙は、周りからの重圧ですよね)からの空中浮遊、そして自分が凧みたいになってしまうあの夢(?)で、これヤバイなと悟り…
その後も夢だかなんだか分かりませんが、幻想シーンが入るのですが、恐らくその幻想と現実が入り乱れ過ぎていて区別がつかないのが、難解さの最大の理由なんじゃないでしょうか。
映像、音楽はやはり良くて、そこはしっかりと味わうことができました。
フェリーニ節楽しいです(特に最後の円になって踊るところは最高)。
アマルコルドも徐々に好きになっていったように、これも反芻映画のような気がします。
今はこの多少のモヤモヤを持ち続けて、少し時間が経ってからまた観たいと思いました。
また違った味わい、良さが感じられるでしょう。
きっと。
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