火の馬

劇場公開日:1969年3月22日

解説

ウクライナの文豪ミハイル・コチュビンスキーが1911年に発表した小説をセルゲイ・パラジャーノフとイワン・チェンディが脚色、セルゲイ・パラジャーノフが監督にあたった。撮影はユーリー・イリエンコ、音楽はM・スコリクが担当した。出演はイワン・ミコライチュク、ラリサ・カドチニコワほか。

1964年製作/92分/ソ連
原題または英題:Horse of Fire
配給:ATG
劇場公開日:1969年3月22日

あらすじ

ウクライナの南、カルパチア山地に生むペトリュクとグデニュクの二つの氏族間には、何世代にもわたり争いが続いていた。そしてある日、両家の車軸がふれあったことから争いが起きグデニュクの斧がペトリュクの頭上に打ちおろされた。瀕死のペトリュクの脳裏を、真っ赤な火となった馬が空の彼方に走っていく。敵同士であるはずの両家の子供たち、イワンコ・ペトリュク(I・ミコライチュク)とマリチカ・グデニュク(R・カドチニコワ)の二人は幼い頃よりの親友。大人になった二人は愛し合うようになった。しかしイワンコには、お金がない。村を離れ、一人、出稼ぎに行った。その留守中のことである。マリチカは羊の子を救おうとして足を踏みはずし、高い崖から落ち、急流にのまれてしまった。かけつけ、茫然とたちつくすイワンコ。それからの彼は乞食同然の、おちぶれかただった。そして数年、村人たちは彼を立ち直させるため、パラグーナという娘と結婚させることにした。幸せそうな日々が続いた。しかしイワンコはマリチカの面影を忘れることは出来ない。パラグーナの悲しみ。彼女は、その悲しみをまぎらすため、ユーラという男と親しくなっていった。イワンコはユーラと争い、手斧で、ユーラの頭を傷つけた。よろめきながら外に出たイワンコの目に、マリチカの墓がうつった。そして彼女の霊にみちびかれるように森の中をさまよい、マリチカが落ちた崖へと近づいて行った。

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写真提供:パンドラ

映画レビュー

3.5 これもまた「風」の映画

2025年10月8日
iPhoneアプリから投稿

セルゲイ・パラジャーノフは『ざくろの色』しか観たことがなかったが、本作の方が好みだった。『ざくろ』が良くも悪くもシュールレアリズムの枠組みの中に収まりきった作品である一方、本作はとにかくカメラがよく動く。特に広角レンズを駆使したFPSゲームのような一人称ショットが印象的だ。

FPS映画といえば『ハードコア』が有名だが、監督のイリヤ・ナイシュラーもまたロシア人監督。ソ連(ロシア)映画のDNAの強さに驚愕する。

動的なショットも散見されるものの、とはいえ半分くらいは『ざくろ』と同様のイマジネーションで画作りをしていたように思う。中盤の天使降臨のシーンなどは『ざくろ』とほとんど大差がない。強烈な眠気に絶えず襲われていたことを正直に白状したい。

作品としての白眉はやはり終盤の「呪術師」の章だろう。土煙とともに牛と老婆が駆けていくショットは圧巻だ。切り返しではなく全てを右側に流すようなショット構成にすることで動きの速度が維持されていて爽快感がある。

ヴィクトル・シェストレム『風』の無音にもかかわらず轟音をもって迫り来る強風や、タル・ベーラ『サタンタンゴ』で歩く二人に向かって吹き付ける突風に並びうる「風」描写だった。

その後の、女の顔のアップからカメラが上方に勢いよくパンした瞬間に轟音が鳴り響き、丘の上の木が燃え盛るショットも本当に素晴らしかった。横軸の動きに視覚を馴致させたうえで不意に縦軸の動きを導入する意表の突き方が絶妙だ。

終盤はとにかく回転が多いと感じた。主人公と死んだ女がグルグル回る木の大道具の中で交感する観念的シークエンスは、見せ方を誤ればとことんチープになってしまうところだが、カメラが上手かった。大道具の回転のみで主人公と女の間に架空の物理的距離を生み出す離れ業には舌を巻いた。

最後の葬儀のシーンも回転で終わる。目の前で面白いことが起きてるんだから動かずにはいられない、というカメラの生命性が全編を通じて迸っている作品だと感じた。

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