いのちの紐のレビュー・感想・評価
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電話では相手が黒人か白人かわかりようがないのです
観て良かった!とても感動しました 素晴らしい良作です シドニー・ポラックの映画初監督作品 音楽はクインシー・ジョーンズ 彼らしさのあるジャズフィーリングなもので気合いが入っているのがわかる良い出来映えです 邦題は「いのちの紐」、原題は「細い糸」 つまりいのちのダイアルにつながる電話線のことです しかし、それにはもう一つの意味が込められていたのです 冒頭は空撮で始まります アメリカのどこかの都会 といってNY とかシカゴとかシスコ程の大都会では無さそう どこだろうと思っていると、未来的な美しいフォルムの塔が映って、シアトルかと分かります そして公開当時の現代のお話だと分かります それはスペースニードルといって1963年のシアトル万博の時に建設されたばかりのシンボルタワーだからです 今でもシアトルの観光名所ですね この舞台紹介に過ぎないと思えたシーンが、終盤につながりを見せるのは上手い演出でした この時点でもうアン・バンクロフトを出していたのでした 次は主人公のシドニー・ポワチエの登場シーン 大学の校舎の前から学生達に混じって現れます 自転車で隔地の駐車場に向かい、デカいオープンカーで走りだします 彼の服装はボタンダウンにネクタイ、コーデュロイのジャケット姿です 但し肘には革のパッチがありカジュアルさを出しありますし、スラックスはウールですが若干細身のシルエットになっています それでも西海岸シアトルの大学生にしては、東海岸のアイビーリガーのような小綺麗な格好です 周囲の学生はセーターかカーディガン姿、下はコットンパンツです つまり彼はかなりおしゃれで裕福な育ちだけれども真面目なタイプということがものの数分で説明されます このシーンは現代の目でみるとなんの違和感も感じません なので何も感じずにスルーされてしまうと思います ですが当時の観客は、白人も黒人も違和感あるいは感慨を持って観たシーンなはずのです それは白人の学生達ばかりの大学のキャンパスに、黒人の学生がただ一人混じって普通にしているシーンであることなのです そこに驚きがあるのです 本作の公開は1965年 人種差別を撤廃した公民権法の成立は1964年7月のことなのです これこそシドニー・ポアチエの映画だ!というシーンであると思います 本作は主人公が白人でも成立します むしろその方が当時は普通だったでしょう そこを敢えて黒人青年にすることの意味 それこそが本作の本当のテーマだと思います シドニー・ポアチエの名演、熱演、それを引き出した演出は素晴らしいものです そこに名女優アン・バンクロフトが彼を食う程の名演を見せます 舌を巻く、唸る名演とはこのことです そこにテリー・サバラスが絡むのですが、本作での彼は本当に頼もしい博士にみえる演技ぶりです その他にも演技の上手い役者ばかりで大根は誰もいません ストーリーのサスペンスも良く、睡眠薬自殺しようとする女性の居場所の捜索活動は地味な映画ではないかという先入観を覆してくれます 特に電話交換局での逆探知シーンのリアリティは素晴らしいものです アン・バンクロフトの衣装もなかなか垢抜けていて目が楽しく華があります 衣裳デザイン担当はあの伝説のイーディス・ヘッドでした さすがの仕事です シドニー・ポアチエの演じるは黒人であることを、何も主張しません 周囲の人間も何ら気にもしてません 全く同じ人間として信頼し、協力をします そしてボランティアの学生の快挙に賞賛を贈ります 人種差別は影も形もありません そう、電話では相手が黒人か白人かわかりようがないのです そこを不満とするのか、在るべき理想とするのか 意見は別れると思います しかし人種差別のない社会の在るべき姿をもっとも早く提示したシドニー・ポアチエの功績は偉大なものだと思います 彼こそがパイオニアなのです
もう一人の主人公はポワチエの汗だ!
ライフ誌に掲載されていた、シャナ・アレクサンダーの実話をベースに2008年に亡くなった『ザ・インタープリター』『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』のシドニー・ポラックが長編映画初監督作品であり、1966年のアカデミー賞では2部門にノミネートされた。 シアトルの自殺防止協会での会話劇が舞台となっており、主人公は自殺防止協会でボランティアをしていた大学生のアラン。このアランを演じているのが1963年の映画『野のユリ』で黒人俳優として初のアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエである。 そんなアランが留守を任されていて、たまたまかかってきたインガという女性からの電話をとったことから、物語が展開される。 他の電話よりも様子がおかしいと思ったアランは「睡眠薬を飲もつもりではないでしょうね?」と訊ねるとインガは「もう飲んだわ」と答えたことで、アランは大慌て。あくまでボランティアであって自殺をとどめさせる方法もわからないし、すでに睡眠薬を飲んでしまっているから、本当にどうしたらいいかわからない。 1960年代では、今のように逆探知がすぐにできるような環境ではなかった。電話を切られてしまってはもともこもないということで、アランは頭の中をフル回転させて、時には冷静に、時には熱心に、時には丁寧に…あらゆる話術を使ってなんとか居場所を聞き出そうとするが、全く居場所を言う気配もなく、世間話や自分のこれまでのことを話し続けるインガ。 発見が遅れてしまっては、インガが死んでしまうため、とにかくアランは必至に会話から居場所をつきとめようとする。この緊張感はシドニー・ポワチエの汗の量が物語っている。 この映画の難点は、インガというキャラクターを回想シーンを盛り込むことで、見せすぎているという点だ。近年で言えば2018年のデンマーク映画で『THE GUILTY ギルティ』という作品があったが、こちらは極端に電話の相手は全くみせないのだ。とにかく会話の中で観ている側に人物像を想像させるという手法を巧みに使っていて、観ていても飽きなかったが、今作はインガのシーンが長すぎて疲れてしまう。声とエピソードだけで人物像を想像させて、ラストにだけ映るという構図であった方がよかったのではないかと思う。 しかし、シドニー・ポワチエの演技はよって演出されるとてつもない緊張感を味わうことができる映画であることは間違いない。
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