「自分という存在、希求するもの。」ピアノ・レッスン(1993) とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
自分という存在、希求するもの。
歓迎はしてくれるけれど、替えのきく存在。
未開の土地に来てくれる花嫁。こんなところに来てくれる女性はなかなか得難いから、大歓迎なのだけれど、はっきり言って、来てくれるなら誰でもいい(この時代のキリスト教信者で未婚の母を受け入れるほど、条件を下げないと嫁は来ない)。
来たからには、今までの自分を捨てて、この土地に順応することを求められる生活。変わることが前提のこれからの人生。
今までの生活の中にはいなかった存在。
心にしみわたり、新しい扉が開かれるような衝撃を与えてくれる音楽。周りにはいなかった所作・ふるまいに”文明”をまとう女性。周りの人には表情を崩さぬのに、娘に向ける視線、ピアノを弾いているときの豊かさ、そのギャップ。
私でしかない私を、誰もが「変われ」と望み、自分でも変わろうとしたことはあったけれど、とうに変わることはあきらめた私をそのまま、唯一無二の存在として、見つめ、憧れ、求められる。
どちらに惹かれるだろうか。
しかも、一人は、良かれと思ってだが、ずかずかと大切にしている部分に踏み込んでくる。もう一人は、ずうずうしいところもあるが、少しずつ間合いを詰めてくる。
流暢な言葉。でも、魂は響き合わない。朴訥とした言葉。でも響き合う魂。
そしてもう一人、自分だけを見つめていた母の心に、自分だけが母とわかり合えると思っていた母との関係に、別の存在が…。自分だけを見てほしい、自分とだけの関係のままでいてほしい。そう求める娘。
監督は『インザカット』の監督。こちらの作品の方が断然いいです。
女性の官能が、女性目線で見事に描かれています。あまりにも生々しくて蓋をしたくなるほど。
相変わらず、画面の隅から隅まで調度・色彩に拘り抜いた情景描写も心揺さぶられます。
19世紀という設定もあり、ヨーロッパから見た辺境・未開の地にありながら、あのドレスの数々。
海辺に放置されたピアノと母娘。
沼地と言いたくなるような森の掘立小屋との対比。
自然光、燃える火による照明に照らし出される世界。
そしてあのシーンのあの雨。
全てが一枚の画としても美しく、惹き込まれます。
偏屈とも言いたくなるようなかたくななエイダの表情・振る舞い。
演じるは『ザ・ファーム』のあの方!!!
まったく印象が違う。エキセントリックな女性という点では同じだけど。
言葉をコミニュケーションの道具として使わない女性。
表情も考え方も硬い。けれども、とても情感豊かにその心情を表現されています。
ピアノも吹き替えではなく、ハンターさんが弾いていらっしゃるそうです。
何たる役者としての底力。圧巻。
朴訥な男達。
カイテル氏は、『天使にラブソングを…』のコメディタッチとのふり幅の広さに脱帽。
身体を求めあうシーン。
饒舌ではない。なのに、情感豊かな表現力。
あまり説明しない映像・脚本の代わりに、溢れかえるように奏でられるピアノ。いつまでもきいていたい名曲。
くぎづけになります。
子どもの、罪のない行いに端を発する後半の展開には息を飲みます。純粋ゆえに残酷。
そしてラストに繋がる海のエピソードがすべて。それまでの展開はこの為の序章だったのかと思うほど。
「私は何のために生きているんだろうか」を感じさせるあの水中の場面。
エイダの生き方に共感できるかと言われれば、首をかしげるけれど、こんな情熱的な想いには憧れもします。
そして、自分らしい生き方へのこだわり、人と繋がり合うってことについて、考えたくなります。
まぎれもなく傑作です。
共感ありがとうございます。
水中の場面
「私は何のために生きているんだろうか」
まさに目を見開いたときの彼女の声だったように思います。
過去との決別がもたらす自分で選び取る人生が胸にのこるラストでした。