「トポールの生んだボス風グリロスの魅力と、ゴラゲールによる魔性の付随音楽にめろめろ。」ファンタスティック・プラネット じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
トポールの生んだボス風グリロスの魅力と、ゴラゲールによる魔性の付随音楽にめろめろ。
30年ぶりに映画館で観直した『ファンタスティック・プラネット』は、思いのほか「まっとう」な正調のSFアニメ映画でした!
かつて僕が20代のころ、この手の映画はTSUTAYAのどの店にでも置いてあるというわけではなかった。新宿店と恵比寿店が品揃えの豊富な両巨頭で、こういう大店舗では「カルト」「クィア」「前衛」といったジャンルが一か所にまとめられていて、ホドロフスキーやシュヴァンクマイエルやブラザーズ・クェイや『ひなぎく』やジョン・ウォーターズやデレク・ジャーマンやケネス・アンガーあたりが一棚ぶん、ぎっしりと置かれていた。
そこは、TSUTAYAの一角としても特別な輝きを放つ、僕ら好事家にとっての「驚異の部屋(ヴンダー・カンマー)」だった。
そんな一角でビジュアル的にとくに異彩を放っていたのが、スーザン・ピットの『アスパラガス』とルネ・ラルーの『ファンタスティック・プラネット』 だった(笑)。
逆にいえば、僕のなかで『ファンタスティック・プラネット』は、単品としてではなく、これらのエキセントリックでビザールな西洋アートアニメ総体の印象のなかに位置づけられている。
今回の特集上映に足を運んだのは、あの頃のTSUTAYAのカルト棚に抱いていた、自らの抑えがたい羨望と焦燥に対する「供養」と「手向け」のようなものだ。
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当時は、とにかく青面に赤目の宇宙人のインパクトと、異界の動植物や習俗を創造するイマジネーションの多様性に圧倒されて、「カルト」寄りの印象でこの作品を観ていた気がするが、飽きるほどのアートアニメを洋の東西を問わず観てきた末の今の感覚からすると、むしろ中身はしごく王道、「ど真ん中のSFアニメ」であるとしか言いようがない。
たぶん、この作品を「カルト」っぽく見せているのは、ローラン・トポールの原画のもつ独特の奇妙で面妖なテイストと、さらにそれをファンキーで馴染みやすい方向にうまくメタモルフォーズした作画監督ヨゼフ・カーブルトのとぼけた味わい、製作に当たったチェコスロヴァキアのアニメスタジオ(のちのイジー・トルンカ・スタジオ)の切り絵アニメの技法あたりから来る部分が大きくて、ステファン・ウルの原作(『オム族がいっぱい』)自体は「ザ・SF」といっていいようなまっとうなSFだし、ルネ・ラルー監督のアプローチもまた変に構えたところのない、真正面から原作と対峙したものとなっている。
描かれているのは、とある惑星の種族間対立を模した、現代社会の縮図だ。
支配階級と被支配階級の種族のあいだにある、圧倒的な文明格差。
支配者であるドラーグ族(一見半魚人にしか見えないが、もしかしてドラゴンが語源だから耳にヒレがあって目が赤いのか??)は被支配者であるオム族(オム=フランス語で人間)を虫けらのように扱い、遊びで死なせてみたり、ペットとして飼ってみたり、害虫駆除のノリで掃討作戦を展開したりしている。
野良で増殖したオム族は、当初は呪術者をリーダーとする原始的な生活を送っているが、ドラーグ族の「学習器」によって「知識」を得た主人公テールが逃走し、群れに加わることによって、より高度な文明を手に入れる。
彼らは新天地を求めて「野性の惑星」にロケットを飛ばすにいたるが、やがてそこがドラーグ族の秘密の地であり、また最大の弱点でもあることを知る……。
ドラーグ族の専制は明らかに全体主義の恐怖を示していて、人を害虫のように駆除するジェノサイドもまた、ナチスやロシアが行ってきた人類浄化の再現といっていい。
大量殺戮の道具として「毒ガス」が用いられることも、ナチスの所業を彷彿とさせる。
圧政を敷く支配階層を打破するために必要なのが、種族の団結と「教育」と「文明化」であるというのは、いかにも啓蒙的であると同時に、マルクス主義的な理想論を前提とするものであり、ルネ・ラルーが共産主義的思想のシンパであったことが推察される。
それは、なにもルネ・ラルーに限ったことではなく、ゴダールを筆頭に、60年代から70年代にかけて文化人の多くが共産思想に共鳴し、支配階級の打倒という夢を紡いだ。
SFジャンルはその大きな受け口だったわけで、その意味でも本作は清く正しいSFと位置付けられるものだ。
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本作最大の見どころは、なんといってもローラン・トポールの原画が示す独特のキャラクター造形および背景美術の美観だろう。
