「事実と神の罰」陽のあたる場所 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
事実と神の罰
ネットで調べながら観たが、1951年というと、昭和26年の映画か。モノクロである。モンゴメリー・クリフトというのは名前だけなんとなく聞いたことがあったような。早世だったのか。鳥のような顔立ちだと思った。さすがにエリザベス・テーラーはもっと聞いたことがあるが、シェリー・ウィンタースというのは聞いたことも無かった。ちょっと古いアメリカ文化も何も知らない分野だが。序盤は、交際禁止なのに、工場の同僚の男女が偶然映画館で隣り合わせになって、すぐに付き合ってしまうという、なんだか三流な感じで、若干、周囲が現在よりも奔放な交際に厳しいかと察せられるような察せられないような、モノクロの画面も伴って、あまりぱっとしない感じだった。カラー映画にしようか迷ったが、続けて観てしまった。あまり良くはないのだろうが、おおよその結末を観る前から調べてしまい、これはちょっと脳みその活動を、推理の面から減らしてしまうのか。そして、付き合っている工員の女性がいるのに、ひとめぼれしていた身分の高い女性にもひかれてしまい、これでは二股映画である。これではひどいプレイボーイ野郎ではないか。テイラーの大写しをぼかすところが滑稽な気もした。何か得られる映画なのかと不安がよぎった。ただ待ちでキリスト教徒が路上で歌っているところとか、主人公の男の母親もキリスト教徒で、それらが伏線なのかも知れない。エリザベスも別次元の美人という感じも受けない。だが比べればウィンタースが庶民的だという違いは出ている。端的に言えば、付き合っている女性がいるのに(それも交際禁止なのに)、より惹かれる女性から後から気に入られてしまい、悩んでしまうという男の物語だ。もっと端的に言えば二股の話で、ひどい話と言えば酷い話である。◆そして女工員のほうが妊娠してしまう。医師なのかなんなのか、年輩の男性にに泣きながらはじめは結婚していると噓をついたが付き通せず、未婚で妊娠してしまいましたと相談に行く。男には捨てられたと噓は残す。主人公は、ばれたら仕事を俺も失うと女に語る。女は結婚しようと言うのに。主人公の男は悪ではないのか。◆こうした男が二股の悪い男なだけなのに、後世の倫理観の欠けた人は、女優がエリザベスだけだという理由で、そちらのほうを応援してしまう。ここが倫理を狂わせるトリックなのだが、悪いほうに洗脳されるバカが多いのだと思う。困ったものである。地味な女性を妊娠させてしまっているのに、責任をとらず、令嬢と二股で遊んでしまう男。どこが良いのだろうか。主人公は悪者である。それを知るべきである。これでは、美男美女の自然の中でのシーンなど台無しなのである。それを美しいと先に観てしまえる人は倫理観が壊れているだけである。騙されてはいけない。◆令嬢のほうは令嬢のほうで駆け落ちしようとけしかけるし、どうしてこの男はもててしまったのか。思うに、婚前交渉してしまった悲劇でもあるのだと思う。工員のほうの女性は心配してばかりになってしまう。妊娠させられながら二股男をとられてしまった。男は令嬢とともに楽しくやっているところを、工員の女は失意でうつむいて部屋に戻る。◆原作が『アメリカの悲劇』だったらしいが、まさにその通りで、二股するような男や不倫男が悲劇を生み出す。そして、筋が通っていないほうの恋愛を美人の女優のほうにさせることで倫理の破壊を生み出してしまう。ハニートラップのテクニック映画で、まさに悲劇の創出である。悪者は男である。令嬢は女工員の妊娠を知らないのだろう。二人の女を騙している男だろう。◆男はシートベルトはしてないし(わざと書いてはいる)。◆工員の女が怒るのも無理はない。これを工員の女が悪いと錯覚させてしまうのが、そう思ってしまうのが、映画の欠点であり、視聴者の人間の足りなさである。馬鹿な映画評論をした者は多かったのではないか。きっと。◆そして男は工員の女を殺そうとしてしまうのだ。二股や不倫の一つの行先だ。◆そう、乱倫こそアメリカの悲劇であり、日本はそれを見事に真似していった。◆工員の女が夢を語っているのに、男の思惑が殺人とは、ひどい映画でまともな人は精神が錯乱するだろう。ここら辺が昭和26年のアメリカであり、乱倫の始まりだったか。この映画はそれへの警告だったのか。それを後世の人間は、令嬢のほうとを応援してしまうのなら、エゴイズムのためには殺人も良しとしているのだろうか。そんなわけはないだろう。と信じたいが。◆だが問題の事件のシーンはさらに曖昧に混乱させる。バランスを崩して男女一緒に池に落ちてしまい、男だけが助かる。はっきりと男が手を下したようにしなかった。これで精神的にまるでわからなくなってしまう。だが、妊娠させておいて二股をして、殺すつもりで池にボートを出した時点で、殺人をはっきりしたようなものである。工員の女が必死に愛を語るので動揺しているところでバランスを崩したとしてもだ。◆この映画を観て一番怖いのは観た人物が、令嬢とこれで一緒になれて良かったと感じてしまう事だろう。それがアメリカの病であり、日本の病であり、そう思った人の病である。美人を後から出すハニートラップである。