劇場公開日 2021年3月5日

「晴れた日には「異邦人」を読もう」異邦人 pipiさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5晴れた日には「異邦人」を読もう

2021年4月26日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

知的

難しい

日本におけるカミュ研究の第一人者、東浦弘樹氏は表題の著作にて本作の事を
「小説を読んだ者にとっては、いまひとつ面白みに欠ける。
最大の理由は、小説ではムルソーがカメラアイの役目を果たしているのに対し、映画では必然的にムルソーを映す事になるからだ。
マストロヤンニが無表情を装っても観客はそこに何かを読んでしまう。そうなるとムルソーの奇妙な無関心から生まれる小説の味わいは失われてしまう。それを表現出来るのは小説だけなのかもしれない」
と評しています。
まったく見事な指摘だと思われます。

ただ、ヴィスコンティを弁護するならば、故カミュの未亡人が「原作を僅かでも違えない事」を条件に映画化を許可したというから、ヴィスコンティとしては「優れた映画作品」に仕立て上げる為の創意工夫を施す事が許されず、あくまで「小説の挿絵のような」映像化をせざるを得なかったのです。ヴィスコンティにしてみれば、大いに不本意な妥協作品になってしまった事でしょう。
観客としては、原作に忠実であった事は非常に嬉しい事ではありますが、なんといっても鬼才ヴィスコンティですから、その手腕を存分に発揮した作品も観たかった!と切に思います。

アルベール・カミュの生育歴を知れば、ムルソーはカミュの潜在意識が自己投影した姿であると思えます。
息子に対して無関心であった母親を正当化し、子供時代のトラウマを癒す装置こそが『異邦人』であると感じます。

21世紀の世の中を見渡すと、ムルソーは決して異邦人だとは思われません。
ムルソーは、他人に対して必要以上に気を使います。他人を不快にしないように先回りして行動します。しかし、それが「世の常識」には反してしまい奇異の目で見られてしまう。
つくづく人見知りでシャイで不器用なのです。他人への無関心が度を超えている為にマジョリティーの感覚を掴めないのでしょう。(しかし、マンションの隣人の顔すら知らない現代人に相通ずるものがあります)

ムルソーは他者の気持ちに対する想像力が未熟であり、その分、目先の感覚的な欲望には忠実です。
また、己れの感覚に嘘がつけず建前を言わずに、正直過ぎるほど正直に本音で語ります。
それは言ってみれば「無垢な幼い子供」に等しいです。ムルソーは不条理な人間なのではなく「不条理以前」の「純粋な子供」なのかも知れません。

東浦氏は、裁判における検事の大仰な弁舌の滑稽さを説明するのに、チャップリンの『独裁者』を引き合いに出しています。
宗教に寄りすぎる長広舌や芝居じみた身振り手振りを誇張する事により、検事も弁護士も観客の理解を得られません。
観客はムルソーと同じ視点で、法律家達を奇異の目で眺めるのです。ヴィスコンティはこの部分も見事に映像化していると言えましょう。

本作の裁判は、証人も偏っており、正当防衛にも触れられる事なく、まったく奇妙です。しかし、新聞記者として政治絡みの大きな裁判を複数取材して記事にしていたカミュが、裁判の実態を知らないはずはありません。
この奇妙な裁判はムルソーを「純粋無垢な善人」かつ「極刑に処される被告人」という矛盾した存在に仕立て上げる為の仕掛けだったと考えられます。

死刑前、聴聞の司祭に対して、初めてムルソーは激昂します。社会や既成道徳に対する批判や怒りが込められている事はもちろんですが、このクライマックスを通過する事によって、ムルソーは「自分が幸福であった」という気付きに至ります。あろう事か、死刑を目前に控えた今においてさえも「幸福である」と言い放ちます。

作品中、繰り返し登場するキーワード
「無関心」と「幸福」の同一化、癒合がカミュの無意識下のテーマだったのでしょうか?
自分にとって無関心だった母親を正当化し、優しい無関心の腕(かいな)に抱かれる事で世界と和合する。その方法がムルソーにとっては自死だったのでしょうか。
アラビア人殺しのきっかけは、冗談ではなく本当に本気で「太陽のせい」でしたが、その後の彼の行動は「ママン」を理解し、赦し、和解する為の手段だったのかもしれません。その為に必要となる手の込んだ自殺方法だったのかもしれません。

しかしながら、カミュの生きた1900年代初頭に萌芽した「無関心」或いは「過干渉」による幼少期がトラウマになってしまう事例は、それから100年を経た現在、深刻な社会問題に発展したのではないでしょうか。
コロナ禍によって益々、人と人の関わりが希薄になる事が望まれるかのような空気が蔓延しつつある気が致します。
ムルソーの奇妙さは決して不条理ではなく無垢な子供の未熟さによるものであるならば?
昨今の「他者との希薄過ぎる距離感」は決して肯定されるべきものではなく、人類の未来を窮地に陥れかねない危険な風潮であるのでは?

そう感じてしまう自分は、古い人間なのでしょうか?
人間社会におけるコミュニケーション能力や他者共感力の重要性は、改めて真摯に検討されるべきではないでしょうか。

デジタル復刻版を機に、より多くの人々が『異邦人』について解釈を楽しんで欲しいと思います。
その折には原作のみならず、是非とも東浦氏の
「晴れた日には『異邦人』を読もう」を一読する事をお勧め致します。

pipi
シネマディクトさんのコメント
2021年4月28日

フォロー&コメントありがとうございます。私が読んだのは、新潮文庫でした。なるほど、法廷の記者はカミュ自身との解釈も面白いですね。さらにガッテンでした。

シネマディクト
シネマディクトさんのコメント
2021年4月26日

すばらしいレビューですね。改めて異邦人を読み直しましたが、レビューの一つ一つにガッテンでした。文学と映像の比較も深い考察で、文庫本の解説より面白かったです。

シネマディクト
talismanさんのコメント
2021年4月26日

小説では、ムルソーが語り手でしたよね。今日、ママンが死んだ。でしたっけ?語り手を映像に映すのは確かにまずいですね。ヴィスコンティの映画か~?とおもったのですが、カミュ未亡人とそのようなやりとりがあったんですね。なるほど、なるほどが沢山です!

talisman
talismanさんのコメント
2021年4月26日

なるほどー!レビュー、本の紹介、ありがとうございます!

talisman