いかにも奇矯でビザールなその味わいには、一見忘れがたい吸引力がある。
そこには、ギュスターヴ・モローやオディロン・ルドンの象徴主義的な怪異性、オノレ・ドーミエやギュスターヴ・ドレのカリカチュアリスティックな風刺性など、さまざまな美術史的な影響が見て取れる。
とくに、平たく広がる荒野に林立する生体的な構造物(巨大樹)と、奇妙な合成感のある生物群は、明らかに15世紀フランドルの画家ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』祭壇画からインスパイアされたものだ。
巨大構造物から噴き出た小さな鳥が渦巻いて飛んでいくラストの描写や、「野性の惑星」におけるドラーグ族の「色のついた球形の頭部と裸体の取り合わせ」は、そのまま『快楽の園』祭壇画中央パネルに類似のモチーフを見出すことが出来る。
また、『ファンタスティック・プラネット』に登場する生物のいくつかで観られる、頭から直接手足の生えているような造形は、ヒエロニムス・ボスの創造した「グリロス」と呼称されるあまたのモンストルムと近接している。そもそも、描かれているメインの主題から離れて「この生き物はなんだろう?」と思わざるを得ない奇怪な生物が点描されること自体、ボスの作品世界と近しい感覚を共有しているといえる(ルイス・キャロル的ということもできるが)。
一方、人体の把握やアニマル浜口のようなファッションセンス、水色やアメジストを用いた独特の配色に関しては、ミケランジェロ以降の、16世紀のイタリア・マニエリスム絵画に源流がある感じがする。地獄堕ちや最後の審判で描かれる「古代風の」人体描写に発想を得て、「非文明化した人類」のモデルが考えられているのではないか(ドラーグ族の示す「過去の惑星イガム」の描写を観る限り、ここはもともと地球で、人間はドラーグ族が進出する前に栄えていた文明をいつしか喪失して野蛮化しているということのようだが)。
キャラクターデザイン的には、『神曲』の挿絵で知られる18世紀の画家ウィリアム・ブレイクを思わせるところもあるし、建築空間にはマウリッツ・エッシャーの影響も感じられる。
トポールの絵画センスは、基本的に西洋の正統な幻想絵画の美術史的伝統に直結している。だからこそ、チェコスロヴァキアのアニメ・スタジオでもすっと受容されたのだろうし、「切り絵アニメ」という手法にうまくはまったのだと考えられる。
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もう一つ、この作品で抜群に魅力的なのが、アラン・ゴラゲールの担当した音楽だ。
プログレ調のメロウなロック・バラードで、あちこちにノイズや効果音、ため息のようなスキャットが入って、いかにも60~70年代くさい。けっこうギトギトに電子音とかギターのベンドが入っていて、エンディングのギターソロの泣き節とか身もだえしてしまう(笑)。
しかも、本作の音楽って、最初から最後まで完全に映像とシンクロさせてあるのだ。
登場人物の動きやリアクションに合わせて、音楽が流れたり止まったりびっくりしたような音をだしたり……まるで、モノクロ時代のコメディでも観ているかのようだ。
(ダビングでというより、完成した映像を見ながら合わせで弾いているのかもしれない)
それを、いかにもアニメのBGMといった曲ではなく、プログレ調のメロウな曲でやるのが実に面白い。
僕は60~70年代のヨーロッパの犯罪映画やマカロニ・ウエスタンも偏愛しているので、なんだか「アニメとSFとあの時代の一番面白かったヨーロッパ映画のごたまぜ」を観ている感じがして、とても郷愁をそそられる。
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●テールがティバのペットの時代に見せる、ちょっとドキッとするような「反抗」が、後半で展開される種族間闘争の「前兆」になっているのは明らかだ。
ただ、これだけ前半でじっくりティバとの交流を描いていたからには、終盤で必ずティバとの再会と対話があるはずだと思って観ていたのだが、肩透かしだった。
もしかすると「チェコのスタジオのサボタージュで完成できなかったラスト10分」には、ティバとのやりとりも含まれていたのかもしれない。
●初期のテールの衣装ははっきりと道化や剣闘士を思わせるもので、「高等人種」とはいえ、あくまで「奴隷階級」なんだよね。考えてみると、ティバはナイスロリータ(しかもバストむき出し)だし、テールはナイスショタだし、女闘美ック(メトミック)があったり、マジの拳闘(へんなトカゲを使った)があったりと、なかなかに60年代エクスプロイテーション・ムーヴィーっぽいテイストはちゃんとあるんだな、と(笑)。