◆本当に女の工員を愛していたなら、すぐに報告するだろうに、男は一人だけ陸にあがり、事故の事、女の工員が行方不明、おそらく死んでしまった事を隠してしまっている。これでもう殺人同様なのがわかる。それがわからない視聴者が生まれることが映画のトリックであり弱点となる。弱点どころか犯罪養成である。◆だいたい、人気スターだったらしいエリザベスのほうを令嬢に配役したのが間違いだろう。エリザベスを死ぬ役に配置すべきだった映画だ。それなら倫理性を観客は比較的に考える。◆そして、令嬢とボートに乗れてしまうところの男の無神経がすごい。犯罪者とはそういう者だ。◆この映画が救われるのは、本来は悪い者は罰せられるという倫理はこの映画関係者にもあったからだと信じたいが、警察が主人公を探し出す。主人公の仲間たちも令嬢も一緒のところで事件の噂がささやかれている。◆星5つで評価するなら、倫理観のしっかりわかる人なら4だが、倫理観のわからない人のためには2または1としてでも観ないほうが良い。だが、それが始めからわかる人などいるだろうか。倫理観がわかりながらも、他人の不幸は蜜の味のようなひねくれた感性を持ってしまった現代人のためのストレス解消の映画になっていたとしたらそれもまた恐ろしい。◆女工員が死んでしまってもまるで主人公の男は罪の意識も何も無く、令嬢の父親に令嬢との交際を申し込む。これでもうはっきり男が悪者だとわかるだろうに。◆ここら辺がフィクションの欠点だろう。作り話だからと余裕で観てしまうのだ。その余裕の気持ちは一体なんだろうか。そこを考える必要がある。◆令嬢は警察が追うと、巻いてしまう。スピード違反だと思ったのだろうか。交通違反3度めだと言う。令嬢だってそんなに愛したいほどの人格では無かった。これもアメリカの病か。日本は真似した。◆だが男は警察に捕まるのはストレスに感じているらしい。疲れたと言った。◆だんだん男が精神を失調してくる。令嬢は男の犯行をわかっていないと思うのだが。ここも曖昧だ。失礼な映画だ。◆結局令嬢も騙された口だろうに。ここら辺は危険な映画であった。愛が罪をゆるすなら誰でも先に殺していいのだろうか。いいわけがないだろう。倫理解釈の失敗であろう。◆そして、令嬢が返った後に、警察が追いかけ、結局逮捕される。良かった。妊娠までさせた相手が死んだのに悲しみもしない時点で殺人犯人だと言うことが、主人公の男はわからなくなってしまった。そして令嬢のほうも必死にマスコミからスキャンダルを隠そうとする金持ち連中。日本でも政治や企業のはありそうな話である。きっとあるんだろう。◆だが令嬢の良心は突然失神して倒れるところでみる事が出来、大悪党とは違うところがあった。大悪党は男のほうだった。妊娠までさせておいて、転覆しただけで手を下してないでは、実は成り立たない。令嬢のほうは失意ながら男の写った新聞が燃えているシーンは何を暗示したのだろう。◆当時のアメリカの警察は正義を忘れていなかった。決して冤罪では無いのだ。◆これも職場の男女交際禁止という切っ掛けからなってしまった。死んだ女工員も共謀だったのではあるが。◆鈍器で殴ってはいなかったのでそれは裁判での間違いではあったが、殺してなくても殺したのと同然だったのである。男の人権弁護士が馬鹿な弁護をして行く。男は女工員が死んだことに悲しみも持たず、事情説明に必死になる。ただ、殺そうと内心思っていたが、気が変わったし、出来なかったと、恐らくそれはそうだったのだろうかとも思う。だが、取り返しのつかない事に結局なってしまった。それは二股であったり、不倫であったりする、男の思惑がきっかけだったのだ。
◆大切なのは、自分の保身では無くて、事実でもなくて、死んだ恋人を悲しむ気持ちだったのに。
男にはそれが無かった時点で殺人同様の行為だったのだ。◆そこに至るまでには数々の噓がつかれていた。◆これは冤罪事件だと観ることによってさらに社会は悪化する。そう観る人が多い時代だろう。歪んだ教育や風潮によって。最後に真実を語ったとしても、殺人同様の噓の積み重ねだったのである。◆だが、こんなに難しく複雑に作ってしまう映画の罪だったのだろう。そんな複雑さを求めても、どうしようもない。令嬢は本当に悪男を愛してしまっていたようだ。判決を心配している。◆そして、男は有罪となり、手紙をママに書く。死刑となる。これは冤罪事件とみるような人権主義では社会はさらに悪くなる。ただ、二股や不倫は悲劇をもたらすとみれば良い。そして、悪い男は、妊娠までさせて愛してくれた女が死んだ事にはなんら悲しみを残していなかった。心が麻痺していた。だが、牧師か神父かは、男の心を目覚めさそうとして追及する。女工員の事を思っていたのか、それとも令嬢の事を思っていたのかと。令嬢は刑務所に男を訪ねる。令嬢にしても女工員にしても男を愛していたのだろう。しかし男のほうが、二股をかけてしまった。悲劇だった。昭和26年、1951年の映画には、法律では無く、神の倫理で生きてきた崇高な社会観を残していた。だから、判決は正しかった。冤罪だと観ては間違うのである。そして、最近の日本は、日本人は冤罪事件だとか死刑廃止だと非難するだけだろう。厳しさが欠落してしまい、悪を助長させる、底が浅い時代にいるのである。この映画のタイトルがなぜ『陽のあたる場所』なのか。私も底が浅い時代の人間であるからわからない。