ビリディアナのレビュー・感想・評価
全3件を表示
聖女ビリディアナ
1961年ですからね、スペインとイタリアでの上映禁止もさもあらんです。
修道女の誓願には「清貧」が含まれています。太ももの露出やベッドシーンは禁忌です。
近年でさえ、下着歌手マドンナのデビュー作で「like a virgin」は物議をかもしました
マドンナとは「貴婦人」。大文字で書けばそれは聖マリアのことなのであり、
virginも定冠詞を付け、あるいは大文字で書けばそれも固有名詞としての聖マリアのことを指します。
ファンたちはその信仰文化のタブーに触れる“悪ふざけ”を受け入れる、そういうスリルを買ったのかと。
その聖マリアに仕えることを願い出て、全てを捨てて献身した修道女を、カトリックの国では特別の尊敬をもって尊ぶのであり、そのカトリック国でかくもあられもなき姿でシスターを撮ってしまえば、朴訥なスペイン、イタリアなど、信者の多い町々村々での上映は、それは無理というものでしょう。
( 日本人に分かりやすい喩えを考えれば、戦前、皇族女性が強かんされるような映画を撮ったならばどうなるか、官憲も民衆も黙ってはいない。そんな感じですかね)。
フランスでのカンヌ受賞は、同じカトリック国でもフランスがかなり醒めた立ち位置にあることを示してもいると思います。
ルイス・ブニュエルは「銀河」との衝撃的邂逅以来、僕にとっては特別の存在。
僕はキリスト教の学校で学びましたからあの映画の強烈な刺激は良薬であり、劇薬そのものです。
王族と結びついて貴族の宗教に成り上がってしまったキリスト教界を、独特の切り口で告発して、2000年前の原始キリスト教への回帰を強く迫る“預言者的メッセージ”をブニュエルのスクリーンから感じるからです。
⇒「十字架から仕込みナイフが飛び出す」あのシーン。あれこそがブニュエルの毒。キリスト教会の膿をえぐろうとするナイフ!
前半の思わせ振りな姪の素振りや、叔父の倒錯行為は鑑賞者へのサービスであって、後半のビリディアナの新たな決断が映画の核です。
ビリディアナは結局修道女にはならない道を選択したけれど、貧民と共生するシェルターを作った。そして社会の底辺で見捨てられた人々と共にあったナザレのててなし子=イエスの生き様に倣おうとした、
ビリディアナはバチカンの支配からは自由であった。
・・それを世の聖職者たちや似非クリスチャン達はどう見るかを厳しく問うている。これはブニュエルの意欲作だと思いました。
後年の作「銀河」(1969)よりもストーリー性も大切にしてあり、鑑賞者への語り口を丁寧にしたルイス・ブニュエルの、初期の作風の優しさと配慮を感じますね。
ブリューゲルの絵画から飛び出してきたかのような貧民たちの登場は監督の常套。
モノクロですが、リマスター技術の高さには驚く映像の美しさです。
・・・・・・・・・・・・
僕の友人(女性牧師)が横浜の寿町のドヤ街に長年住み込んでいて、その街で生き、働いています。
ビリディアナですね。
上映禁止
キリスト教を批判してるとしてスペインとイタリアでは上映禁止となった作品ですが、その年にはカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得している。問題となったのは一瞬のカットが最後の晩餐をばかにしているとされたことなのですが、その他にも色々あるのです。
自殺ということもショッキングではありますが、その首を吊ったなわとびの紐で楽しむ幼いリタ。宗教というより、無秩序化していただけではないのか?孤独な主人が亡くなったら、追い出された息子も帰ってきたのだが、荒れ地を開墾するのが当面の仕事。遺産相続がどうなってるのかわからなかったけど、ビリディアナにしてもホームレスたちを住まわせてボランティアに殉じようとしているのだ。ところが、結局はカオスな展開になってしまいます。
秩序ということを考えると、それほどのキリスト教批判じゃないだろうし、無宗教を喜んでいるのがホームレスたちだけ。彼らに施しをしても無意味だったことに愕然とするビリディアナが印象的でした。
結局どうなん?などと考えてみても、ビリディアナが施しをしても無駄で、私には無理!みたいになって世俗に戻る様子。修道女を諦めるという心の流れが伝わってきました。ただ、ホームレスたちがあれほどまで暴れてしまうというのも、宗教的観点よりも、貧困層は何をやってもまともにならないなどという富裕層視点の批判に見えてしまいましたけどね・・・
寝てしまいました…
観光先で欲張って観たものの、無理がたたって眠ってしまいました。
(このパターン多いかも…)
よって無評価です。
ま、ブニュエルだから、寝ても起きても夢の中って感じでいいんですけどね。
ブニュエル作品はいくつか観ているものの、あまりピンとこなくって悔しいです。
他の作品でまたチャレンジしてみます。
全3件を表示