●ティバとテールが散歩中に口笛でクリスタルを割っていくシーンや、かご状の巣に虫を引き寄せては食べずに殺して叩き落とす鼻行類のような怪物の描写、野性人種が満月の夜中に行う身体を光らせて性交渉をする儀式(聖体拝領のパロディか? このころからエッチなシーンになったらエロいサックスが吹き渡るんすねwww)、機織り虫による服づくり、アリクイそっくりの捕食行動を示す飛竜とのバトルなどなど、本筋と関係のない惑星での日常描写がとにかく魅力的で忘れられない。
●上で性交前の儀式を「聖体拝領のパロディ」と書いたが、本作には聖書や神話に由来すると思われるシーンがいくつもある。テールが倒した飛竜の血を頭から浴びるシーンは、まさに「洗礼の儀式」だ(倒した龍の血の洗礼で無敵の英雄が誕生するという意味では、ファブニールを倒して血を浴びたジークフリートを強く想起させる)。テールがいきなり後ろから頭を叩かれるシーンは「カインとアベル」の絵画的イメージ(たとえばティツィアーノ)を引用している。何より、「知恵(文明)を盗んで上位者に追われる」という物語の全体的構造自体が、知恵の実を食べたことで楽園を追われるアダムとイヴの物語や、火を盗んで人に与えたことで罰せられるプロメテウスの物語と相似形を成している。
●毒ガス兵器の使用法って完全にバルサンだよな(笑)。ガスマスクをつけた猟犬ふうの「高等種族」がなんだかせつない。彼らが先導役として走る様子が、何度も何度もカットインされる。妙に印象に残る演出だ。
で、あれだけ偉そうにしてたドラーグ族のあっけない脆さ! そして逃げ足の速さ!(笑)
そういや、巨人のカラリングが妙にウルトラマン(1966~)を彷彿させるのって、なんか関係とかあるのかな。あと、巨人を倒すのにアンカーのついたロープで戦うのって、なんか『進撃の巨人』に与えた影響とかあるのかな。
●二足歩行のグリロスが、卵から生まれた同じく二足歩行のグリロスをぺろぺろと舐めて、「ああ子供なのか」と思ったらいきなりぺろりと平らげるシーン、大好き(笑)。
●ドラーグ族の「新たに作り出した大量殺戮兵器」が、ぽわーんと音の出る殺人光線だったり、タツノコメカみたいな巨大ちりとりロボだったり、巨大掃除機ロボだったり、ハエトリ紙みたいな巨大球だったりするの草。「害虫退治」の発想の枠から逃れられていない。
●急転直下のラストはあまりに唐突すぎて、さすがに何かあったのかと思わせるが、先にも触れたようにチェコのスタジオに10分近く残っていたラストシーンの作業を断られてしまったらしい(撮影中に「プラハの春」が起こって、もともと受注した幹部連中はスタジオを追われていた)。
本当は、どんなふうに終わるはずの物語だったのか。
首のない野性の惑星の彫像群のように放置された尻切れトンボのエンディングは、逆に観る者のイマジネーションを喚起してやまない。
僕としてはやっぱり、成長した美少女ティバと「地球(テラ)」のリーダーたるテールの、少し胸をちくりとさす、せつないやりとりで締めてほしかったかな?
ファンプラ以外のレビューもちょっとだけ読みましたが、すごいラベルですねっ!!
他映画のレビューも、ちょっとずつ、ウイスキー(ラベルだけに?)ちびちび飲むように(飲めないけど)たのしみながら読みたいと思っています。
今のところ徹底的にマークです!!
^_^
シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クェイの最新情報、ありがとうございました!!!
ヤン・シュヴァンクマイエル、
観たいなぁ〜
ストリートオブクロコダイル、
だいすきぃ〜
検索したら、ブラザーズ・クェイは19年ぶりの新作とのこと。
次の土曜はスーパーマン新作と決めてたのに、おかげさまで、ブラザーズ・クェイ新作と対決することになりました。
はたして、カツのはどっちだ!?
本当は、どんなふうに終わるはずの物語だったのか。
首のない野性の惑星の彫像群のように放置された尻切れトンボのエンディングは、逆に観る者のイマジネーションを喚起してやまない。
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ほんと、そう思います。
尻切れの方が、よかったりしますよね。
ちょっともやもやして、
いろいろ想像して、
自分の中で勝手に別の物語が生まれたりなんかして、、、
まっとうに完成させることがヨシではなく、未完成だからこそのカンペキさというか、、、
ある意味、村上春樹さんの小説もそんな感じがします
レビュー読ませてもらいました。
すごいですねぇ〜〜!!!!!
無料でこんな濃厚な密度高い文章を読めるなんて、幸せぇ〜!!
ありがたやぁ〜!!!