「人はどうなったか?ではなくどうするか?だ。即ち、結果ではなく生き様だ。」パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー 葵須さんの映画レビュー(感想・評価)
人はどうなったか?ではなくどうするか?だ。即ち、結果ではなく生き様だ。
高校生か中学生頃に英語のテキストの題材として扱われており、気になっていた。気になってはいたが、その頃自分は趣味として主体的に何か映画を借りて見てみるという習慣がなかったため、気になっただけで終わった。それを年月を経て親元を離れ映画を見る趣味を持った今、あの頃気になっていた作品ではあるなと思いながら借りた経緯がある。
結論として面白かった。自分が映画のDVDを借りて鑑賞する時、7割くらいは途中で気が散って他の事をやったり翌日にまた途中から見たりするのだが、115分あるこの作品については、1.5倍速で見ることもなく通してみることができた。テーマ性も良い。パッケージにあるあらすじやカットシーンを見ればその内容は分かるテーマではあるが、医者の本来あるべき姿を問い、患者と同じ視線にたって人を笑わせ助けたいというパッチアダムスの情熱にはすさまじさも感じるものだった。
カリンの結末については衝撃的すぎてえ?となった。視聴後、脚色はあるかもしれないが実話に基づくものであるらしいのでどうしようもない表現ではあった。その事により、カリンにとって彼女の悩みと、それを乗り越える事の意味、実際世界が彼女に起こす出来事の冷徹に見えざるをえない結末について考えざるを得なかった。そして、彼女の出来事を経て挫けそうになりながらも乗り越えていくアダムスを見て、人はみな夢を追いかけ、諦め、励まし合い何かを紡ぎ出すものだが、人にとって重要なのはどうやら事実ではなく意思や夢である事だと教えられた。トラブルや事件、戦争は自然や運命による感情の無く自動的に起こっていく判決のようなもので、それを理由に自分の夢を諦めることはナンセンスなのだ。例えるならば、人は寿命で死ぬが、その事を悲しみ憂い、人=自分の人生に意味はないと思うことがナンセンスなのと同じだ。トラブルや事件、戦争と一括りにして『悲劇的な出来事』を示したが、それは人と人が関わる上でよく起こるネガティブな事象全般にも言える。いじめ・窃盗・殺人・搾取等、全て愚かだから起こりうる話で、それが理由で自分の世界に対して示したかった表現手段、自分の生きる道を閉ざす理由にはならない。残酷に聞こえるかもしれないが、そう思う理由は人が自分に関わるネガティブな事象に自分をあきらめる体の良い言い訳にしているからだ。
見ていてネガティブな意味で疑問に思うようなところもあった。それはパッチアダムスがほとんど勉強してないのに成績で一位を取ることができた事を説明するような描写が一枚もなく、映画を通してみても彼は医学生として勉強を何もしていないように見えてしまうことだ。ワンシーンでも、どんだけ天才だったかを説明する形でのアダムスが勉強するシーンを挿入するべきだったのではと思う(例えばの話、教科書をパラパラとめくるだけで内容を理解していることが分かる描写だとか)。
気になったシーンが一つ。ある出来事の後、アダムスのカバンに蝶が止まっており、カバンから飛び立った蝶がアダムスの指にとまる描写があり、あきらかに蝶は人の魂を表現していると感じたのだが、そういう感覚は日本ではあるとおもうのだが、キリスト文化圏でもあるのだろうか?と気になった。
最後に言いたいのは、ボーナス映像も見た方が良いということだ(アマゾンプライムビデオ等のサブスクリプションでは見られないと思うが)。20分程度の短い映像だが、元となった医者のアダムス本人も少しだけコメントしており、テーマにかかわることで良い事を言っている。ボーナス映像を見て印象に残った内容が三点。1つ目は、医薬とは無関係なもの(笑い、芸術、コミュニケーション等)が治療に役立つということ。2つ目が、小児科で出演していた子どもたちはどうやら本当の患者らしいという事(勘違いなら申し訳ない)。3つ目が、アダムス本人の言葉、『他人の看病に疲れはてる状況を防ぐためのユーモアで、ジョークのためのジョークでは無い』という言葉。